歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 源為義 源氏復活を地方に求めた武将

 源義家は「天下第一の武勇の士」と呼ばれましたが、その息子たちには義家ほどの逸材がいなかったようです。
 義家の嫡男義親は対馬守に就いていたのですが、康和三年(1101年)九州で乱行を働いたため隠岐へ配流されます。その後の嘉承二年(1107年)に隠岐を脱出した義親は出雲に出現し、出雲国司の在地代行者である目代を殺害したのです。義親の行為は、国家に対する反逆でした。
 白河院は、平正盛に義親の追討を命じました。正盛は因幡守として出雲の隣国にいたので院の命令に即応することができたのです。こうして源氏の棟梁が平氏の棟梁に首を討たれるという前代未聞の事態が起きたのです。
 これ以降、平氏は正盛→忠盛→清盛とつながり白河院との関係を密接にして隆盛期を迎えるのです。
 一方、源氏は義親の反乱によって衰退期を迎えました。源氏は朝廷の信頼を失い、都での地位は低下しました。義親が討伐された後源氏の棟梁になったのは義親の四男為義でした。
 都で没落した為義は、源氏の活路を地方に求めたのです。為義は自分の息子たちを地方に送り出し、地方の有力武士との結びつきを強めることに力を注いだのです。
 具体的に述べると、長男義朝は上総国へ、次男義賢は上野国へ、八男為朝は鎮西(九州)へ、十男行家は熊野へといったぐあいです。為義が息子たちを地方へ送り出せたのは、源氏と摂関家との関係がまだ残っていたからでした。
 為義は摂関家の後ろ盾を利用して、息子たちを荘園の預所(あずかりどころ)として地方に派遣したのです。
 ここで荘園制度における役割(地位)を以下に示します。
 本家→領家→預所下司(げす)
 本家とは荘園の最上級の領主であり、天皇皇族や摂関家、大寺院や大神社などがこれに当たります。
 領家とは摂関家よりは階級が下の一般貴族や一般の寺社で、やはり荘園の領主です。本家と領家は荘園の所有権を世襲することができます。
 なぜ同じ荘園領主であるのに本家と領家という上下関係があるのでしょうか?そもそも荘園とは開墾された土地の寄進を受けて私有できる制度です。
 しかし、一般貴族の力では、国家権力に対抗して私的な土地所有権を守ることは困難です。そこで天皇・皇族・摂関家・大寺院などの権威を利用して所有権を守ることにしたのです。その見返りとして、領家は本家に土地を寄進しました。
 領家から地方に派遣されたのが預所です。預所は、都にいる領家と在地領主である下司とを結びつける役割です。いわば都と地方の両者に顔がきく橋渡し役です。
 清和源氏の子息たちは、この預所にうってつけの人材でした。清和源氏は、二代目満仲の時から藤原摂関家との関係を築いてきました。源義親の反乱によって没落したとはいえ
源氏が強力な武家であることに変わりはありません。摂関家としては、源氏の武力は他の勢力と争う時に必要なものなので、完全に関係を断つことはできないのです。
 また、在地領主である下司は地方の有力な豪族であり、平安時代の末期には地方豪族はほとんど武士となっていました。彼らにとって源氏の子息とは、伝説的な武将である八幡太郎義家の孫なのです。
 在地領主にとって源氏の子息を受け入れることとは名誉なことであり、都とのつながりを作ることでもあるのです。
 源氏の子息たちも、ただ飾り者として地方へ行ったのではなく、武家の棟梁の子孫として積極的に動き、地方の武士同士の紛争を調停する役割を担いました。 
 そして、地方発の源氏の力が、歴史の流れを変えるのです。治承四年(1180年)後白河上皇の次男である以仁王(もちひとおう)から平家追討の令旨が下った時、立ち上がったのは地方の源氏でした。
 以仁王の令旨を全国に広めたのは熊野に派遣された源行家でした。平家を都から西国へ追い落としたのは、上野国に派遣された源義賢の息子である木曾義仲でした。義仲は木曾で兵力を養い、北陸で味方を糾合し、一時は都で朝日将軍と呼ばれました。
 そして、坂東へ派遣され坂東武者から絶大な支持を得た源義朝の息子源頼朝が、平家打倒を成し遂げ鎌倉幕府を開くのです。
 こうして見ていくと、源為義が行った、子息たちの地方派遣策は長期的な視点では、源氏と地方の有力武士との関係を強化し、後の源氏の復活を生み出す重要な布石になったといえるのです。