歴史楽者のひとりごと

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長尾景春の乱ー4 終焉

 江古田・沼袋の合戦に勝利した後、戦いの主導権を握ったのは太田道灌です。道灌は関東管領の軍勢を率いて、次々と長尾景春の軍勢を撃ち破りました。
 まさに、関東管領勢の運命は、道灌が一身に背負っていたのです。道灌の活躍によって文明九年五月(1477年)関東管領上杉顕定上杉定正は避難していた上州から五十子陣へ戻ることができたのです。
 態勢を立て直した関東管領勢は、長尾景春鉢形城へ押し寄せ城を囲みました。ところが、文明九年七月、古河公方足利成氏が突如として長尾景春に援軍を出してきたのです。
 それまで、古河公方関東管領勢の内乱を静観していました。古河公方は、敵方が内部分裂し弱体化したところで、攻撃に出て漁夫の利を得ようとしていたのです。しかし、太田道灌の活躍によって、景春方が敗色濃厚になり、古河公方の思惑ははずれてしまいました。
 そこで、古河公方は、景春に援軍を出し、共闘して関東管領勢を倒そうと考えたのです。古河公方は、数千騎の軍勢を率いて出陣してきました。
 このとき、関東管領勢は古河公方の大軍を見て恐れをなし、鉢形城の囲みを解き上州白井城へ退きました。その後、両軍はそれぞれ陣地を移動しながら、決戦の時を探っていました。
 文明九年十二月、古河公方長尾景春連合軍八千騎と関東管領勢五千騎が上州広馬場において対峙しました。ついに大軍勢による一大決戦が始まるかと思われましたが、両軍とも動きませんでした。一説によれば、広馬場に大雪が降り、両軍とも戦意を喪失したそうです。
 文明十年正月、関東管領より古河公方に対して和議の申し入れがありました。古河公方は和議を受け入れ広馬場から軍勢を引き上げました。
 しかし、長尾景春は和議に納得できず、依然として関東管領に反旗を翻していました。太田道灌関東管領勢の軍勢を率いて、景春軍の掃討戦を行いました。戦う度に景春は負けますが、しぶとく逃げ続けます。
 道灌と景春のいたちごっこが続きましたが、文明十二年六月(1480年)太田道灌はついに長尾景春日野城秩父市)に追いつめました。景春にとって最後の拠点である日野城が落城し、長尾景春の乱は終結しました。敗れた長尾景春は、命だけは助かり古河公方に保護されました。
 さらに、文明十四年十二月(1482年)室町幕府古河公方との間で和議が成立しました。これによって、古河公方には関東十カ国のうち九カ国の支配が認められ、堀越公方には伊豆一国の支配が認められたのです。
 亨徳三年に始まった亨徳の乱は、ようやく終結したのです。ちなみに室町幕府古河公方との和議成立を「都鄙の合体」(とひのがったい)と呼ぶそうです。