歴史楽者のひとりごと

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古河公方の誕生と江戸城完成

 亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を鎌倉で謀殺、ついに亨徳の乱が始まりました。島ヶ原の合戦、分倍河原の合戦で敗れた上杉勢は、上杉憲顕、上杉顕房など大将格の武将を失い、常陸国へ敗走し小栗城へたてこもりました。
 序盤の勝利に勢いを得た足利成氏は、上杉勢を殲滅すべく追撃に移りました。成氏は下総の結城城に着陣し、小栗城への攻撃を開始します。成氏の快進撃は止まらず、亨徳四年五月(1455年)に小栗城は落城しました。
 関東管領謀殺の知らせを受けた室町幕府は直ちに駿河守護の今川範忠に足利成氏の追討を命じました。亨徳四年四月(1455)、範忠は京都を出陣しました。錦の御旗を掲げた範忠は東海五カ国の軍勢を従えて鎌倉へ進軍。同年六月に鎌倉へ乱入しました。
 この時、足利成氏は結城城に布陣しており、鎌倉にはわずかな軍勢しか残っていませんでした。
 今川の軍勢はやすやすと鎌倉を陥れ、鎌倉御所や寺社に火を放ちました。源頼朝公に始まる鎌倉の繁栄はここに潰えました。
 しかし、鎌倉を失った成氏は動じませんでした。成氏方の武将の多くは、下野、常陸、下総の武将です。成氏は自軍の勢力圏内に、新たな本拠地を定めることにし、下総古河城に入りました。これ以降、足利成氏古河公方と呼ばれるようになります。
 一方、上杉勢は、亡くなった上杉憲忠の弟である上杉房顕が山内上杉家督を継ぎ、関東管領に就任しました。上杉勢は五十子(埼玉県本庄市)の砦を強固に補修し、ここを本拠地としました。戦いの序盤で古河公方の軍勢に圧倒された上杉勢は態勢の立て直しが急務でした。
 そこで、太田道真、道灌の親子に命じて、河越、岩付、江戸に城を築かせたのです。長禄元年(1457年)に三つの城が完成し、利根川沿いに上野、武蔵、相模という勢力圏を守る防衛ラインを構築することができたのです。特に、江戸城はわずか一年で完成しました。
 まさに、太田道灌江戸城を築城した理由はここにあったのです。それは、攻勢をかけてくる古河公方の勢いを止め、利根川の水運を確保し、関東内陸部へ物資を運ぶ為の軍事拠点であったのです。短期間で強固な城を築く為に、道灌は秘術の限りを尽くしたと云われています。
 こうして、利根川を挟んで東に古河公方勢、西に関東管領勢が対峙する構図ができあがったのです。両陣営が防衛ラインを構築したことで戦いは膠着状態に陥りました。