歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

亨徳の乱勃発 分倍河原の合戦

 江ノ島合戦の後、鎌倉公方関東管領の和議は成立しましたが、両陣営の対立は深まるばかりでした。領地を失った武将の中には、勝手に他人の領地を奪う者が続出し、関東では領地争いが絶えませんでした。。
 鎌倉公方足利成氏室町幕府から権力の制限を受けていたので、関東の所領争いを的確に裁くことができませんでした。また、本来ならば鎌倉公方を補佐する立場にある関東管領上杉憲忠は、成氏と対立していたので、成氏の指示に従いませんでした。
 このまま事態を放置していれば、関東は無法地帯と化し、鎌倉公方の権威は失墜してしまいます。この危機的状況を打開するために、成氏は憲忠を排除することを決意したのです。
 折しも、上杉方が足利成氏を討つために上野国で軍勢を集めているとの知らせが、成氏のもとにもたらされました。これを聞いた成氏は、素早く反応しました。
 足利成氏は、非常に勝負勘の鋭い武将であると思います。勝機と見ればすかさず軍勢を動かすことができるのです。
 この時もそうでした。鎌倉の憲忠のもとには上杉の軍勢がいませんでした。上杉勢は領国の上野や相模で、成氏を討つべく軍勢を集めている時でした。鎌倉の憲忠のもとには二十人ほどの手勢がいるだけでした。
 亨徳三年十二月二十七日(1454年)関東管領方の守りが手薄であることに気がついた成氏は、三百騎の軍勢で憲忠を急襲しました。不意をつかれた憲忠方は、なすすべもなく全員が討ち取られました。
 これが亨徳の乱の始まりです。これ以降、関東は三十年もの間戦乱が続くのです。
 上杉憲忠を討った足利成氏は、すぐさま次の行動にでます。
 関東管領方の上杉持朝、長尾景仲、太田道真は相模の軍勢一千騎を集め、相州島ヶ原(神奈川県平塚市)に陣取っていました。
 亨徳四年正月六日(1455)成氏は武田信長、一色宮内大輔に三百騎を与え島ヶ原の上杉勢を襲撃させました。上杉勢は敵が小勢であるので、よもや攻めてくることはあるまいと油断していました。そこへ武田・一色勢の急襲を受けたので、上杉勢は大混乱に陥りました。武田・一色勢が一気呵成に攻め立てたので、上杉勢は戦況を挽回できず、上野と河越へ敗走していきました。
 同年正月五日、成氏自身は一千騎を率いて鎌倉を出立し上野の軍勢を迎撃すべく、府中の高安寺に布陣しました。上杉勢は憲忠の弟の上杉房顕を大将とし、上野勢に加えて越後上杉の援軍を得て二千騎で府中の分倍河原へ進軍してきました。
 これを見た成氏は精鋭五百騎を率いて分倍河原へ出撃しました。成氏の電光石火の攻撃を受け、上杉勢は浮き足立ち、大将格の上杉憲顕が深手を負い自害しました。
 翌日の合戦でも、成氏軍の勢いは止まらず
結城、小山、武田、村上といった成氏軍の精鋭部隊が次々と波状攻撃を仕掛け、上杉軍は総崩れとなりました。上杉の軍兵は敵に背を向け我先にと逃げ出しました。これを見た上杉顕房は「きたなしかえせ」と馬上で叫びましたが、誰も戦場に留まる者はいませんでした。敵に囲まれた顕房は深手を負い自害しました。
 分倍河原の合戦で、複数の大将格を失い大敗した上杉勢は、常陸国へ敗走し小栗城に立てこもりました。

 この分倍河原とは、云うまでもなくJR南部線の分倍河原駅付近のことです。駅前には新田義貞公の銅像があることをご存じの方も多いでしょう。
 ここは、建武新政の時に新田義貞の軍勢が北条軍を破った合戦場でもあります。分倍河原は、武蔵国から鎌倉へ至る鎌倉街道の途上で、多摩川の渡河地点にあたるので軍勢がぶつかりやすい場所でした。また、河原が広がっているので戦場となりやすかったのです。