歴史楽者のひとりごと

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長尾景春の逆心

  文明三年三月(1471年)古河公方足利成氏足利政知を攻撃するため、伊豆に軍勢を派遣しました。堀越公方の危機に際し、関東管領上杉顕定は援軍を出し、古河公方の派遣軍を三島で破りました。
 三島での大勝に勢いづいた上杉顕定は、長尾景信に大軍を授け、古河城を攻撃しました。関東管領の大軍に攻め寄せられた古河城は防戦一方になり、ついに陥落しました。
 足利成氏は城を脱出し、佐倉へ逃れました。成氏にとっては初の大敗ですが、動揺しませんでした。成氏の周囲には依然として、味方になる武将が数多くいたのです。結城氏をはじめ、安房の里見氏、上総の武田氏、松戸の原氏、古河の野田氏、関宿の梁田氏、騎西の佐々木などが成氏のもとに結集し、古河城を奪還しました。
 文明四年春(1472年)足利成氏は古河城の仕返しとばかりに、関東管領の本拠地である五十子陣を攻撃します。五十子陣では両軍の激しい攻防が繰り返されました。その激戦の最中、文明五年十一月(1473年)扇谷家の大将である上杉政真が討ち死にしました。
 政真の死後、扇谷家の家督を継いだのは上杉定政です。この上杉定政こそは、後々太田道灌の運命を大きく左右人物なのですが、そのようなことは露とも知らない道灌は扇谷家の家宰として定政を支えていくのです。
 同じ頃、山内上杉家の家宰である長尾景信も亡くなりました。家宰は山内上杉家の家政を取り仕切るのはもちろんの事、時には関東管領の職務を代行することもあり、非常に大きな権力を握っていました。それだけに、景信の後、誰が家宰の地位に就くのかが注目されました。
 これまでは、景仲、景信と二代続けて白井長尾家が家宰の地位に就いていました。このため、景信の嫡男である長尾景春は、当然自分が家宰になるものだと思い込んでいました。
 しかし、上杉顕定が家宰に指名したのは惣社長尾家の長尾忠景でした。顕定は白井長尾家に権力が集中し、強くなりすぎることを恐れたのです。13歳で関東管領に就いた上杉顕定はこの年で二十歳になっていました。戦乱のなかで成長した顕定は、他人を信用せず冷徹な判断を下す武将になっていたのです。
 山内家の家宰になれなかった長尾景春は、大いに不満をつのらせました。家宰職には数多くの利権が付いています。その利権を手にすることができなかった景春は、上杉顕定に逆心を抱きました。
 長尾景春の中に生まれた上杉顕定への恨みは、亨徳の乱の流れを大きく変える事態に発展するのです。