歴史楽者のひとりごと

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太田道灌とはどんな人だったのか


 太田道灌の人物像を話す前に、この時代における関東の支配体制を説明します。関東の頂点に立つのは鎌倉公方です。これは足利尊氏室町幕府を創設した時に、関東十カ国(上総、下総、安房、上野、下野、武蔵、相模、常陸、伊豆、甲斐)を支配するために作った役職で、室町将軍より知行安堵の権限を委譲されていました。

 初代鎌倉公方に就任したのは、尊氏の六男である足利基氏です。その後は基氏の嫡男が代々鎌倉公方世襲することになります。鎌倉公方を補佐する役割としておかれたのが、関東管領です。当初、関東管領には高師冬と上杉憲顕が付きましたが、やがて上杉家が独占して世襲するようになりました。

 上杉家の祖先は京都の公家でしたが、13世紀のころ関東に下向し武士になりました。やがて、上杉家の娘が足利家に嫁ぎ足利尊氏を生みました。尊氏が後醍醐天皇新田義貞と争った時、上杉家の人々は尊氏に協力し大いに活躍しました。その功績もあって上杉家は尊氏より厚い信頼を受け関東で大いに繁栄し上杉一族には多くの分家が生まれました。

 その中の筆頭が関東管領世襲するようになった山内上杉家です。鎌倉の山内という場所に屋敷があったので山内上杉と呼ばれるようになりました。

 道灌が生まれたのは永享4年(1432年)といわれています。父親の太田道真は相模国守護扇谷持朝の家臣で扇谷上杉家の家宰を務めていました。家宰とは江戸時代の家老にあたる役職です。

 扇谷上杉家は上杉一門の中では小さな勢力にすぎませんでが、持朝の時代に飛躍的に勢力を拡大します。持朝を支えていたのが家宰の太田道真でした。鎌倉大草紙は太田道真のことを「東国不双の案者」と伝えています。つまり関東の中で極めて優れた策謀家であったということです。

 その息子である太田道灌は、幼いころから天才少年として将来を期待されていました。鎌倉五山で学問を学び、その成績は非常に優秀であったということです。そのため、山内上杉家から家臣にしたいとの申し出があったそうですが、扇谷上杉家はどんな財産にも代え難いと言ってこれを断ったということです。

 大人になった道灌が歴史の舞台に登場するのは、長禄元年(1457年)に江戸城を築いた時です。道灌は築城学を学び、他に類を見ない優れた城を築いたのです。その時、関東は「亨徳の乱」という大戦乱の中にありました。

 道灌は江戸城を拠点にして力を蓄えます。独自の軍勢を備え、兵士を鍛錬します。やがて江戸城にも危機が迫りますが、道灌の軍勢は敵を次々と撃破していきます。道灌の大活躍によって三十年間続いた戦乱に終止符を打つことができたのです。

 道灌は、優れた武将であるだけでなく歌人としても優れいました。中世の武士は武芸だけではなく、武士のたしなみとして和歌を詠んだのです。時には歌人を招いて歌会を催すこともありました。道灌のもとには室町時代の優れた歌人である万里集九や宗祇などが訪ねてきたのです。

 わが庵は 松原つづき海近く 富士の高嶺を 軒端にぞ見る


道灌作の和歌です。