歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

坂東武者の系譜 源義綱の栄光と挫折

 前回取り上げた源義綱は、歴史の教科書には登場しない人物であり、私もよく知らない人物でした。しかし、義綱のことを調べてみると、大変興味深い人物であることがわかってきました。そこで、今回も義綱の話をします。このような歴史の片隅に埋もれた人物に光を当てることこそ、歴史を楽しむ者の真骨頂です。
 寛治五年(1091年)源義綱は兄の源義家と対立し、平安京で軍事衝突寸前の状況になりました。この争いは「天下の騒動これより大なるはなし」(百練抄)というほど平安京の人々を驚かせた事件でした。それというのも、平安京ができて以来、都の中で武将同士が戦闘をすることなど全くなかったからです。
 京の都は天皇のおわします清浄の地であり、そこで合戦が起きることなどは、あってはならないことなのです。その神聖な場所で、本来は天皇をお守りすべき源氏の武将同士が合戦をしようとしたのですから、これは大事件でした。
 義家と義綱が兵を構えることになった直接の原因は、両者の郎党が所領争いをしたことでした。しかし、義家と義綱の対立の根本原因は、弟義綱が源氏の棟梁の座を兄義家から奪おうとしたことにあります。
 義綱は、武勇において兄義家に劣るものではないという自信があったと思います。また都での処世術では、自分の方が長けているとの自負があったことでしょう。義綱の兄に対するライバル心は、いつしか源氏の棟梁を狙う野心に変貌したのです。
 後三年合戦の後、朝廷内での義家に対する評価が大きく下がりました。一方、義綱は後三年合戦に参戦せず、その間に藤原摂関家との関係を深め、朝廷内での政治的地位を上げていました。
 義綱は、この機会を逃さず源氏の棟梁の地位を兄から奪おうとしたのです。義綱の目論見は順調に推移しました。寛治五年の騒動の後、義家には朝廷から厳しい処罰が下されましたが、義綱はお咎めなしでした。
 寛治七年義綱は陸奥守に任じられました。その翌年、出羽国において豪族の平師妙が出羽国司を襲撃する大事件が起きたのですが、源義綱は平師妙を見事に討伐し都に凱旋したのです。
 この活躍によって、義綱は武門源氏の棟梁としての地位を確実にしたのです。嘉保二年(1095年)源義綱は美濃守に就任します。美濃守は清和源氏にとって特別な地位を意味しました。義綱の祖父である源頼信平忠常の乱を鎮圧したとき、頼信に恩賞として与えられたのが美濃守です。
 つまり、義綱の出羽国での活躍は、頼信がなした平忠常の乱鎮圧に匹敵する功績であり、義綱が源氏の棟梁として朝廷から認められたことを意味するのです。
 しかし、この時が義綱の人生の頂点でした。運命の女神は義綱に微笑まなかったのです。
 承徳二年(1098年)源義家正四位下に除され白河上皇から院への昇殿を許されました。義家は長らく後三年合戦の責任を問われ不遇な時を過ごしていたのですが、ようやく復活を遂げることができたのです。
 翌承徳三年六月、関白藤原師通が急死しました。師通は朝廷において義綱の大きな後ろ盾となっていた人物です。この藤原師通の急死が、義綱の運命を狂わせてしまったのです。
 このころ、政界では白河上皇院政を始め天皇上皇は対立していました。関白師通の死は天皇側にとって大きな痛手となりました。この後、白河上皇は勢力を増し、院の支配力が強まったのです。源義家は、もともと白河上皇と結びついており、後三年合戦の後もその関係は続いていました。上皇天皇の権力争いで上皇が優勢になったことで、義家が再び源氏の棟梁の座に返り咲くことができたのです。
 逆に、藤原摂関家と結びつき源氏の棟梁の座を射止めた源義綱は、摂関家の衰退とともにその勢力を弱め、源氏の棟梁の座を失ったのです。
 歴史にたらればは禁物ですが、もしも関白藤原師通が健在であり続けたならば、源義綱が源氏の棟梁として君臨していたでしょう。武勇に優れ政治感覚にも鋭敏な義綱が源氏の舵取りを担っていたならば、もしかすると平氏の台頭を許すことはなかったかもしれません。そうすると、源平合戦も起きることはなく鎌倉幕府も誕生しなかったのかもしれないのです。
 源義綱はそのような歴史を大きく変えるような可能性を持った人物でした。本来なら、教科書に登場してもおかしくない人物だと思います。
 しかし、我々が教科書で知る歴史は勝者の作った歴史です。敗者である義綱は歴史の表舞台から消え去り、闇の中に葬られました。