歴史楽者のひとりごと

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長尾景春の乱ー2 道灌ついに動く

 長尾景春が挙兵した後、太田道灌駿河から江戸へ戻っていましたが、江戸城から動きませんでした。上杉顕定が、道灌の献策を取らなかったことに対してへそを曲げていたのです。
 しかし、道灌がじっとしていられない事態が起きました。豊島泰経・泰明兄弟が景春の挙兵に呼応したのです。豊島兄弟は石神井城と練馬城に立てこもりました。そうなると江戸城河越城の連絡が分断されてしまうのです。
 豊島兄弟が反乱に加わった理由は、太田道灌に対する敵意でした。豊島氏は源平の昔から武蔵国に在住する国人で、石神井城を中心に豊島郡一帯を領有し、その支配権は江戸方面にも及んでいたのです。
 しかし、太田道灌江戸城を築き在城するようになると、江戸周辺の支配権は道灌に移されました。
 豊島泰経は関東管領に従っていたので、武蔵南部の支配権が太田道灌に移ることを、やむを得ず容認していたのです。しかし、先祖代々受け継がれてきた支配地を新参者の太田道灌に奪われ、泰経の心中は穏やかでは無かったでしょう。そこで、長尾景春の反乱に乗じて太田道灌を討ち、武蔵南部の支配権を取り返そうとしたのです。
 豊島兄弟が敵対したことで、道灌はついに動きます。文明九年三月(1477)石神井城を攻撃するため、道灌は相模の軍勢を密かに呼び寄せました。しかし、大雨で多摩川が増水したので相模勢は渡河できません。
 そこで作戦を変更し、景春に同調している溝呂木城(厚木市)を攻撃させました。溝呂木城はあえなく陥落します。続いて道灌は小磯城(大磯町)へ軍勢を派遣し、ここも落城させました。
 道灌軍の攻勢に対し、長尾景春は反撃しようと小机城(横浜市港北区)の矢野兵庫助に命じて、河越城を攻撃しようとしました。しかし、河越城の軍勢は矢野勢の動きに気が付き、城から出撃して矢野勢を打ち負かしました。
 一方、太田道灌江戸城において豊島兄弟を攻略する作戦を練っていました。豊島泰経が立てこもっているのは石神井城です。城跡は現在の石神井公園のなかに、ひっそりと残っています。
 石神井城は平城ですが、南に石神井川が流れ、北には三宝寺池があり、天然の防御施設となっていました。特に、三宝寺池は広大な湿地を形成しており、北から城を攻撃するのは不可能でした。
 豊島泰経が石神井城に立てこもっているかぎり、道灌に勝機は見いだせません。道灌はなんとしても豊島泰経を城外に誘い出す必要があったのです。