歴史楽者のひとりごと

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道灌はファンドマネージャー!?

 享徳の乱の勃発が太田道灌に活躍の機会を与えました。ただし、道灌の置かれたた立場は、関東管領の傘下にいる扇谷上杉家の家宰として主人の命令に忠実に従うというものでしかありませんでした。

 

荘園への介入

 江戸城築城後、道灌は扇谷上杉家の勢力を南関東に拡大するため精力的に活動を行います。それは南関東に存在する荘園への介入でした。荘園は貴族や有力な寺社が寄進された土地を所有しているものです。荘園は不輸・不入の権が保証されているので守護大名などが年貢を徴収したり人夫を徴発することができません。

 勢力拡大を目論む守護大名にとって支配地域に荘園があるのは厄介なことでした。そこで守護大名は荘園に介入することを思いついたのです。前述したように荘園を所有しているのは貴族や寺社です。しかし、所有者は直接荘園を管理している訳ではなく、その地域にいる有力者に荘園の管理を請け負わせていました。荘園の管理を請け負う者のことを代官といいます。

 守護大名が目をつけたのは、この荘園の代官になることでした。代官になってしまえば荘園から戦費調達のための税金を取ったり、砦を構築するために人夫を徴発することができるようになるのです。

 太田道灌は武力にものを言わせ強引なやり方で代官になったり、あるいは息のかかった者を代官に斡旋することで荘園に介入していたのです。

 しかし、このような暴力的なやり方は頭脳明晰な道灌のイメージに合わないですよね。ここから先は私の勝手な推測ですが、道灌はもっとスマートな方法で経済的な利益を得ていたのではないかと思うのです。

 

経済活動で太田家の収益を上げる

 この時代日本では永楽通宝などの明銭が流通し貨幣経済が成立していました。荘園の年貢は米で納めるのではなく、銭で納めるようになりました。米は市場で取引され高値で売買することも可能でした。道灌はこのような経済状況を利用して荘園の経営を請け負っていたのではないでしょうか。荘園領主に対して一定の収益を上げることを約束して荘園の経営を請け負い、米は市場で売買することで高い収益を上げて約束した年貢を納め、残った余剰利益を自分の収益として取り込んでいたのではないでしょうか。つまり、道灌は現代のファンドマネージャーのような活動をしていたのではないかと思うのです。

 道灌にはそうまでして収益を上げたい切実な理由がありました。太田家の所有する領地は少なかったと伝えられています。したがって直属の軍勢も小規模なものでしかなかったでしょう。小さな軍勢では戦場で大きな手柄を立てることができません。しかし領地は簡単には増えません。手をこまねいていては、一生うだつの上がらない生活が続きます。そこで道灌は経済活動で得たお金を使って兵士を雇うことにしたのです。

 

傭兵隊長 道灌

 これも私の勝手な推測ですが、道灌は家を継ぐことのできない農家の次男坊や三男坊、あるいは戦禍で家を失った者など行き場のない若者を集めて道灌直属の軍勢を組織したのだと思います。前述した万里集九の詩文「静勝軒銘詩並序」のなかには道灌が江戸城内に弓の訓練場を作り、数百人の兵士に弓を射る訓練をしていたと書いてあります。弓を射る技術の高い者から3段階のランクに分けて評価を下し、訓練を怠っている者からは罰金を徴収したということです。集めた罰金は兵士たちのお茶菓子代に使っていたそうです。また鉦を打ち鳴らして陣形を組み、槍を繰る訓練も月に三度おこなっていました。非常に厳しい訓練だったそうです。

 このようにして厳しく訓練された道灌直属の軍勢はやがて大活躍をし大きな戦果をあげることになるのですが、それはまだ少し先の話です。