歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 源義家

 前回の記事で、源頼義平直方の娘が嫁いだという話をしました。この婚姻は、清和源氏にとって非常に重要な出来事です。
 平直方桓武平氏中興の祖である平貞盛の孫であり、坂東に根を広げた貞盛の流れをくむ平氏一族の中心的存在でした。直方は平忠常の乱の鎮圧に失敗し、都での威勢は衰えたものの、坂東における平氏一族の中心的存在でした。
 一方、平忠常の乱を見事に平定した源頼信は、坂東武者と主従関係を結んではいたものの、坂東に定着しているわけではありません。そのため、坂東武者との結びつきが強固であるとは言えませんでした。
 清和源氏は坂東に土着していないが故に、天皇の子孫であるという貴種性を保ってきました。しかし、坂東という土地を直接支配していないので、勢力の拡大には限度が合ったと思われます。
 それが、源頼信の息子である頼義と平直方の娘が婚姻関係を結んだことで、清和源氏は貴種性を保ちながらも、坂東武者と堅い絆で結ばれることに成功したのです。
 源頼信平忠常とも主従関係を結んでいたので、頼義が直方の娘と結婚したことで坂東における平氏の二大勢力と結びつき、彼らを傘下におさめることになったのです。これによって、源氏が坂東武者の棟梁となり、坂東平氏がその配下につくという図式が生まれたのです。こうして、坂東に確固たる基盤を築いた清和源氏が次に目指したのは、奥羽への進出でした。

 11世紀の始めころ、奥州では俘囚の長といわれた安倍頼良が衣川から北の奥六郡を支配していました。
 永承六年(1051年)安倍頼良は衣川の関を破って南下し、奥羽を支配しました。これに対して朝廷は、源頼義鎮守府将軍として派遣し安倍頼良を討伐しようとしました。
 奥州に進軍してきた源頼義に対して、安倍頼良は恭順の意を示し、頼良から頼時と名前を改めました。その後、源頼義陸奥守に着任し、4年の任期を過ごしました。その間の奥州は平穏な情勢が続いたのですが、頼義の任期が終わる天喜六年(1056年)ついに源頼義安倍頼時は衝突しました。世に言う「前九年合戦」の始まりです。
 近年の研究によると、この争いの原因は、奥州の富(馬、鉄、アザラシの皮、鷲の羽など武士の必需品)に目をつけた源頼義安倍頼時を反逆者に仕立てて討伐し、奥州支配をもくろんだ戦いであったということが定説になっています。
 安倍頼時は序盤の合戦で戦死しましたが、頼時の息子である安倍貞任は激しく抵抗しました。軍勢の数では貞任のほうが勝っていたのです。そのため、源頼義の軍勢は苦戦を強いられました。源氏の軍勢は、何度も窮地に追い込まれましたが、その度、源義家が鬼神のような働きをして味方を救ったということです。
 今昔物語集では、前九年合戦のなかで最大の激戦となった黄海合戦(きみのかっせん)おける源義家の活躍を次ぎのように伝えています。「源氏の軍勢は次々と討たれ、また逃げ出す兵も数多くいたので、いつのまにか源頼義のまわりに残っていたのは長男義家を含めたわずか六騎の武者でした。敵は二百余騎。頼義たちは完全に包囲され絶対絶命の窮地に陥りました。敵は容赦なく、雨あられのように矢を射込んできます。頼義の馬も義家の馬も敵の矢が当たり死んでしまいました。
 何とか味方が敵の馬を奪って、頼義、義家を馬に乗せました。しかし、敵の包囲網が迫り、もはや脱出は不可能かと思われました。ところが、義家は次々と矢を放ち、片っ端から敵を射殺しました。義家の活躍に勢いを得た頼義勢は、死に物狂いで戦い、この窮地を脱出することができたのです。」
 劣勢を挽回するため、頼義は出羽国の豪族清原氏に接近し、功利によってこれを味方につけました。これによって形勢は逆転し、康平五年(1062年)安倍貞任を討ち果たした源頼義は、ようやく勝利を手にしたのです。
 前九年合戦で最も大きな利益を得たのは、清原氏です。もともと出羽の支配者であった清原氏は、この戦いによって陸奥にも勢力を拡大したのです。
 前九年合戦からおよそ20年後の永保三年(1083年)源義家陸奥守となり任国に赴任しました。義家は弟の義綱ともに白河天皇の警固を任されており都での威勢を高めていました。さらに、義家は奥州に進出することで、武家の棟梁としての地位を固めようともくろんでいました。
 そのため、奥州を支配している清原氏につけいる隙を窺っていたのです。そこに清原氏の内訌が生じたので、義家はすかさず介入しました。義家は藤原清衡をたすけて清原家衡を破り勝利を得ました。
 しかし、朝廷はこの戦いを源義家の私戦とみなし恩賞を与えませんでした。義家は従軍した坂東武者や畿内武者に報いるため私財を投げ出しました。義家のこの行動は、坂東武者の心を打ち、義家と坂東武者との間に強い絆が結ばれたのです。
 源義家は、後三年合戦によって、その目論見通りに、武家の棟梁としての地位を固めることに成功しました。また、義家は武士の心を掴んだだけではなく、広く諸国の民衆の心も掴みました。義家の名声は諸国に知れ渡り人々はあらそって義家に田畠を寄進したのです。
 源義家が前九年合戦で活躍した様子が今昔物語集で伝えられたように、同時代の人々は義家が奥州でいかに勇敢であったのかを口伝てに聞いたことでしょう。人々は源義家のことを畏敬の念を込めて「八幡太郎義家」と呼んだのです。