歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

坂東武者の系譜 源頼朝

 先日、平成に代わる新しい元号が決定されました。「令和」です。万葉集の梅花の歌の序文「初春の令月にして気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」が出典だということです。
 私は、この万葉集の序文の説明によって「令」という字に「縁起がよい」とか「りっぱな」という意味があることを知りました。
もし、この序文の説明がなければ、「令」という文字から受ける率直な印象は、命令だと思います。
 歴史学者本郷和人先生は、新元号として「令和」という文字を使う時の問題点のひとつに、「令」は「令旨」(りょうじ)につながるということをおしゃっています。令旨とは皇太子や親王が出す命令のことです。その意味では、新天皇が即位される時の元号としてふさわしくないとのことでした。
 日本の歴史のなかでは、この令旨が出され歴史を大きく動かしたことがあります。
 治承四年(1180年)四月に以仁王(もちひとおう)が発した平氏追討の令旨もそのひとつだと思います。
 以仁王後白河上皇の第三皇子でした。第一皇子の二条天皇が即位したので、以仁王は仏門に入ろうとしたのですが、出家する機会を失い、皇子として元服していました。以仁王は、皇位継承の機会が巡ってくるかもしれないという淡い期待を抱いていたのです。
 しかし、二条天皇の後皇位についたのは後白河上皇の第七皇子である高倉天皇でした。さらに皇位高倉天皇から安徳天皇へ継承されました。こうして以仁王天皇になる望みはついえたのです。
 さらに、以仁王を不幸が襲いました。平清盛以仁王の所領を没収してしまったのです。この悲惨な状況で自暴自棄になった以仁王はクーデターを起こして平清盛を倒し、天皇位の簒奪を狙ったのでした。
 そこで以仁王が発したのが平氏追討の令旨でした。令旨は源行家によって東国の源氏にもたらされたのです。
 しかし、以仁王の令旨を受け取った東国の源氏のなかに、すぐさま立ち上がる武士はいませんでした。この時、平清盛に刃向かえる武士など日本中どこにもいなかったのです。安徳天皇平清盛の娘である徳子が生んだ天皇です。すなわち、清盛は天皇の外祖父として時の最高権力者になっていました。そして、平氏は当時の日本で最強の武家集団であったからです。平氏に刃向かうことは、即滅亡を意味していたのです。
 平氏追討の陰謀はすぐさま露見し、以仁王は土佐へ配流されることになったのですが、抵抗したので命を落としてしまいました。
 平清盛以仁王を処罰しただけではなく令旨を受け取った源氏も討伐することにしました。そこで、東国の源氏の動きを監視するために大庭景親を派遣したのです。
 ここにおいて、源頼朝はついに平氏追討のため挙兵することを決断したのです。本来ならば、頼朝は伊豆でひっそりとした暮らしを続けたかったはずです。
 しかし、以仁王の令旨を受け取ったことで平清盛から圧迫され、命を奪われる危機に直面することになりました。頼朝の挙兵は源氏対平氏の最終決戦としてとらえがちですが、実は、頼朝が「窮鼠猫を噛む」という状況に追い込まれたという見方が適切なのです。
 結果として、以仁王の令旨が平氏追討のきっかけを作り歴史を動かしたのでした。
 頼朝に協力した坂東武者も、それぞれ危機的状況に陥っていました。大庭景親相模国に下向してきたことで、相模国の三浦氏や中村氏は勢力を景親に奪われていました。
 また、房総の上総氏や千葉氏は平治の乱の後一族の中で勢力争いが起きていました。平治の乱の時点で源義朝に味方していた武士たちは、皆一様に苦境に立たされていました。彼らは平氏方についた同族の武士たちや、新たに台頭してきた常陸源氏の佐竹氏に勢力を奪われていたのです。このままでは衰退する一方であった旧義朝派の武士たちは、挙兵して平清盛に対して反旗を翻すほか選択の余地が無かったのです。
 破れかぶれの坂東武者たちが、打倒平氏に立ち上がった時、反乱の旗印としたのが源頼朝でした。落ちぶれたとは言え、頼朝は源氏の棟梁の嫡流です。坂東の長い歴史のなかで坂東武者たちは幾度も源氏の棟梁に従い勢力を拡大してきたのです。
 絶対絶命の危機に直面したこの時こそ、坂東武者たちは源頼信、頼義、義家、義朝の血を引く頼朝に、全てを賭けて新しい時代を切り開こうとしたのです。
 そして、坂東武者たちのイチかバチかの賭けは成功しました。頼朝は挙兵直後の石橋山の戦いに敗れはしたものの、房総半島へ逃れた後は、勢力を挽回しました。頼朝のもとには続々と味方が集まってきたのです。
 石橋山の戦いでは敵方であった畠山重忠江戸重長らも、頼朝の軍勢が日増しに拡大していく様を見てこれに加わりました。こうして治承四年十月六日、源頼朝はついに鎌倉入りを果たしたのです。

 昨年の12月から12回にわたって坂東武者の系譜という話をしてきました。私がこの話を取り上げたのは、源頼朝が挙兵した時、なぜ坂東武者たちは、何の権力も持っていない裸同然の源頼朝に協力し、平清盛に戦いを挑んだのか、その理由が理解できなかったからです。
 頼朝に従った坂東武者の多くが、坂東平氏の子孫です。もし頼朝の挙兵が源平合戦という源氏と平氏の雌雄を決した戦いであるならば、坂東平氏平清盛に味方するべきではないでしょうか?
 それにもかかわず、その当時の日本で最大の権力者であり最強の武家である平清盛に対して、全く無力である源頼朝になぜ多くの坂東平氏が協力したのでしょうか?この問題は私にとって大きな謎でした。
 しかし、長い坂東武者の歴史をたどることで、ようやくその謎が解けました。天皇の子孫である桓武平氏清和源氏が坂東に下向して武家貴族が生まれました。ある者は坂東に土着し在地の武士となりました。またある者は都と坂東を往還し、天皇の子孫であるという貴種性を保ちながら坂東武者を従える立場になりました。
 その長い歴史のなかで、源氏の棟梁と坂東武者との間に深い絆が育まれました。源氏の棟梁に従った坂東武者の多くが、もとは平氏の流れを汲む武士たちです。彼らは平氏という血筋よりも坂東武者の気風を貴び、源氏の棟梁と結んだ絆を尊重したのです。
 全盛期を迎えた平清盛は、以仁王の令旨を契機にして、自分に敵対する武士を滅ぼそうと決断しました。それは、平氏一族の永遠の繁栄を願っての決断だったのでしょう。しかし、清盛のこの決断が結果として裏目に出ました。
 弱者を窮地に追い込み過ぎたのです。絶体絶命の危機に瀕した源頼朝と坂東武者が、起死回生の策として選択したのが打倒平氏のために挙兵することだったのです。彼らは、どうせ清盛に滅ぼされるのなら、せめて坂東武者らしく華々しく戦って散ろうと思ったのです。そして、その行動が彼らの未来を切り開いたのです。
 私たちは源平合戦という言葉に惑わされ、源氏と平氏が宿命のライバルとして雌雄を決したように思いがちですが、その認識には大きな誤りであるのです。

本シリーズを書くにあったて参考にした文献は下記の通りです。

現代語訳 吾妻鏡(1) 五味文彦本郷和人(編) 吉川弘文館
源氏と坂東武士  野口 実 吉川弘文館
河内源氏     元木泰雄 中公新書
陰謀の日本中世史 呉座勇一 角川新書