歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 源義綱 源義光

 源義家八幡太郎と呼ばれたのは、石清水八幡で元服したからです。義家の二人の弟も通称で呼ばれました。次男義綱は賀茂神社元服したので賀茂次郎と呼ばれ、三男義光は新羅明神元服したので新羅三郎と呼ばれました。
 二人のうち新羅三郎義光甲斐武田氏の先祖であることは、歴史ファンの皆さんならよくご存知のことだと思います。
 義家が後三年合戦を始めたとき、義綱は参戦せず都に残ったのですが、義光は都での官職を捨て奥州へ向かいました。当時、義光は都で左兵衛尉に任じられていました。朝廷は後三年合戦を義家が起こした私戦とみなしていたので、官吏である義光が参戦することを禁じたのです。
 しかし、義光は朝廷の指示を無視して、苦戦している兄義家を助けるために後三年合戦に加わったのです。そのため、義光は左兵衛尉を解任されたのです。
 後三年合戦の後、義光は再び官職に就くことができました。ただし、義光は都にじっとしていることができず、坂東に下向しそこに居座ってしまったのです。義光が都に落ち着くことができなかった理由は、都では義綱が重用され、義光は出世の糸口を掴むことができなかったからです。
 そこで、義光の息子たちは常陸国の豪族と結びつき土着しました。長男義業は那賀郡佐竹郷に土着して佐竹氏の始祖となりました。
 三男義清は久慈郡武田郷に土着して武田氏と称しました。ところが、義清は妻の実家である吉田氏や鹿島神宮の大禰宜家との間に勢力争いを始めました。さらに、義清の息子清光が乱暴狼藉を働いたので、朝廷から処罰を受けて甲斐に流されたのです。
 しかし、義清・清光親子は甲斐国では快く受け入れらました。彼らは甲斐で勢力を拡大し、甲斐武田氏の基礎を築くことができたのです。甲斐武田氏は、戦国時代に騎馬軍団として君臨しましたが、そのルーツは坂東武者にあったのです。馬上騎射することはなくとも、甲斐の騎馬武者には坂東武者の兵の道(つわもののみち)が伝わっていたのです。
 このようにして、清和源氏の庶流は坂東に土着して坂東武者となりました。甲斐武田氏常陸佐竹氏の他に、義家の孫の義重が新田氏の始祖となり、義重の弟の義康が足利氏の始祖となったのです。
 新田義重は生涯を上野国で過ごし地道に努力して領国経営に力を注ぎました。他方、足利義康は栄達を求めて都へ上り、保元の乱では源義朝とともに後白河天皇方につき官位を賜ったのです。
 新田氏と足利氏それぞれの始祖の生き方の違いが、およそ二百年後の建武新政の時に両者が争い合うことの遠因をつくったのかもしれません。

 さて、次に賀茂次郎義綱の話をします。次男である義綱の話を後回しにしたのにはわけがあります。一般的に、源義綱についてはあまり知られていないのではないでしょうか。実のところ、私も今回調べるまでは、源義綱についてほとんど知識がありませんでした。
 調べてみると、源義綱の生涯は、後に鎌倉幕府を開く清和源氏の歴史に暗い影を落としています。そのために、賀茂次郎義綱の名は歴史の片隅に追いやられたのではないでしょうか。その理由は、義綱の行動が清和源氏の中に内紛をもたらし、源氏衰退の原因を作ったからだと私は考えます。
 義綱は政治感覚に敏感な武将でした。大義名分のあった前九年合戦には、義綱も参戦し戦後は左兵衛尉に任じられています。
 しかし、後三年合戦に際しては参戦していません。兄義家が苦戦しているにもかかわらず、朝廷から私戦とみなされた大義名分の無い戦いには加わらなかったのです。むしろ、兄義家に対する朝廷の評価が下がっているうちに、自分の勢力を伸ばすために都で積極的な活動を行っているのです。
 後三年合戦の後、義家が朝廷から遠ざけられると、義家と義綱の対立は深刻化し、寛治五年(1091年)には両者が京で軍事衝突しそうになりました。このときは、両者とも矛先を納め事なきを得たのですが、その後も義綱は源氏に内紛をもたらしました。
 天仁二年(1109年)義綱は、義家の子義忠を殺害した罪に問われ佐渡に流されたのです。その後、義綱は都に戻ったのですが最期は自殺したそうです。
 このような一族の内紛によって、清和源氏は都での勢力を失いました。そして、源氏にかわって台頭してきたのが伊勢平氏平正盛です。
 そのころ、源義家の子義親は対馬守として北部九州に勢力を張り海上交通を掌握していたのですが、このことで太宰府と対立し朝廷に敵対することになりました。賊徒となった源義親を討伐したのが平正盛です。義親討伐で名を上げた正盛は、白河上皇と結びつき都での勢力を拡大したのです。