歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

日本の歴史と天皇の関わり

 平成31年4月30日は天皇が退位される日です。天皇が退位されるのは約200年ぶりとのことで、5月1日には新天皇が即位され令和という新しい時代が始まります。
 そこで、日本の歴史の節目にあたり、歴史と天皇の関わりについて考えてみました。
 まず、教科書に載っている年表によって、天皇の歴史をザックリとたどってみたいと思います。参考にしたのは、高校日本史のサブテキスト「新詳日本史」(浜島書店)です。
 古代の日本では文書による記録がなく、日本の歴史を知る手がかりは、古代中国の歴史書の記述にあります。
 古代中国の歴史書宋書」によると、4世紀から5世紀にかけて日本には「讃、珍、済、興、武」という大王がいたことが記されています。いわゆる倭の五王です。
 近畿地方には仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳が存在していますが、それらを築いた大王たちが倭の五王であると考えられています。そして、古事記日本書紀に登場する応神天皇仁徳天皇允恭天皇安康天皇雄略天皇などが、倭の五王に当たるのではないかと推定されていますが、確実ではありません。
 この倭の五王の中で最も存在したことが確かなのは倭王武です。宋書によれば武は478年に宋に特使を派遣し、安東大将軍と呼ばれ倭国王であると認められているのです。
 埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳から出土した鉄剣には「ワカタケル大王」の名が刻まれており、その年代からワカタケル大王が倭王武であり、雄略天皇であると推定されています。
 ワカタケルは関東から九州にかけて勢力を広げた大王でした。しかし、ワカタケル大王の死後、天皇皇位継承をめぐり、有力な豪族たちが争いを起こします。その結果、北陸地方の豪族に後押しされたオホド王が迎えられ、507年に継体天皇となります。
 その後も豪族たちの勢力争いは続きますが、やがて蘇我氏が台頭し大きな力を持つようになります。
 592年には日本で初の女性天皇である推古天皇が即位します。推古天皇を補佐したのが聖徳太子です。推古天皇のもとで聖徳太子は冠位十二階を制定したり17条の憲法を制定したりするのです。
 645年中大兄皇子中臣鎌足らとともにクーデターを起こし蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼします。以前は大化改新と呼ばれていたこの出来事は、最近では「乙巳の変」(いっしのへん)と呼ぶそうです。
 この時、日本史上初の元号が定められました。それが大化であることは皆さんもご存知の通りです。そして、この時の天皇孝徳天皇です。
 中大兄皇子天皇に即位し天智天皇になるのは668年です。それから3年後の671年に天智天皇は亡くなります。その後、天智天皇の息子大友皇子天智天皇の弟大海皇子との間で皇位継承争いが起きます。世に言う「壬申の乱」です。
 大海皇子は畿内を脱出し伊勢へ向かいます。伊勢を通過する途中、大海皇子は海を挟んで伊勢神宮の方向を一望できる場所にたたずみ天照大神を遙拝します。おそらく、大海皇子は、ここまで無事に逃げてこれたことに感謝し、戦いに勝利することを祈願したのでしょう。
 大海皇子は伊勢を通過し美濃に至ります。大海皇子は美濃の不破の関へ進み、そこで大軍勢を味方につけることに成功します。じつは、この大軍勢は大友皇子が集めた軍勢だったのですが、大海皇子側に寝返ったのです。
これで一気に優位に立った大海皇子は軍勢を大友皇子のいる近江に進め、大友軍を破り勝利を得るのです。
 ちなみに、この不破の関があった場所ということで名付けられたのが関ヶ原です。関ヶ原とはその地名の由来からしても、天下分け目の大合戦が起きる場所として運命付けられていたのかもしれません。
 話を元に戻します。673年大海皇子は天武天皇として即位します。天武天皇律令の編纂を開始したり、国史の編纂を開始するなど、日本が律令国家になるための基礎を築いた天皇です。
 天武天皇の死後跡を継いだのは皇后であった持統天皇でした。持統天皇は孫が成長し天皇に就くまでのつなぎ役として天皇になったのですが大いに活躍します。
 持統天皇は、伊勢神宮に祀られている天照大神への感謝の意を示し、夫天武天皇の偉業を後世に伝える為に、伊勢神宮の社殿を新築し20年毎に建て替えるという式年遷宮を創始したのだと云われています。こうしてみると伊勢神宮と皇室の関わりがいかに深いかがわかります。
 794年桓武天皇平安京へ遷都すると、律令国家を運営するため、官僚機構が整備され貴族が政治運営をする時代になりました。
その中で台頭してきたのが藤原北家です。
 藤原北家は娘を天皇の后にし、その后から男子が生まれ天皇となることで摂関政治を展開するようになりました。そして藤原道長・頼通の時代に全盛期を迎えるのです。
 これに対して、天皇藤原氏から政治の実権を奪い返すために院政を始めるのです。1086年白河上皇は歴史上初の院政を開始します。これ以降、政治権力を奪い合うために天皇上皇藤原氏は武士の力を利用するようになります。そして、それが源氏や平氏などの武士の台頭を招くのです。
 清和源氏桓武平氏と呼ばれるように、源氏や平氏はもともと天皇の子息でした。しかし9世紀になると増えすぎた皇族を整理するために身分の低い女性から生まれた皇子は貴族へと降下させられたのです。これが源氏や平氏の始まりでした。
 貴族となった源氏や平氏は地方へ赴き国司に就任しました。彼らは地方を拠点にして勢力を養い、武士としての力を蓄えたのです。
 やがて平安時代後期になると天皇上皇藤原氏が複雑に入り乱れて権力争いを始めます。そこへ源氏や平氏は巻き込まれることになるのです。そして武士の軍事力なくしては政治権力を得ることはできなくなり、武士の存在価値は大いに高まりました。
 その流れの中で、数々の戦いに勝利してきた平清盛が頂点に立つことができたのです。安徳天皇の外祖父となった清盛は時の最高権力者であり、平氏はその当時の日本最強の軍事集団であったのです。
 その平氏全盛の時代にあって異議を唱える皇族が現れました。高倉天皇の第三皇子である以仁王です。1180年以仁王は自分が天皇になりたいがために反乱を企て、平氏追討の令旨(りょうじ)を出したのでした。
 このことをきっかけにして、源平合戦が起きたのです。1185年壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡しました。勝利した源頼朝鎌倉幕府を開き本格的な武家政治の時代が始まりした。
 政治の実権を失った天皇は、鎌倉幕府を倒す機会を待つほかありませんでした。1219年三代将軍源実朝が暗殺され鎌倉幕府は危機に直面します。
 これを好機ととらえた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府打倒のため1221年に挙兵します。世に言う「承久の乱」です。しかし、北条政子の必死の訴えによって、東国武士は北条氏のもとに結集し、京都へ攻め込んで鎌倉幕府は勝利を得たのです。この後、およそ100年の間鎌倉幕府は続きました。
 鎌倉時代の末期に後醍醐天皇が挙兵し一時は建武の新政を展開しましたが、足利尊氏に敗れました。天皇が政治権力を得るために戦いを起こしたのはこれが最後でした。その後室町時代、戦国時代、江戸時代と武士の時代が長く続くのです。
 天皇が歴史の表舞台に再び登場したのは1853年にペリーが浦賀に来航した時です。この時の天皇孝明天皇でした。そして幕末の動乱を経て、明治維新を迎えたのです。
 明治以降、日本は外国との戦争を経験しました。第二次世界大戦で日本は、アジア地域を侵略するという暴挙を起こし、アメリカやイギリスと戦うことになりました。そして戦争に敗れ、反省し平和な国家として新たな歩みを始めたのです。
 天皇は日本の象徴となりました。「象徴とは何であるか」という問いに答えを出すのは大変難しいことですが、日本の歴史と天皇の関わりを知ることで、その答えのヒントがみつかるような気がします。
 私たち日本人の祖先が、同じ仲間として国を作ろうと思い始めたのが、今から約1600年前のことのようです。そのとき、リーダーとなって国作りを進めたのが大王=天皇です。国家の仕組みを作るだけではなく、私たちが誇りにしている日本の伝統や文化を作り出すところでも天皇はリーダーでした。
 そして栄枯盛衰を繰り返しながらも、今日まで天皇家は存続し、私たちに日本の歴史の長さと奥行きの深さを教えてくれるのです。
 平成に続く令和の時代も、天皇は日本の象徴としていらっしゃるでしょう。そして私たち日本人は、令和という元号に込められているような「平和でより良き時代」を力を合わせて築いていくのです。