歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

坂東武者の系譜 源義朝

 2019年3月21日偉大なメジャーリーガーイチローが引退しました。メジャーリーグに挑戦した天才打者イチローは、打撃成績において次々とMLBの記録を塗り替えました。イチローの活躍は日本人はもとよりアメリカの野球ファンにも多くの感銘を与えたと思います。
 まさに、イチローは現代のスーパースターです。かつて、これほどまで多くの人々を魅了した偉大なヒーローが日本にはいたのでしょうか?
 歴史上の人物とイチローを比較するのは困難なことですが、敢えてイチローに匹敵するヒーローを挙げるとするならば、その一番手に挙がるのは源義家だと思います。
 前九年合戦において鬼神のごとき活躍をした義家は「天下第一の武勇の士」と呼ばれ多くの人々から賞賛されました。
 しかし、後三年合戦では戦いに勝利したものの、朝廷から私戦を行ったとみなされた義家は、恩賞を賜ることはできませんでした。
 ところが、源義家に対する朝廷の処遇に憤慨した全国の人々が、義家に土地を寄進するという行動に出たのです。義家の人気は非常に高く、あまりにも多くの人々が義家に土地を寄進したので、朝廷はこれを法律で禁止したほどです。
 平安時代の人々にとって、源義家は、奥州にいる恐ろしい強敵を倒した偉大な英雄だったのです。
 その英雄源義家の曾孫に当たるのが源義朝です。義朝は少年時代に坂東へ下向し「坂東ソダチモノ」と呼ばれていました。義朝が坂東で育てられたということは、源為義の長男でありながら、源氏の棟梁の家督を継ぐ立場になかったことを示しています。
 源義親の反乱以来、源氏の勢力は衰退していました。ここでまた、源氏一族の中から乱行を働く者が出てくれば、源氏は滅亡しかねない状況におかれていたのです。
 源義朝はその後の行動からもわかるように武力にものを言わせるタイプの人間です。そのため、源氏の嫡子として都に住まわせておくことは危険だと判断され、板東へ送られたのでしょう。
 しかし、嫡子の座を追われた義朝はその不遇な境遇に甘んじることなく、自らの人生を切り開きました。荒々しい気風の板東で育ったことが、むしろ義朝には幸いしたのです。坂東で義朝を迎えたのは、上総国の有力な武将である上総氏でした。上総氏は房総平氏の祖である平忠常の直系の子孫で、まさに板東武者の中の坂東武者です。
 やがて、義朝は相模の有力武将である三浦義明の婿となり、鎌倉を本拠地とします。上総、相模の武士団を手中にした義朝は、その武力を大いに活用して近隣の武士団を次々と従え、強力な東国武士団を作り上げることができたのです。
 義朝の手法はかなり強引なものでした。たとえば、下総国相馬郡千葉常重の領地でしたが、義朝は上総常澄と結託して、千葉常重に圧力をかけ相馬郡を我がものとして、伊勢神宮に寄進し、自らが相馬御厨の下司職になるといった具合でした。
 義朝がこのような強引な手法がとれたのは義朝自信が武勇に優れた武将であるのはもちろんのこと、その背景に都の摂関家との繋がりがあったからです。義朝の父為義は、摂関家に仕えていました。義朝は摂関家の後ろ盾を得て、源氏の勢力を拡大していたのです。
 一方、在地の武士たちは、源義朝を武士団同士の紛争調停者として利用し、自分たちの勢力を拡大しようとしました。摂関家の後ろ盾がある義朝に従って行動すれば正当性がついてきたのです。
 坂東での勢力を拡大した義朝は、熱田大宮司家から正妻を迎えます。この婚姻が義朝の人生に大きな転機を与えます。熱田大宮司家は鳥羽天皇との関係が深い家柄でした。
 やがて、義朝は都へ上り鳥羽上皇に仕える機会を得ました。鳥羽院と結びついた義朝は出世し、仁平三年(1153年)下野守に就任しました。河内源氏の嫡男の座を追われ坂東に下向していた義朝が、国司の地位に就くことができたのです。
 このようにして、義朝は不遇な境遇から脱出し、都で栄達の道を歩み始めました。しかし、それは藤原摂関家から遠ざかることでもありました。父為義や兄弟たちが藤原摂関家につく一方で、義朝は鳥羽院と結びつき独自の道を歩み始めたのです。それが保元の乱における親兄弟の対決という悲劇を生み出したのでした。
 保元元年(1156年)日本の歴史上初めて平安京で武士同士の大がかりな合戦が行われました。祟徳上皇藤原頼長の勢力と後白河天皇に組みする勢力の対決でした。
 その結果、祟徳上皇側が敗れ、上皇側についた源為義一族は処刑されることになりました。後白河天皇側についた源義朝は実の親兄弟を処刑しなければならなかったのです。義朝は大きな犠牲を払いながら、源氏の棟梁の地位を取り戻したのです。
 保元の乱の後、朝廷の中では信西藤原信頼の権力争いが起こります。源義朝はこの権力争いに巻き込まれることになりました。
 藤原信頼陸奥守や武蔵守を歴任しており東国に大きな影響力を持っていました。その関係もあって義朝は藤原信頼派についていました。対する信西派には平清盛がついていました。
 この時点で、権力争いの主役はあくまでも藤原信頼信西でした。義朝と清盛は対立派閥の武力を担っている立場だったのです。
 平治元年(1159年)12月平清盛が熊野詣に出向いた隙をついた藤原信頼と義朝は、信西を急襲し討ち果たしました。藤原信頼と義朝の企ては成功し、一旦は権力を手中に収めることができたのです。
 しかし、藤原信頼派の勝利はつかの間のことでした。大軍勢を率いた平清盛が熊野詣から戻って来ると、形勢は逆転しました。藤原信頼派は大敗を喫しました。源義朝は東国へ逃れる途中で裏切りにあい、命を落としました。また義朝の嫡男頼朝は、捕らわれて伊豆に幽閉されたのです。
 保元・平治の乱は、貴族同士の権力争いに武士の力を持ち込みました。このことが、武士の時代を切り開く契機になったのです。そして、武士の時代の幕開けを勝利で飾ったのは平清盛でした。