歴史楽者のひとりごと

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長尾景春の乱ー3 江古田・沼袋の合戦

 文明九年四月十三日(1477年)太田道灌江戸城を出撃しました。目指すのは、豊島泰明がこもる練馬城です。道灌に従うのは、わずか五十騎の騎馬隊。道灌が江戸城内で鍛え抜いたあの精鋭部隊です。
 道灌の軍勢は練馬城の前に陣取ると、豊島方を挑発しました。しかし、泰明は城門を堅く閉ざし応戦しません。そこで、道灌は練馬城の周辺に火を放ち、江戸城へ引き返し始めました。
 その間、泰明は道灌軍の襲撃を、石神井城の泰経へ通報していました。道灌が小勢で出撃している、との急報を受けた豊島泰経は小躍りしました。道灌を討ち取る千載一遇の機会が訪れたのです。すぐさま、泰経は石神井城の軍勢を率いて出撃しました。また、練馬城の泰明にも道灌軍の追跡を命じました。
 練馬城の軍勢と合流した豊島泰経は、二百騎を従えて道灌軍を追跡します。豊島勢の追跡に気が付いた道灌軍は驚き、慌てて逃げ出しました。
 しかし、これこそが道灌の作戦でした。道灌が率いた五十騎は、豊島泰経を石神井城から誘い出すためのおとりでした。道灌は逃げるふりをして、豊島勢をまんまと江古田原に誘い込んだのです。
 豊島泰経が道灌軍を追いつめたと思ったその時、江古田原に待ち伏せていた道灌の別働隊、上杉朝昌の軍勢、千葉自胤の軍勢が一斉に豊島勢に襲いかかりました。
 江古田原は、江古田川と妙正寺川の合流点です。二つの川はここで合流し、湾曲して南へ流れていきます。気が付くと、豊島勢はこの湾曲部に誘い込まれ、川を背にしていたのです。
 道灌の軍勢は豊島勢を川岸へ追い込み、次々と討ち取りました。豊島勢は泰明が討ち死にしたほか、百五十騎を失ったのです。かろうじて生き残った泰経は、石神井城へ逃げ込みました。
 翌日、道灌の軍勢は石神井城を取り囲みました。前日の合戦で戦力を失った豊島泰経は降参し、恭順の証として石神井城を破却することを誓いました。
 ところが、泰経が一向に約束を履行しなかったので、道灌は石神井城を攻撃し、城を破壊しました。しかし、卑怯な泰経は夜陰に紛れ城を脱出したのです。
 豊島泰経を取り逃がしたとは言え、江古田・沼袋の合戦で太田道灌は鮮やかに勝利をあげました。豊島勢を殲滅し、江戸城河越城の連絡を復活したのです。道灌の名は一躍関東に鳴り響きました。

 東京都中野区にある江古田川と妙正寺川の合流点には、江古田・沼袋合戦の石碑があり太田道灌の勝利を今に伝えています。
 ここから江古田川沿いに南下していくと、西武新宿線沼袋駅に行き当たります。駅前にある氷川神社は、この合戦の時に太田道灌が本陣をおいた場所と云われています。
 かつて氷川神社の境内には、道灌が戦勝を祈願して植えた二本の杉の大木がありました。道灌杉と呼ばれていた二本の大木は枯れてしまいましたが、名将太田道灌の活躍は、朽ち果てることなく現代に伝わっているのです。