歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

太田道灌は何故暗殺されたのか

 前回説明したように、太田道灌が暗殺されたのは、扇谷家の台頭を懸念した関東管領上杉顕定が、扇谷家の勢力を弱体化させるために、扇谷家の要である太田道灌を排除しようとした陰謀によるものでした。
 しかし、顕定が道灌暗殺を企てた動機は他にもあると考えられます。それは、顕定と道灌の人間関係です。顕定と道灌の間には確執がありました。その二人の確執を知る手がかりとして重要なのが「太田道灌状」という文書です。
 「太田道灌状」は、道灌が上杉顕定の被官である高瀬民部少輔に宛てて書いた書状です。この文書の中で、道灌は上杉顕定に対する苦言、諫言を数多く述べています。
 たとえば、長尾景春の乱が長引いたのは、顕定が道灌の進言をことごとく退けたことが原因だと訴えています。
 道灌いわく、関東管領は大乱を終結させるための最高責任者であるから、大所高所から戦略を定めるべきであるのに、顕定の周辺にいる凡庸な輩の策ばかりを用いるので、失敗を繰り返すのだと諫言しています。
 もし、顕定が道灌の作戦を用いていれば簡単に勝ちをおさめ、乱を終わらせるこのができたのに、実際はそうでは無かったと、苦言を呈しているのです。
 太田道灌関東管領に仕える一武将でしかありません。その一武将が苦言を呈することとは、大企業の社長に向かって一従業員が苦言を呈することと同じ事です。
 風通しの良い会社であるならば、このような事があるかもしれないですが、通常は考えられないことです。
 道灌は何故、顕定に対してこのような諫言、苦言を呈することができたのでしょうか?それは二人の年齢差にあると思います。
 上杉顕定関東管領に就任したのは13歳の時でした。この時道灌は35歳です。おりしも、上杉勢の長老が相次いで亡くなり、少年である顕定が関東管領の座に就かざるを得ない状況でした。
 恐らく、道灌は顕定の後見人であり、教育者であるという立場にいたのでしょう。しかし、それは顕定が少年の間のことです。
 ところが、道灌は顕定が大人になってからも、その態度を崩さずにいました。道灌からみると、顕定はまだ頼りない存在なのです。
 一方、顕定にしてみれば、道灌から指図を受けなくとも、自分は関東管領の職務をきちんと遂行できると思っていたはずです。逆に、いつまでも子供扱いをする道灌を嫌悪していたでしょう。
 極めつけは、「太田道灌状」の最後の文章で、次の通りです。
「古人に云う、国に三不詳有り、賢人有るを知らざるを一不詳、知って用いらざるを二不詳、用うるも任せざるを三不詳、然らば徳失を准ずれば、任と不任これ有るべく候か、此等の趣き御意を得せしめ給う、謹言恐々」
 この書状は、上杉顕定に向かって「お前は三不詳だ」と言っているようなものです。ここまで言われれば、顕定でなくとも、道灌を排除しようと思うのではないでしょうか。
 もうひとつ、上杉顕定が道灌を暗殺しようとした動機があります。それは、太田道灌の野心です。
 道灌には若い頃から野心があった、と私は考えています。わずかな所領しかない扇谷家の被管から抜け出し、一国一城の主になることを道灌は、目指していたはずです。
 道灌が江戸城を築いた時から、道灌の未来は徐々に開けてきました。品川湊に関わることで得る利益や、荘園に介入して得る利益で、傭兵部隊を組織しました。
 長尾景春の乱における活躍で一躍名を轟かせ、関東の武将たちをなびかせました。さらに、古河公方と接近することもできました。
 都鄙の合体後、文明十七年(1485年)には道灌の嫡子資康が元服し、古河公方に仕えるようになっています。道灌のこの行動は、古河公方を後ろ盾にして、扇谷家から独立しようという意図があったと思わざるを得ません。
 このような道灌の行動を見て、上杉顕定は道灌の野心を見抜いたのです。道灌は軍事の天才で、関東の多くの武将から一目置かれた存在です。ここで、道灌が古河公方の支援を受けて、上杉氏から独立すれば、関東の多くの武将が道灌の味方となるでしょう。そうなると、武蔵国南部に強力な軍事力を持ち、経済的にも豊かな独立勢力が、存在することになるのです。それは、上杉顕定にとって大いなる脅威です。
 顕定は道灌が思っているほど未熟ではなく、冷静で抜け目ない武将であり、幾分陰湿さを持った人物です。自分にとって危険な存在である道灌を、なんとしても今のうちに始末したいと考えたでしょう。
 その顕定を見くびったところに、道灌の落ち度があったのです。
 もしかすると、道灌は顕定の敵意を感じていたかもしれません。ただし、道灌は顕定に対して謀反を起こすことはできなかったでしょう。もし、道灌が謀反を起こしたとしたら、それは長尾景春と同じ事をすることになるからです。
 室町幕府に反旗を翻し、朝敵の汚名を受けるかもしれません。なにより、自分が戦って勝ち取った平和な関東を、再び戦乱の世に戻すことになるのです。道灌は、それだけはできなかったでしょう。道灌の理性的な考え方や、清廉さが最後に死を招いたのだと思います。
 歴史にもしもはありませんが、太田道灌が扇谷家から独立し、江戸城を中心とした武蔵国南部を支配していたら、その後の関東の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
 もしかしたら、北条早雲太田道灌が雌雄決して合戦したかもしれないなどと、楽しい空想ができるのです。
 
 徳川家康がくる前の江戸はどんなところだったのか?という素朴な疑問から始まったのが、この太田道灌シリーズでした。
 家康公入府以前の江戸は、決してわびしい漁村ではなく、江戸城があり、品川湊や江戸湊が繁栄した活気ある都市でした。そこでは、関東全域を巻き込む大戦乱が起こり、江古田・沼袋という現在の東京23区内でも合戦が行われていたのです。そこには、知られざる関東の歴史が刻まれていたのです。
 その関東大戦乱の時代を、鮮やかに駆け抜けたのが、名将太田道灌でした。道灌の生涯を追った、このシリーズも、今回で最終回となりました。これまでお付き合い頂いた読者の方ありがとうございます。
 最後にこのシリーズを書くに当たって、参考にさせて頂いた文献を記載させて頂きます。

「関東古戦録」 槙島昭武 著 久保田順一 訳
関東公方 足利氏四代」 田辺久子 著
「武士はなぜ歌を詠むか」 小川剛生 著
「扇谷上杉氏と太田道灌」 黒田基樹 著
「図説 太田道灌」    黒田基樹 著
「関東戦国史(全)」   千野原靖万 著
「鎌倉大草紙」
太田道灌状」
「永亨記」
 以上