歴史楽者のひとりごと

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歴史上初の武家政権を樹立したのは平清盛?それとも源頼朝?

◆武士の時代の幕開け

 鎌倉時代に書かれた歴史書愚管抄」のなかで著者の慈円は次のように述べています。「保元元年七月二日鳥羽院うせさせ給いて後、日本国の乱逆と云うことは起りて後、武者の世になりにけるなり。

 慈円は「鳥羽上皇がお亡くなりになってしまったあと日本各地で乱逆が起こり、世の中は武士の時代になってしまった」と嘆いているのです。この乱逆の発端となったのが保元の乱でした。保元の乱とは、保元元年(1156)に鳥羽法皇が死去したことをきっかけに、後白河天皇崇徳上皇の権力争いが激化し勃発した戦いです。天皇側には平清盛源義朝などの有力な武士が味方に付き、上皇側を圧倒して勝利を得ました。論功行賞で平清盛は播磨守に任じられ、源義朝は左馬頭に任じられました。また義朝の息子頼朝は12歳で六位蔵人に任じられ将来の出世が約束された少年貴公子となったのです。まさに源氏や平氏の武力が時代の流れを大きく動かしたのです。

 しかしながら、保元の乱の後に最も大きな権力を掴んだのは武士ではなく、上級貴族の藤原通憲でした。通憲は一般的には信西と呼ばれているので、本文でも今後は信西という呼び名を使います。

 後白河天皇の政権で中枢に就いた信西は、次々と新たな政策を打ち出していきます。平安時代末期は荘園の時代と呼ぶこともできるように、上級貴族や大寺院は膨大な荘園を所有していました。信西はこの荘園の増大化傾向に一定の歯止めをかけるとともに、公領を整備して王朝国家を支える体制を新たに作り出したのです。

 しかし、信西が権力を独占し急速な改革を行ったために、信西に対して反感を抱く貴族もいました。後白河が二条天皇に譲位すると天皇の周囲には反信西の一派が集まり、新たな権力争いの火種が生まれたのです。

 反信西派のリーダーとなったのが藤原信頼でした。信頼は保元の乱の後に急速に台頭してきた貴族です。信頼は源義朝と手を結び、信西を権力の座から追い落とそうと考えました。他方、信西平清盛と結んで信頼・義朝の勢力に対抗しました。こうして両派の対立は緊迫の度合いを高めていったのです。

 

平治の乱 

 平治元年(1159)十二月、藤原信頼源義朝の軍勢は信西を急襲しました。平清盛が一族を引き連れ熊野参詣に出かけ京都を留守した隙をついた奇襲攻撃でした。信頼と義朝は信西を追い込み自害させました。また後白河法皇も幽閉され、信頼と義朝は権力を奪取することに成功したのです。

 しかし、信頼と義朝の栄光は長続きしませんでした。紀州で都の政変を知った平清盛が、紀州や伊賀の軍勢を率いて京都へ戻ってきたのです。帰京した清盛は、後白河法皇二条天皇を自分の陣営に取り込むことに成功し官軍となりました。

 一方、信頼と義朝は、信西を急遽襲撃したので大軍勢を集める時間がなく、軍勢の数では清盛方に劣っていたのです。自分たちの状況が不利になったことを悟った藤原信頼は降伏しましたが、斬首されました。また、都の戦いで敗れた源義朝は、再起を図ろうと東国をめざして逃亡していましたが、味方に裏切られ殺されました。父の一行とはぐれた頼朝は、平氏方に捕らえられましたが清盛の継母である池禅尼の嘆願によって命を救われ伊豆へ流されたのです。

 

平清盛の政権

 平治の乱に勝利した平清盛は、後白河派と二条派の間で巧妙に立ち回り貴族としての地位を上げていきました。そして仁安二年(1167)に清盛は従一位太政大臣になったのです。平清盛は、武家貴族として最初の政権を樹立したのです。

 では、清盛の政権とはどのようなものであったのでしょうか?清盛は福原に遷都し日宋貿易に積極的に取り組みました。しかし、外交や交易は、遣隋使や遣唐使など以前から朝廷によって行われていましたので、これをもって武家政権の特徴であるとは言えません。

 清盛政権の一番の特徴は、清盛の巨大な権力を背景にして平氏一門が繁栄する社会をもたらしたということです。

 清盛の息子である重盛は、東海、東山、山陽、南海の賊徒の追討権、全国的な軍事警察権が与えられました。軍事部門だけではなく、平氏一門は経済的にも大繁栄していました。全盛期の平氏一門は25の知行国をもっていました。知行国とは、上級貴族のみに与えられた特権で、一国の支配権を持ちその国からの収益を取得できることができました。平安時代末期には朝廷の財政が悪化し上級貴族に俸禄が支給できなくなったので、このような制度がつくられたのです。

 ところで、源頼朝が伊豆へ流されていた時の知行国主は源頼政でした。頼政平治の乱では平清盛に味方したので、源氏であってもその地位は守られていたのです。頼政伊豆国の受領に長男の仲綱を任命しました。国主と受領は在京しており現地を管理する目代(代官)には仲綱の息子の有綱が派遣されていました。そして、目代の下で仕事をする現地の役人たちが在庁官人と呼ばれていました。頼朝を婿に迎えた北条時政は、この在庁官人の中のひとりであったのです。頼政という源氏の知行国主がいたおかげで、頼朝の流人生活は案外平穏で自由な生活であったのです。

 ところが、治承四年(1180)四月、後白河院の第二皇子である以仁王平氏追討の令旨を下しました。源頼政以仁王に従って挙兵しましたが、清盛の軍勢に敗れました。その結果、伊豆の知行国主は平時忠が就任し、受領は時忠の養子の時兼が任命され、目代には山木兼隆が指名されました。以仁王の反乱が失敗したことで伊豆国の情勢は大きく様変わりし、それによって源頼朝北条時政の平穏な生活は一変したのです。

 

 知行国(公領)における地位をまとめると、次のようになります。

 知行国主→受領→目代→在庁官人

 

 また、荘園(私有地)にける地位は次の通りです。

 本家→領家→預所下司

 

 平安時代以降、日本の社会の基盤を支えていたのは、このような公領や荘園などの土地制度でした。前述したように、土地制度は何層にも階層化され上流貴族や大寺院だけではなく、中流貴族や地方の武士たちも関わる巨大なシステムだったのです。

 平清盛は、その既存のシステムを利用して平氏一門が繁栄する社会を創り出したのです。平氏一門の中でも、上級貴族の地位を得た者は知行国主になっていました。そうでない中流貴族は、領家や預所という職を得て公領や荘園から実質的な利益を得ていたのです。平氏一門が関わる荘園は全国に五百箇所余りあったということです。

 平安時代知行国や荘園の職に任じられるためには、朝廷から貴族としての官位を授けられることが必要でした。たえば、知行国の受領の職に任じられるためには四位、五位という中流貴族としての官位が必要です。

 すなわち、清盛の政権は、皇室や摂関家と婚姻によって関係を深め、貴族社会の制度に影響を及ぼすことで平氏一門の官位を上げ、一門の人々や媚びへつらって清盛に接近してくる者を知行国や荘園の職に就けることで支配体制を確立していたのです。その意味で、清盛の政権は「平氏平氏による平氏の為の政権」であったと言えるのです。

 時々、源平合戦平氏が敗れた原因は、「武家である平氏が貴族化したために軟弱になったからだ」という説を目にすることがあります。私たちが貴族に対して持つイメージが、源氏物語で出てくる光源氏のようなものだからでしょうか。しかし、平氏はもともと武芸に優れた下級貴族でした。平氏武家貴族として勢力を拡大してきたのです。平氏は、源頼朝が挙兵した当時でも日本で最強の武家集団であったのです。

 ですから、「貴族化=弱体化」ではありません。平氏一門が源頼朝に敗れたのは、平氏一門だけが繁栄する社会となったために、その恩恵を受けることのできないアンチ平氏の人々の不満が諸国に蔓延し、アンチ平氏の怒りが最終的に源頼朝のもとに結集したからなのです。

  

大庭景親の下向と頼朝の挙兵

 平清盛は、以仁王の反乱に加担した源頼政に繋がりのある残党を討伐するため大庭景親を東国へ派遣しました。大庭景親は、「東国ノ御後見」という特別な地位を清盛から与えられ相模国にある自分の領地へ戻ったのです。景親は、これまで相模国で軍事・警察機能を司っていた三浦氏や中村氏からその権力を奪い取りました。こうした景親の活動が源頼朝に危機意識をもたらし、同時にアンチ平氏の勢力を伊豆国相模国に生じさせたのです。

 治承四年(1180)八月、源頼朝は伊豆で挙兵しました。石橋山の合戦では大庭景親の軍勢に敗れましたが、その後海路房総半島へ渡り、上総広常など坂東武者の支援を得て鎌倉へ入り、富士川の合戦で平維盛が率いる平氏の軍勢を破り、東国から平氏の勢力を一掃することに成功しました。

 しかし、この時点で頼朝は依然として謀反人のままでした。かつて、平治の乱に敗れ伊豆へ流された罪はまだ解かれていなかったのです。頼朝に転機が訪れたのは、富士川合戦の勝利から三年後のことでした。

 その三年間、権力の座に座っていたのは木曽義仲でした。義仲は平氏勢力を京都から一掃することには成功していましたが、その後は評判を落としていました。義仲の軍勢は都やその周辺でしばしば乱暴狼藉を働いていたので朝廷や貴族から不評をかっていました。また、義仲は皇位継承にも口を挟んでいたので、後白河院からも嫌悪されていました。後白河院の信頼は頼朝の方へ向かっていたのです。

 そこで、後白河院は、義仲が平氏討伐のため西国へ出陣した隙に、頼朝と交渉を始めたのです。この交渉の結果、頼朝は「永寿二年十月宣旨」によって謀反人の立場を脱し、名誉を回復したのです。

 頼朝は、東海道東山道国衙領、荘園を朝廷に返還することを約束しました。それによって頼朝はようやく謀反人の罪から解放されたのです。ですが、せっかく平氏から奪い取った領地を全て朝廷に返還してしまったのでは、頼朝には何のメリットもありません。そこで、頼朝は、領地を所有することができなくても、土地を支配する方法を取ることにしたのです。その方法とは、東海道東山道の年貢を納める全責任は頼朝が負い、従わない者は頼朝が罰するという権利を得ることでした。

 「永寿二年十月宣旨」によって、頼朝は東海道東山道を実質的支配する権利を獲得したのです。そして、富士川合戦の戦果として頼朝の軍勢が略奪した平氏方の領地の支配権が、頼朝にあることを朝廷は公式に認めたことになりました。

 

源頼朝の政権

 文治元年(1185)三月、平氏は壇ノ浦の合戦で源義経の軍勢に敗れついに滅亡しました。戦功を挙げた義経後白河院と接近し、頼朝と対立するようになりました。後白河院は、頼朝の勢力が巨大化することを恐れ、義経の軍事力を利用して頼朝の勢力拡大に一定の歯止めをかけようとしたのです。しかし、義経は京都周辺や西国において味方の軍勢を集めることができず、京都を逃れ奥州藤原氏を頼ることになったのです。

 義経が失脚したことで、頼朝は後白河院に圧力をかけ、文治勅許を引き出したのです。文治勅許によって、頼朝は守護・地頭を任命する権利を得ることができました。この権利を得たことが、頼朝政権の大きな特徴となるのです。

 守護は一国につき一人が任命され軍事・警察権を司っていました。地頭は、年貢の徴収・納入や土地の管理、治安維持を職務としていました。頼朝は平氏方の荘園を没収し戦功のあった武士たちに恩賞として荘園の地頭職を与えることにしたのです。

 実は、頼朝は富士川合戦の直後から恩賞として地頭職を与えていたのですが、前述したように富士川合戦時の頼朝はまだ謀反人であり、頼朝が任命した地頭は非合法のものでした。それが、文治勅許によって地頭職は合法の立場となり、伊豆での挙兵から富士川合戦に至る戦いで戦功を挙げた武士たちの恩賞も公式に認められたのです。

 源頼朝は、荘園制度の下司に相当する職を地頭として味方の武士に与えたのです。頼朝も、清盛と同じように荘園制度を利用して政権を作りました。ただし、清盛のやり方と大きく異なる点があります。それは、地頭職を任命する権限を有するのが頼朝ただ一人であるということです。前述したように、平安時代において荘園の職に就くには朝廷や貴族社会の制度に従う必要がありました。この制度が存在していては、武士が恩賞として荘園の職に就くためには朝廷から官位を授かるか、荘園領主からの任命を得る必要があったのです。

 しかし、頼朝は地頭職の任命権を独占することで、恩賞を貴族制度から切り離すことに成功したのです。そうすることで、東国武士が官位を授けられ院や朝廷と直接結びつくことを防ぎました。平氏を滅亡させた義経後白河院と接近し、頼朝の対抗勢力になる恐れがありました。頼朝はそのようなリスクを排除するため、東国武士との間に直接の主従関係を結び、強力な軍事勢力を確保し続けるシステムを創り上げたのです。

 頼朝は、戦功を挙げた武士に恩賞として地頭職を与えました。武士は土地を所有したのではなく、その土地を管理し徴税・納税する職を得たのです。武士は地頭として土地から得られる利益(得分)を自分のものにすることができ、実質的に土地を支配する権利を得たのです。武士は、頼朝への奉公を尽くすことで、地頭職を嫡子へ相続することもできたのです。それが、「一所懸命」という概念です。

 頼朝は、地頭職を任命することによって武士と主従関係を結び、御恩と奉公という武家社会の基本制度を成立させたのです。こうしてみると、頼朝が樹立した政権は、「武士の武士による武士の為の政権」ということができるでしょう。

 頼朝が、武家政権を樹立したことによって荘園制度にも大きな変化が生じました。それまでの荘園領主である本家や領家は、京都に居ながら遠隔地である地方の荘園に対して強力な支配力を持っていました。その支配力の源泉は在地代官の人事権を持っていることにありました。しかし、その人事権は頼朝に奪われ、やがて鎌倉幕府へと引き継がれていきます。この変化は、長い年月をかけて荘園制度を徐々に衰退に向かわせることになり、戦国時代には荘園制度は消滅してしまうのです。

 

今回参考にした文献

日本社会の歴史(中) 網野善彦 岩波新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

荘園 伊藤俊一 中公新書

源氏と坂東武士 野口実 吉川弘文館