歴史楽者のひとりごと

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太田道灌の最期 当方滅亡

 文明十七年十月(1485年)太田道灌は美濃の歌人万里集九を江戸城に招き歌会を催しました。長い戦乱が終結し、道灌はひとときの平和を楽しんでいました。
 しかし、その裏では暗い陰謀が巡らされていました。関東管領上杉顕定上杉定正をそそのかして道灌を暗殺しようとしていたのです。
 顕定は、扇谷上杉家が勢力を拡大してきたことを懸念していました。もともと上杉家の傍流である扇谷家は、小さな勢力にすぎませんでした。
 ところが、扇谷家は上杉持朝のころから徐々に勢力を伸ばし、今では山内家と肩を並べるほどになっています。古河公方との勢力争いに決着がついた後、顕定は次の敵として扇谷家をとらえていたのです。
 扇谷家の勢力拡大の原動力は、太田道灌です。長尾景春の乱における道灌の活躍は際だったものであり、多くの武将が道灌を武神のごとく崇めていました。
 顕定は扇谷定正と争いを始める前に道灌を暗殺し、扇谷家の戦力を弱体化させようと考えたのです。そこで顕定は、「道灌に謀反の意あり」という偽の情報を定正に流したのです。
 思慮の浅い定正は、この情報を真に受けました。定正自身も、道灌の台頭に恐れを抱いていたのだと思います。また、定正が密かに家中の者に意見を求めると、多くの者が道灌暗殺に同意したのです。道灌の活躍は、同僚である扇谷家の家臣に妬まれていたのです。こうして、道灌暗殺は実行に移されたのです。
 文明十八年七月二十六日(1486年)上杉定正太田道灌相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の扇谷館へ招き暗殺しました。道灌は風呂に入るところで、定正の家臣に切られたのです。死ぬ間際に道灌は「当方滅亡」と叫んだと伝えられています。その叫びは「私を殺してしまえば、扇谷家もお終いだ、滅亡するぞ」という意味でした。
 戦国時代前夜、関東を駆け抜けた名将太田道灌の無惨な最後でした。品川湊の恩恵を受け江戸城を築き、傭兵部隊を鍛え上げ、亨徳の乱を終結させた英雄は、志半ばにして命を落としたのです。享年五十五歳でした。

 太田道灌墓所は終焉の地である神奈川県伊勢原市にあります。墓は二カ所に分かれており、洞昌寺には胴塚があり、大慈寺には首塚があります。