歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

関東の戦国武将たち 太田道灌の子孫 太田康資(やすすけ)

 文明十八年(1486年)七月二十六日、太田道灌相模国にある扇谷氏の本拠地糟屋館で扇谷定正によって暗殺されました。この時、道灌の嫡子資康は江戸城にいましたが、父が殺されたとの知らせを受けて江戸城を脱出し甲斐へ逃れました。その後、資康は山内上杉顕定を頼りました。実は、道灌暗殺を扇谷定正にそそのかしたのは上杉顕定であったのですが、当時の資康はその事実を知ることもなく父に手を下した定正を恨み続けたのです。

 資康の死後、息子の資高は何故か扇谷定正と和解し、扇谷家の宿老となり江戸城城代をつとめていました。このころになると山内上杉氏と扇谷上杉氏は激しく争うようになっていたので、その過程で道灌暗殺の真相が明らかになっていたのかもしれません。いずれにしても扇谷家に仕えていた太田資高の胸中は複雑であったと思います。

 大永四年(1524年)正月、太田資高は扇谷氏を裏切り相模の北条氏綱に内通しました。この資高の寝返りは北条氏綱が扇谷氏から江戸城を奪い取った一因になったのです。それ以来、資高は北条家の家臣となり厚遇されていたのです。

 その厚遇は、息子康資の代になっても続いていました。康資は江戸城主である遠山丹波守直景の婿となっていたのです。太田康資は身の丈が六尺以上あり筋骨隆々の大男で怪力の持ち主でした。戦場では馬上で八尺余りの鉄棒を振り回し、敵を次々になぎ倒し常に高名をあげていました。そのため、康資は北条氏康からも厚い信頼を受け、氏康の諱の一字を与えられていました。

 しかし、康資は自分の境遇に満足していなかったのです。江戸城は自分の曽祖父道灌が築いた城です。その城で北条の家臣である遠山氏に仕える身分であることは、康資にとって耐えがたい屈辱であったのでしょう。いつしか康資は、北条氏を裏切り江戸城を乗っ取るという野望を胸中に膨らませるようになっていたのです。やがて、康資は太田家の分家である岩付太田氏の太田資正と内密に連絡をとりあい、江戸城を奪う策略を練り始めていたのです。

 ちょうどそのころ、関東管領上杉憲政は越後へ逃亡し、憲政から上杉家の家督関東管領職を受け継いだ長尾景虎が、上杉謙信と名を改めて関東へ侵攻するようになっていました。永禄六年、上杉謙信は武田・北条連合軍と戦うため上野へ軍勢を進めてきました。太田資正は、上杉謙信の味方につき、同じく謙信の味方についていた安房の里見義堯・義弘親子と合流し下総国府台城に陣を構えていました。里見・太田の軍勢は謙信に呼応して北条方の後方を攪乱しようとしたのです。

 この時、太田康資は北条を裏切り里見・太田の軍勢に加わったのです。康資の裏切りは北条方にとっては大きな痛手だったようで、里見・太田が攻撃している葛西城に敵方が紛れ込まないように雑兵や小者の身元をしっかり改めるように命令が出たということです。

 国府台合戦の序盤は、太田康資の寝返りもあって里見・太田連合軍は優位に立ちました。しかし、北条軍は巻き返してきました。北条氏康の嫡男氏政とその弟氏照は大軍勢を率いて西下総へ向かい中山法華経寺に本陣を構えて敵を包囲したのです。国府台合戦が始まってからおよそ二か月後の永禄七年二月中旬、北条方は総攻撃をしかけ里見・太田連合軍は敗走しました。

 敗れた里見義弘は、北条勢の追撃をなんとか切り抜け上総へ逃れました。太田資正は無事に岩付城へ戻れたのですが、永禄七年七月に息子の氏資から裏切られ城を追われて常陸佐竹義重を頼りました。この時から資正は、太田三楽斎と名乗るようになったのです。息子の太田氏資は、北条氏康の味方につく道を選びました。関東の戦国時代後半は、北条と上杉の戦いを軸に展開するので、武将たちは自分の置かれた状況が変化するたびに北条につくか、上杉につくか常に選択を迫られたのです。

 今回の主役である太田康資は、上総へ逃げ込み小田喜城の正木氏に庇護されました。康資は、この地で里見氏の客将となっていましたが、天正九年(1581年)に里見氏の内乱に巻き込まれ自害しました。息子の資綱は、里見氏のもとを逃れ一時は常陸の佐竹氏を頼っていました。天正十八年(1590年)、関東の覇者北条氏は天下人豊臣秀吉に敗れついに滅亡しました。その後関東を治めることになったのは徳川家康です。そして、太田資綱は新たな関東の支配者である徳川家康に仕えるようになったのです。

 戦国時代前夜に江戸城を築城した名将太田道灌の子孫は、戦国時代末期に江戸城を本拠地として天下取りに乗り出した徳川家康の家来になったのです。なんとも不思議な歴史の巡り合わせでした。

 

今回参考にした文献

 

関東古戦録 槙島昭武 著 久保田順一訳 あかぎ出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戎光祥出版

 

関東の戦国 上杉憲政の越後逃亡と室町時代の終焉

 天文十五年(1546年)四月、北条氏康は河越夜合戦において関東管領上杉憲政古河公方足利晴氏の率いた八万五千騎の大軍勢と戦い、わずか十分の一の戦力でこれを打ち破りました。この関東戦国時代の歴史に残る奇跡的な大勝利は、北条氏康の立場を一気に飛躍させました。その結果、これまで上杉家を支えてきた武州滝山城主の大石源左衛門尉定久や秩父郡井戸天神城主の藤田右衛門佐邦房などがこぞって北条方へ寝返ってきたのです。

 さらに、氏康は空城となった上杉方の松山城を労せずして手に入れ、武蔵北部の要衝を押さえることに成功し、忍の成田氏や鷹ノ巣の小幡氏も味方に引き入れ武蔵国の支配を盤石なものとしました。また、氏康は河越合戦で上杉に味方した古河公方足利晴氏を強く非難し、古河公方家の御料所が多数点在する下総北西部へ軍勢を差し向け、古河公方に軍事的な圧力をかけました。

 

 河越合戦に敗れた上杉憲政は、上野国の平井城に引き籠っていました。上杉の家臣のなかには、関東管領家をなんとか立て直そうという志を持った者が少なからず残っていたようですが、肝心の上杉憲政関東管領の重責を担うだけの器量を持った人物ではありませんでした。関東古戦録は、上杉憲政の人物像を次のように評しています。

 「上杉憲政は、三歳で実父憲房を失い、九歳で養父憲寛の譲りによって関東管領職を受け継いだため、諫め導く人もなくわがままに成長し、文に暗く武に欠け、歌・蹴鞠・茶の湯の道や酒色におぼれて過ごしてきた。」

 主君がこのようなありさまであったので、憲政の側近には貪欲でよこしまな佞臣ばかりが集まり、政務を疎かにして私腹を肥やしていました。そのため、上杉家中の士気は下がり武道は衰えていました。この様子を見て、誰もが上杉家は間もなく滅亡するであろうと思っていました。

 

 衰退する上杉家に対し、北条氏康は容赦なく攻撃を仕掛けました。天文二十年(1551年)の冬から翌二十一年二月にかけて、氏康は数千騎の軍勢を率いて上杉憲政の嫡男龍若丸が立て籠もっている武蔵金鑚山近辺の御嶽城(埼玉県児玉郡)へ攻め寄せました。三月になって同城は落城し、城主の安保泰広・泰忠父子は降参しました。この合戦では数千もの兵士が討ち死にを遂げ、城に立て籠もっていた数千の雑兵は水源を断たれて水を飲むことができずに命を落としたそうです。

 この合戦の後、上杉方の有力な武将たちの多くが北条方に寝返り、ついには憲政の馬廻り衆までもが裏切って北条方の味方についたということです。とうとう、上杉憲政は普代の家臣たちにも見放されて孤立してしまい、五十余名の供を連れて越後へ逃亡したのです。

 越後守護代長尾景虎は、喜んで憲政を迎え入れたということです。関東古戦録によると、「景虎は、礼をもって接待に努めたので、憲政は家運が衰えたことを述べ、永享の乱の時朝廷から下された錦の御旗・関東管領職補任の綸旨・藤原鎌足以来の系図・御所作りの麻呂の太刀・飛雀の幕などとともに上杉の名字と自分の名の一字を与えた。景虎はこれらをうやうやしくいただき、「秘計をめぐらせて御敵を退治しますのでご安心下さい」と言上した。春日山の二の郭に館をつくり、三百貫の厨料を献上した。」ということです。

 長尾景虎は、上杉政虎と改名しました。天文二十一年(1552年)五月、上杉政虎従五位下弾正少弼に叙任され、越後守護職の継承にふさわしい格式を得ると同時に、上杉憲政を扶助するという立場が明確になりました。憲政は出家して「成悦」と号して越後に在国していました。

 

 上杉憲政が越後へ逃亡したことは、関東において室町時代が終焉を迎えたことを示す出来事であったと私は思います。室町幕府を開いた足利尊氏は、関東を統治する機関として鎌倉府を設置し、尊氏の三男である基氏が初代鎌倉公方となりました。若い鎌倉公方の補佐役として設けられたのたが関東管領職でした。

 当初、関東管領職についたのは斯波家永でしたが、観応擾乱の後、基氏から信頼されていた上杉憲顕関東管領職に就任にし、その後は上杉氏が関東管領職を独占し世襲してきたのです。まさに、関東管領とは、関東の室町時代の権威と秩序を象徴する存在であったと言えます。

 享徳三年(1454年)からおよそ30年もの間続いた享徳の乱において関東管領上杉氏は古河公方と対立し勢力を拡大しました。しかし、この時代が関東管領の全盛期であったと思われます。長い戦乱によって室町時代に築かれた鎌倉府や関東管領の権威は、すでに衰え始めていたのです。

 このころ関東では、室町時代から戦国時代へ移る過渡期を迎えていました。武将たちは、古い権威や秩序を軽んじ、自らの武力で勢力を拡大するようになったのです。そして、権威を守るべき立場にあった山内上杉氏と扇谷上杉氏との間で勢力争いが勃発しました。両上杉の戦いは双方を疲弊させ、そのすきをついて北条氏が関東へ侵攻してきたのです。

 北条氏は、宗瑞、氏綱、氏康という親子三代にわたって関東へ侵攻を続け上杉氏の領国を奪い取ってきました。そして、ついに氏康は関東管領上杉憲政を関東から追い出してしまったのです。氏康は、室町時代の残照ともいうべき関東管領という存在を完全にかき消してしまったのです。

 

 伊勢宗瑞が小田原城を奪取したのは文亀元年(1501年)のことでした。それから約五十年をかけて北条氏は関東への進出を図って上杉氏と抗争を続けていましたが、その戦いに勝利したのです。こののち、北条氏は天正十八年(1590年)豊臣秀吉に攻め滅ぼされるまで約四十年間関東に君臨したのでした。

 すなわち、北条氏は関東の戦国時代においておよそ九十年もの間時代の中心にいたのです。新興の成り上がりものでしかなかった北条氏が、なぜ関東の覇者となりえたのでしょうか?私は以前その理由として、北条氏の歴代当主たちが持っている戦国武将としての個人的な能力の高さを説明しました。宗瑞、氏綱、氏康は、武勇に優れていたのはもちろんのこと、非常に高度な思考力を持ち、ここぞという時に的確な判断を下し、素早く行動を起こせる人物でした。彼らの思考力、判断力、行動力の源泉になっていたのは、北条家の家訓である早雲寺殿21箇条にある「勝負脳」を鍛えるための生活習慣でした。

 しかし、北条家歴代当主の個人的な能力の高さだけが、北条氏成功の理由ではありません。北条氏の強さの秘密は、集団としての強さ、組織としての強さにあると私は考えます。北条氏は、戦国時代においては珍しく一族が結束し、家督相続争いなどの内部抗争を起こしたことがありません。

 この組織としてのまとまりの良さを創り出す土台となっていたのは、若き日の伊勢宗瑞と苦楽をともにした仲間の存在でした。青年時代の宗瑞には6人の仲間がいました。荒木兵庫頭、山中才四郎、多目権兵衛、荒川又次郎、大道寺太郎、在竹兵衛尉です。宗瑞と6人の仲間たちは、この7人のうちの誰かが一国一城の主となったあかつきには、のこる6人は家来となり、その出世頭を主君と仰いで力をあわせようと誓いあっていたのです。7人の若者は、それぞれの夢を抱いて冒険の旅に出たのでした。

 駿河国に赴いた伊勢宗瑞は、今川家の内乱に身を投じて今川氏親を助け、今川家の正当な跡継ぎである氏親に今川家の家督を相続させることに成功しました。この手柄によって、宗瑞は氏親から駿河国の東部に位置する興国寺城を与えられ城の主となることができたのです。そして、他の仲間たちは、約束通りに宗瑞の家来となり、宗瑞を盛り立てていくことになったのです。

 この話は、小田原北条記に記された逸話であり、真実かどうかはわかりませんが、北条家の家臣団が、主君のもとに結束し様々な難局を乗り切ってきたからこそ、北条氏は伊豆国を振り出しに、相模国武蔵国と領国を拡大していくことができたのです。伝説の若者たちの子孫は、氏康の時代になっても重臣として活躍していました。北条軍が奇跡的な勝利を挙げた河越夜合戦において、攻撃部隊を率いていたのは大道寺氏や荒川氏でした。また、合戦に加わることなく遊軍として控えていたのは、多目大膳亮の率いた軍勢でした。

 多目大膳亮が率いた遊軍は、決して合戦に加わらず陣地を動くなと氏康から厳命されていたのです。戦国時代の武将にとって、戦うことを禁じられるのは屈辱的なことではないでしょうか。しかし、氏康が多目大膳亮に下した命令には重要な意味があったのです。

 河越夜合戦では、北条軍は十倍の敵と戦わねばなりませんでした。ですから、全兵力を投入して勝ったとしても、戦いが終われば兵士は消耗しきっているはずです。そこへ新たな敵が出現すれば、もはや戦える兵士は残っておらず、せっかくの勝利も水の泡となってしまいます。その危険を防ぐために、氏康は遊軍を残しておきました。多目大膳亮は自分の役割を十分に理解していたので、氏康の命令に不服を唱えることはありませんでした。そして、多目大膳亮の遊軍は、合戦が終わった後の疲れ切った味方の軍勢を守る役割をしっかりと果たしたのです。

 

  重臣たちだけではなく、北条家では下々の家来たちもこぞって主君の為に働こうという気概を持っていたのです。例えば、北条氏綱が、小弓公方足利義明を破った国府台合戦の時には、合戦を前にした軍議の席で、末席にいた根来金石斎というものが、兵法に基づいた積極的な攻撃策を具申したところ、氏綱はその策を採用して勝利を収めました。金石斎は剣と馬の褒美を氏綱から頂戴したうえ、攻撃の先手までまかされたのでした。

 一方、敗れた足利義明は、家臣の進言を退け、冷静な戦況分析もすることなく、ただがむしゃらに攻撃に出たので、味方は大敗し義明自身は戦場で討ち死にしてしまいました。この戦いの結末は、北条家の組織力の強さをまざまざと見せつけたのでした。

 このように、北条氏は風通しの良い組織として成り立っていたのです。その気風は武士たちの中だけにおさまることなく、北条氏の本居地である小田原城下にも及んでいました。戦国時代の小田原は、新しい時代を切り開くという雰囲気に満ち溢れた城下町だったのです。

 小田原城下の活気は、国の内外から多くの人や物を呼び寄せたのです。そのなかでも特に有名なのが、京都からやってきた霊薬を商う外郎という町人でした。外郎が扱う薬は大層な評判となり、その評判が氏綱のもとにも届いたので、外郎は氏綱に拝謁する機会を得たのです。氏綱は外郎の話を聞いて感心し、外郎に屋敷を与えて小田原にとどまらせたということです。その外郎の子孫が、今でも小田原に在住し「ういろう」を販売されているのです。

 

 このようにして、北条氏は戦国時代の関東において、大きなる繁栄を遂げたのです。北条氏は新興勢力として登場してきたので、他の勢力に比べて一族・組織としての団結力が非常に強かったのです。その団結力の強さが、戦国時代のような有事には重要な意味を持つのです。

 孫子は、兵法書の巻頭で「兵とは国の大事なり」と述べています。すなわち、戦争とは国家の一大事であり、この戦争に勝てるか、あるいは負けて滅びるかは、五つの事柄によって決まってくると言っています。

 孫子がその五項目の第一番目に挙げているのが、「道」です。道とは、すなわち、国の指導者の心と民の心が一つになっているかどうかということです。戦国時代の北条氏は、主君と家臣団の心がひとつになり、共通の目的に向かって邁進できたからこそ大きな成功を収めることができたのです。国家のリーダーが正しい政治を行っていたからこそ、人々はそのリーダーの考えに従い、国の一大事に際して皆で協力して、危機を乗り越えることができたのです。

 翻って、現代の日本に於いて、国家のリーダーと国民の心はひとつになっているでしょうか?コロナ禍という国の一大事を我々は乗り切ることができるでしょうか?

 私は、国民の心をひとつにしようというリーダーの努力が足りないように思えてなりません。現代は、様々な価値観や様々なライフスタイルが尊重される時代、いわゆる多様性を重視する時代です。ですから、ある特定の目標や価値観に人々を縛りつけるのが困難であることは間違いありません。だからと言って、国家のリーダーが、形ばかりの緊急事態宣言を発出するだけでは、この危機を乗り切ることはできないでしょう。国家のリーダーは、こういう時こそ必死になって国民の心をひとつにするためのアイデアを考え、そのアイデアを実行に移すべきなのです。

 そして、我々自身もまさに歴史の分岐点に立っているのです。我々は、ただ単に歴史の目撃者となるのではなく、その時歴史を動かした「人々」となるべきではないでしょうか。

 

今回参考にさせていただいた文献は以下の通りです。

 

関東古戦録 槙島昭武 著  久保田順一 訳  あかぎ出版

小田原北条記 江西逸志子 原著 岸正尚 訳  ニュートンプレス

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

関東の戦国 河越夜合戦と福島綱成・勝広兄弟の活躍

 天文十五年(1546年)四月、関東の戦国史に残る大きな合戦が起きました。総勢十万人に近い軍勢が戦った大合戦です。この合戦は河越夜合戦と呼ばれています。もしも、関東の戦国時代が日本史の本流になっていれば、この合戦は桶狭間の合戦や長篠の合戦と同じように日本人なら誰でも知っているような合戦になっていたでしょう。また、仮に北条氏康を主人公にした大河ドラマが作られるとしたら、この戦いは名場面のひとつになり、この戦いで活躍した北条方の福島綱成・勝広の兄弟は戦国時代のヒーローとして人気者になったでしょう。

 しかし、残念なことに関東の戦国時代は歴史の片隅に埋もれています。現在関東地方で暮らしている人々の中に、戦国時代に埼玉県川越市でそのような大合戦があったことを知る人は少ないでしょう。そこで今回は、関東戦国史の前半を締めくくる大きな分岐点になった河越夜合戦の話をします。

 

 天文十年(1541年)七月、北条氏綱は病のため亡くなりました。氏綱は亡くなる二か月前に北条家の家督を嫡男氏康に譲り渡していました。

 この氏綱の死を好機到来と考えた武将がいました。その武将とは、関東管領山内上杉憲政です。憲政の父上杉憲房は、関東に進出してきた北条氏綱を倒すことに生涯をかけた武将でした。一時は、扇谷朝興や武田信虎、真里谷武田恕鑑、里見義豊、小弓公方足利義明らと連携して「北条氏綱包囲網」を形成することに成功し、憲房は氏綱を窮地に追い詰めたこともありました。しかし、打倒北条の宿願を果たすことなく上杉憲房は大永五年(1525年)にこの世を去りました。

 憲房が亡くなった時、憲政はまだ幼児であったので山内上杉家家督を継ぐことは見送られ、憲房の養子になっていた憲広が山内上杉家家督を継ぎ関東管領の座についていました。しかし、古河公方足利高基の次男であり上杉家の血をひいていない憲広は上杉家中の信頼や支持を得ることができずに、わずか5年で上杉家の家督を憲政に譲り上杉家を離れていきました。その後、上杉憲広は名を足利晴直に改め上総国の宮原(千葉県市原市)という地で余生を過ごしたということです。

 上杉憲房は享禄四年(1531年)に9歳で山内上杉家家督を継ぎ関東管領の座に就くことになりました。前関東管領憲広の時代は、君臣一体となることができず山内上杉家の威勢は衰えていました。その跡を継いだ憲政もまだ幼く、関東管領はかつての隆盛を取り戻すことができずにいました。憲政が関東管領に就いて10年の間、関東では北条氏綱が勢力を大きく伸ばしていたのです。

 北条氏綱相模国を振り出しにして、北辺を除く武蔵国の大半を領国とし、真里谷武田氏や小弓城主原氏などを支配下に入れ上総国下総国にも勢力を広げていました。さらに、古河公方足利晴氏と姻戚関係を結び、小弓公方足利義明を滅亡させた勲功を称され非公式ながらも関東管領に補任されていたのです。新興勢力である北条氏綱の台頭によって、室町時代より関東管領職を代々世襲してきた山内上杉氏の威信はすっかり失われていました。上杉憲政関東管領の名に懸けて、北条氏綱の跡継ぎである北条氏康を倒す必要があったのです。

 

 そして、上杉憲政が19歳になった時、ようやく北条を倒す機会が巡ってきたのです。天文十年九月下旬、上杉憲政はさっそく河越城へ攻撃を仕掛けました。しかし、北条方の守りは固く、この時の合戦で上杉軍は敗退しました。上杉軍が単独で北条軍を攻略することは困難であると悟った憲政は、安房の里見義堯や駿河今川義元と手を結び北条氏康を討伐するという策略を思いついたのです。

 天文十三年(1544年)上杉憲政は、安房の里見義堯に働きかけ、安房と上総の国境地帯で里見軍に軍事行動を起こさせました。この地域では里見と北条の領地争いが繰り返されていたのです。憲政は北条氏康安房で里見と争っている間に、武蔵国で軍事行動を起こそうと考えていたのでしょう。しかし、氏康は里見軍の動きに即応し、安房に水軍を派遣して里見軍と一戦を交え里見軍の動きを早々に抑え込み、憲房に挟撃する機会を与えませんでした。

 すると、憲政は翌天文十四年に駿河今川義元と連携し、駿河国武蔵国の双方で同時に北条の城を攻撃し北条氏康を挟み撃ちにしようと考えたのです。まずはじめに動いたのは今川義元でした。駿河の長窪城(駿東郡長泉町)はもともと今川の城でしたが北条に奪われていました。上杉憲政と手を結んだ義元は、長窪城を奪還すべく軍事行動を起こしたのです。同年七月、今川義元駿河遠江の軍勢を率いて長窪城へ押し寄せました。さらに、今川と同盟を結んでいた甲斐の武田晴信の軍勢も長窪城の包囲に加わりました。

 小田原城北条氏康は、長窪城を救援すべく軍勢を率いて出陣しようとしていました。そこへ驚くべき知らせが入ってきました。上杉憲政と扇谷朝定が大軍を率いて河越城へ攻め寄せてきたというのです。上杉・扇谷の軍勢に加わっていたのは上野、下野、北武蔵、常陸、下総から集まってきた六万五千騎の軍勢でした。

 天文十四年の秋、河越城周辺の武蔵野の広野は上杉方の軍勢によって埋め尽くされていました。その時の様子を「関東古戦録」は次のように伝えています。「上杉方の武将は、真っ平な武蔵野に、それぞれに城戸(門)を構えて旗を立て陣幕を張り巡らしており、その様子はきら星が連なるようで人々の目を大いに驚かせた」

 北条氏康は、東西の敵に対応しなければならないという窮地に陥りました。この窮地を脱するために、氏康は今川義元と和議を結ぶことにしたのです。氏康は甲斐の武田晴信に仲介を頼み、富士川以東の東駿河の地を今川に返還することを条件にして今川義元と和睦し、東方の脅威を取り除きました。そして、河越城の救援に乗り出したのです。

 

 この時、上杉の大軍に囲まれていた河越城は、わずか三千の城兵ながら城の守りを固めてなんとか持ちこたえていました。河越城の城代を務めていたのは福島綱成(くしま つなしげ)という武将です。綱成の父福島兵庫正成は摂津源氏の源頼国の末裔で、遠江の土方にある高天神城の城主でした。(この高天神城は後に武田信玄・勝頼と徳川家康が戦った難攻不落の城として有名です)ところが、文明十年(1478年)今川家では家督相続争いが起こりました。この相続争いに巻き込まれた福島兵庫正成は今川家を離れ駿東郡に逼塞していました。やがて月日が流れ自立をはかろうとした正成は、仲間を集めて甲斐へ乱入し一旗揚げようとしたのです。しかし、その企ては失敗し、正成は大永元年(1521年)に命を落としてしまいました。父正成が死んだ時、綱成は七歳の子供でしたが、家人に守られ弟とともに小田原へ落ち延びていたのです。

 その後、福島綱成は小田原で立派な武者に成長しました。綱成は北条氏綱に仕え戦場では幾多の武功をあげていました。氏綱は綱成の才能を認め重臣として用いただけではなく娘婿として迎えたので、綱成は北条氏の一門に加わることになったのです。福島綱成は合戦に出る時、常に朽葉色に染めた練絹に八幡と墨で書いた旗指物を用いていました。綱成は軍勢の先頭を進み「勝つ」と声を掛けて味方を鼓舞して回ったということです。綱成の率いた軍勢は神がかったようで、人々はこれを「地黄八幡」と呼び習わしたそうです。そして、今回の河越城の籠城戦でも、福島綱成が武神のような働きをして城兵を鼓舞し防戦に努めたので、寄せ手の上杉勢は多くの犠牲者を出してしまい城を攻めあぐねていました。

 河越城攻めが膠着状態に陥ったので、上杉憲政は戦況を打開すべく古河公方足利晴氏を味方に引き入れる工作を始めました。これに対して北条氏康足利晴氏に使者を送り晴氏に中立でいるように要請しました。双方の駆け引きは何度か繰り返されましたが、最終的に晴氏は上杉方へ加担することを選択しました。

 天文十四年十月、古河公方足利晴氏は二万の軍勢を従えて古河を出陣し、河越城の包囲に加わったのです。晴氏の出馬によって河越城への兵粮の道が遮断され、城に籠る北条軍は窮地に追い込まれました。城に蓄えられていた兵粮は日に日に減っていきます。このままでは城兵は飢え死にするか、敵方に下って落城せざるを得ない状況になってしまったのです。

 なんとしても河越城を救いたい北条氏康は、敵を欺いて攻略する奇策を思いつきました。その作戦を成功させるためには、敵方を油断させるための時間が必要でした。しかし、その間に河越城が落城してしまったのでは元も子もありません。氏康は、早急に味方の作戦を河越城に知らせる必要があったのです。

 ところが、河越城は上杉方の軍勢に幾重にも包囲されており、この厳重な囲みを突破して城へ潜入することは至難の業でした。城に向かう使者が途中で敵方に捕まり、味方の作戦が露見してしまっては、もはや河越城を救う手立てはなくなってしまいます。どうやって河越城へ知らせを送るのか氏康が思案に暮れていると、ひとりの武者が進み出て使者をかってでたのです。

 その武者とは、福島綱成の弟である勝広でした。勝広はこの困難な役目を命を懸けて成功させると申し出ました。それが、幼いころから自分たち兄弟を育ててくれた主君への恩返しであると言うのです。また、万が一敵方に捕らえられ拷問にかけられても、自分は兄の窮地を救うために絶対に口を割らないと誓いました。

 勝広は兄に劣らぬ武勇の持ち主で、見目麗しい武者であり、主君氏康がとりわけ目をかけている武者でした。氏康は勝広の決意を聞いてはらはらと涙をこぼしながら、これが最後とばかりに盃を与え勝広を送り出したのです。

 福島勝広は敵方に忍び込んでいた風魔衆の忍びから敵方の合言葉を確かめると、小田原を出発して河越城へ向かいました。敵の陣へ近づくと、勝広は従ってきた家臣たちを小田原へ帰し、ただ一騎で敵中へ入っていきました。おびただしい敵の中を勝広は平然と馬を進めていき、敵に怪しまれることなく無事に河越城へ入ることができました。そして、兄綱成と対面して主君氏康の作戦を伝えことができたのです。こうして、河越城の城兵は氏康の作戦を知ることができ再び戦意を盛り返したのです。

 

 さて、北条氏康上杉憲政の大軍を打ち破るために取った作戦とは、「孫子の兵法」でした。孫子は「兵とは詭道なり」と説いています。すなわち戦いでは敵を欺く作戦こそが最も有効だというのです。

 「能なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し・・・」というように、戦いに勝つためには軍隊は強くとも敵には弱く見せかけ、兵士は勇敢でも敵には臆病に見せかけろというのです。さらに「卑にしてこれを驕らせ」敵が謙虚なときはそれを驕りたかぶらせ、「其の無備を攻め、其の不意に出ず」敵の無備を攻め、敵の不意をつけというのです。

 氏康は「孫子の兵法」を実践しました。まず、氏康は上杉憲政足利晴氏に使者を送り、「河越城に籠っている兵の命さえ助けてくれれば城は明け渡します」と申し入れをしました。これを聞いた上杉憲政は、氏康が窮地に陥っている今こそ北条を滅亡させる絶好の機会であると思い、氏康の申し入れを無視して武蔵砂窪(埼玉県川越市砂久保)にある氏康の本陣に二万の軍勢を向かわせました。この時、上杉勢に攻められた氏康の軍勢は、戦うことなく武蔵砂窪から兵を退きました。これをみた上杉軍は、北条氏康は臆病者だと笑ったということです。

 しばらくして、氏康は再び武蔵砂窪へ出陣しました。そして、上杉勢が攻め寄せてくると今度も氏康は戦わずに陣を引き払いました。上杉憲政は、逃げていく北条氏康の軍勢をみて、完全に相手をあなどりました。「関東古戦録」の作者は、「この時、憲政に戦略の才能があれば氏康を討ち取ることができたであろうに、暗愚な憲政は何の手も打たずにみすみす好機を見逃した」と言っています。

 一方の氏康は、敵方に忍びを放って情報を集めていました。氏康は、自分が臆病なふりをすることで上杉勢が完全に油断していることを知りました。そして、氏康はついに「機は熟した」と判断し河越城を奪還するための戦を実行に移したのです。

 

 天文十五年(1546年)四月二十日、北条氏康は八千騎の軍勢を率いて三たび武蔵砂窪に出陣しました。氏康は八千騎の軍勢を四つの部隊にわけ、多米大膳亮が指揮する一隊を遊軍として配置し、戦いに加わることなく決して備えを乱すなと命じました。氏康は残る三隊を戦いに投入し、各隊が連動して戦うように命令しました。北条軍の兵士たちは、白い目印を身に着け、合言葉を決めて、重い甲冑を着けずに身軽な恰好になりました。そして、敵の首はとらずに味方の法螺貝の合図にしたがって迅速に行動するように厳しい軍律が定められました。

 深夜子の刻(午前零時ころ)北条軍は寝静まっている上杉軍に襲いかかりました。油断しきっていた上杉軍の兵士は次々と切られ、あるいは同士討ちを始めて大混乱に陥り総崩れとなりました。攻め込んだ北条軍では、大将である氏康自身が長刀を取って獅子奮迅の活躍をし十四人の敵を討ち取ったということです。このため北条の軍勢は勢いに乗って敵を攻め続け、散々に敵を蹴散らしていきました。

 また、河越城の福島綱成は、氏康軍の夜襲が開始されると機を見て城門を開き、三千の軍勢を率いて城から打って出て古河公方足利晴氏の陣に攻めかかりました。先頭を駆ける綱成は、いつものように黄八幡の指物をなびかせて「勝った、勝った」と味方を鼓舞しながら敵中へ切り込み次々に敵を討ち取っていきました。古河公方の陣営では、北条軍の動きを見て夜襲を警戒していましたが、思いもよらず明け方近くになって河越城の軍勢が攻撃してきたので全く対処できずに翻弄されてしまいました。

 夜が明ける前に戦いは終わり、北条軍は大勝利を挙げていました。上杉勢では扇谷朝定が討たれ扇谷上杉家は滅亡しました。また、倉賀野三河守、本庄藤九郎、難波田隼人正、本間近江守など上杉方の名だたる武将が多数討ち死にしていました。上杉憲政足利晴氏は、梁田、一色、結城、相馬など数多くの味方の軍勢を犠牲にしてなんとか逃げおおせていましたが、河越夜合戦における上杉勢・古河公方勢の戦死者は一万三千人にも及んだと関東古戦録は伝えています。

 東の空が漆黒から藍色へ変わり始めるころ、北条軍は全軍が北条氏康のもとに集結していました。戦いに加わらず体力を温存していた多米大膳亮の率いる遊軍が、氏康本陣の守りを固め敵の反撃に備えました。多米大膳亮はこの奇跡的な勝利に決して奢ることなく「勝って兜の緒を締めよ」と言って味方の士気が緩まないように気を配っていました。北条軍は高らかに勝鬨の声をあげました。その勝利の雄たけびが、明け行く武蔵野の広野に響き渡りました。そのあと、氏康は福島綱成・勝広の兄弟を招きよせ長い間籠城戦に耐えてくれた綱成の労をねぎらい、命を懸けて敵中を突破した勝広の忠義を称えました。氏康は「こたびの戦の勝利は、汝ら兄弟の忠義の賜物である」と何度も繰り返して感謝したということです。

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

関東古戦録 槙島昭武著 久保田順一訳 あかぎ出版

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

新訂 孫子 金谷修訳注 岩波文庫

関東の戦国 鉄砲伝来以前、最強の戦国武将は北条氏綱

 関東の戦国時代は、明応二年(1493年)に伊勢宗瑞が伊豆の堀越公方足利茶々丸を襲撃したことから始まりました。宗瑞が堀越公方を襲撃したのは、同じ年に京都で細川政元が起こした明応の政変というクーデターと連動した「かたき討ち」でした。このかたき討ちは、クーデターで十一代将軍の座についた足利義澄が伊勢宗瑞に依頼したのもでした。将軍義澄の母と弟は、伊豆で茶々丸に殺害されていたのです。

 宗瑞は明応七年(1498年)に茶々丸を自害に追い込み「かたき討ち」を完了しましたが、その後も伊豆侵攻を止めることなく推し進め、伊豆一国の支配権を手に入れ戦国大名となったのです。さらに、宗瑞の野望は伊豆一国を支配することにとどまらず、関東侵略を視野に入れていました。

 そのころ関東では、関東管領山内上杉顕定と相模・武蔵の守護扇谷上杉定正の間で激しい覇権争いが起きていました。伊勢宗瑞は両上杉の覇権争いに乗じて小田原城を奪取し関東侵略の足掛かりを得たのです。

 伊勢宗瑞の息子である北条氏綱は、父の遺志を引き継ぎ小田原城を拠点にして関東侵略に乗り出しました。しかし、氏綱の前には覇権争いを終わらせた関東管領山内上杉氏武蔵国守護扇谷氏や小弓公方足利義明など室町時代から関東に君臨してきた武家勢力が立ちはだかっていました。言わば、関東の戦国時代の前半は、長らく関東を支配してきた旧勢力と新興勢力である北条氏とのぶつかりあいであったのです。

 

 当ブログでは、明応二年(1493年)に始まった伊勢宗瑞の伊豆侵攻から天文七年(1538年)の下総相模台合戦に至る関東の戦国時代前半の歴史を八回にわたってお話してきました。このおよそ五十年間にわたる関東の戦国時代前半の歴史のなかで傑出しているのは、やはり北条氏綱の活躍です。

 氏綱は大永四年(1524年)正月に扇谷氏の城である江戸城を攻略し武蔵国南部に進出します。この後、氏綱は山内上杉、扇谷上杉、小弓公方武田信虎などによって形成された「氏綱包囲網」に苦しめられますが、なんとかその窮地を脱して天文六年(1537年)に扇谷朝定を破り、扇谷上杉氏の本城である河越城を奪って武蔵国を完全に支配下に収めました。さらに翌天文七年(1538年)には下総相模台合戦で小弓公方足利義明を滅亡させました。氏綱は小弓公方が支配していた下総国小弓城には原氏を入れ、上総国には真里谷武田信隆を配置してこの地域を北条氏の支配する地域に組み込んだのです。

 この時点で、北条氏綱が支配していた領域は、伊豆国相模国武蔵国の三か国に加えて、氏綱に従う真里谷武田氏の上総国と同じく氏綱に従う原氏が支配する下総国の一部に及び、さらに駿河国の東部も北条氏の支配地域に含まれていました。

 北条氏綱の力は、同時代の戦国武将と比較しても傑出していると思われます。例えば氏綱と同様に斎藤道三は親子二代で下克上を成し遂げていましたが、支配している領国は美濃一国でしたし、後に西国一の戦国大名となる毛利元就もこの時点では、まだ大内氏の傘下にいて安芸国の一部を支配しているにすぎませんでした。

 毛利元就が仕えていた大内義興は周防、長門を領国とし全盛期には安芸、石見、筑前豊前を支配し、永正五年(1508年)から永正十五年(1518年)の間は上洛して室町幕府を支える重鎮として活躍していたのです。こうしてみると、氏綱は西国の太守大内義興に匹敵する力を持っていたと言っても過言ではありません。

 ちなみに戦国時代の英雄たちが生まれた年は次の通りです。武田信玄=1521年、上杉謙信=1530年、織田信長=1534年、豊臣秀吉=1537年、徳川家康=1543年。彼らは氏綱の次世代の武将たちでした。

 

 ところで、氏綱が活躍していた時代に鉄砲はまだ伝来していませんでした。日本に鉄砲が伝来したのは天文十二年(1543年)のことです。氏綱はその二年前天文十年(1541年)七月に亡くなっています。すなわち、氏綱が戦っていたころ合戦の主要な武器は弓矢や長刀でした。そのせいか小田原北条記に記述されている合戦の様子はどこか中世的な色合いを深く残しています。

 その中世的な戦いの中で、北条氏綱の戦いぶりは異彩を放っていました。氏綱の関東侵略はまさに電撃作戦と言ってもいいほどです。扇谷上杉氏や小弓公方を滅亡に追い込み、瞬く間に関東南部を席捲した氏綱の軍事行動の特徴は、まさに素早い決断と行動にあったと思われます。

 例えば、天文六年の河越城攻略の際、先に動いたのは扇谷朝定でした。朝定は氏綱の支配する相模国を攻撃するための前線基地として深大寺城を構築しました。ところが氏綱は、この情報を知るとすぐに大軍勢を率いて深大寺城へ攻め寄せてこの城を攻略し、休む間もなく一気に河越城へ迫りこの城も落城させて扇谷朝定を滅亡へと追い込んでいったのです。

 また、天文七年の下総国相模台合戦に於いても先に動いたのは、小弓公方足利義明の方でした。義明は江戸川河畔に位置する国府台城に軍勢を入れて、氏綱の城である江戸城や葛西城を牽制しようとしたのです。

 しかし、この時も敵の動きに素早く対応したのは氏綱でした。当初氏綱は戦いを避けるために和平交渉を行っていました。しかし、交渉が決裂するやいなや氏綱は江戸城河越城に兵糧を運び込み城の守りを固めると、またしても電光石火の素早さで軍事行動を開始し、大軍を率いて国府台城へ迫り敵の隙をついて江戸川を渡り勝利を得たのです。

 私が注目するのは、いざ軍事行動を開始すると決断してからの氏綱の行動の速さです。氏綱の強さは、短期間で兵糧を集めて輸送したり、数千の軍勢を素早く集めて迅速に行動することができることだと思います。

 氏綱に敗れた扇谷朝定や足利義明は、とりあえず城を築いて軍勢を集め、戦いの準備することはできても、そのあとの行動がともなっていないのです。ある意味、彼等は敵を攻撃する準備をしただけで満足しているように私には思えます。

 

 いったい、勝った北条氏綱と負けた扇谷朝定や足利義明との間にはどのような違いがあるのでしょうか?その答えを導き出すヒントは、氏綱の父伊勢宗瑞が残した家訓「早雲寺殿廿一箇条」にあると私は考えます。

 この「早雲寺殿廿一箇条」は、伊勢宗瑞が家臣に対して日常の心構えや態度を示したものであると伝えられています。日常の心構えと聞いて肩透かしをくった方もいらっしゃると思いますが、油断は禁物です。この家訓には、現代の脳神経医学者が提唱する、脳の働きを格段に高めるための良い習慣と共通する要素が数多く含まれているのです。

 その脳神経医学者とは、北京オリンピックの競泳日本代表チームに招かれ「勝負脳」を鍛えるためのアドバイスを行った林成之先生です。林先生の著書「脳に悪い七つの習慣」によれば、我々が日常生活で行っている悪い習慣を変えることで脳の働きは格段に高まり、高度な思考力を使って素早い決断を下し、ここぞという勝負所で高いパフォーマンスを発揮できる人間になれるというとです。そして、林先生の提唱は、北京オリンピックの舞台で北島康介選手が金メダルを獲得するなどした競泳日本代表チームの活躍で証明されているのです。

 では、「勝負脳」を作り出す習慣と「早雲寺殿廿一箇条」の共通点をみていきましょう。家訓では、「読書をすること」「歌道を学ぶこと」「文武を兼備すること」を奨励しています。これは、様々なことに興味や関心を持って前向きに取り組むことにつながります。これは勝負脳を作りだすための第一ステップです。

 次に、家訓では「常に素直で正直な心を持ちなさい」と説いています。林先生の著書によると、人の話を聞いた時や新しい知識にふれたときには素直に感動することが大切だそうです。「感動する力」は脳をレベルアップさせるそうです。

 また、家訓では「友人を選びなさい」と言っています。良き友人を持ちその友人たちから自分の存在を認められること、褒められること、友人の役に立つこと、これらは人間の脳が最も喜びを感じる瞬間だそうです。その喜びの瞬間をもう一度味わいたいという気持ちが、脳の働きを大いに高める原動力となるそうです。

 まだこのほかにも、「早雲寺殿廿一箇条」と「勝負脳」の間には多くの共通点がありますので、興味のある方は林先生の著書と早雲寺殿廿一箇条をぜひ読み比べてみてください。

 

 北条氏綱は、子供のころから父宗瑞に英才教育を受け、高度な思考力を持ち、重要な決断を下し、ここぞという場面で一気に勝利を勝ち取ることのできる能力を身に着けたのだと思います。そして、北条氏綱の本拠地である小田原は、氏綱の個人的な能力を大いに活かせる場所でした。

 戦国時代の小田原は交易で栄え、大内氏の本拠地である山口と並び称せられるほどの町でした。小田原の繁栄が、北条氏の経済基盤を支え、諸国の情報をもたらす要因になったと考えらえます。小田原というバックボーンがあったからこそ、氏綱は諸国からもたらせれる情報を使って戦略を練り、大軍勢を集めることができ、大量の兵糧を用意したりすることが可能だったのです。その地の利を生かした氏綱は、「勝負脳」を使って他の武将を凌駕する軍事行動を展開し、瞬く間に南関東を席捲していったのです。

 まさに、北条氏綱は、鉄砲伝来以前における日本で最強の武将であったと言えるでしょう。

 

今回参考にした資料は以下の通りです

 

小田原市公式サイト 観光 早雲寺殿廿一箇条

「脳に悪い7つの習慣」 林成之 幻冬舎新書

小田原北条記(上) 江西逸志子 原著  岸正尚 訳 ニュートンプレス

関東の戦国 北条氏綱の侵略を正当化させてしまった関東足利氏の争い「下総国相模台合戦」

 天文六年(1537年)七月、北条氏綱は扇谷朝定の本拠地である河越城を攻略しました。翌天文七年二月に氏綱は、扇谷家の家臣大石氏が守る葛西城(東京都葛飾区)を落城させ、さらに太田資正の居城である岩付城(さいたま市岩槻区)を攻撃し城の周辺を焼き討ちしました。氏綱は扇谷氏の勢力を退けて武蔵国の実質的な支配権を手に入れたのです。新たな領国を獲得した北条氏綱は、古河公方足利晴氏に接近し古河公方の権威によって領国の支配権を正当化しようと考えていました。

 この北条氏綱の動きに対して警戒を強めている者がいました。下総国小弓城を本拠地とする小弓公方足利義明です。足利義明は、関東足利氏の正統な後継者という地位を巡って兄の古河公方足利高基と激しく対立し西下総の江戸川流域や手賀沼周辺で長年に渡り戦いを繰り広げていました。高基は天文四年に亡くなりましたが、その跡を継いだ古河公方足利晴氏は、亡父の意志を引き継ぎ小弓公方との戦いを継続していました。その足利晴氏北条氏綱と手を組んで勢力を強めることは、足利義明にとって不利な状況を生み出すことになります。そのため、小弓公方足利義明は、北条氏綱を討伐し古河公方の勢力拡大を阻もうとしたのです。

 まったく、足利氏という一族は同族内での争いが絶えない一族でした。一族の歴史を振り返ると、足利尊氏と直義が起こした観応の擾乱は「日本史上最大の兄弟げんか」と言われていますし、応仁の乱では足利義政と義視が対立しました。さらに、関東で古河公方小弓公方が対立していた同時時代の畿内では義政の流れを汲む足利義晴と義視の流れを汲む足利義維が将軍の座を巡り争っていました。この争乱の中から三好長慶織田信長が台頭し、戦国時代は日本各地で戦国大名が領土の拡大を巡り争っていた時代から、有力な戦国大名が天下取りを目指す時代へと転換したのです。

 こういう歴史の流れを考えると、足利一族の争いが日本の歴史に大きな影響を与えてきたことがわかります。そして、古河公方小弓公方の争いも、関東の戦国時代の流れに大きな影響を与えることになりました。関東足利氏の正統な後継者争いが、北条氏綱の関東侵略に正当性を与えることになったのです。その経緯を詳しくみていきましょう。

 

 小弓公方足利義明は、北条氏綱を攻撃するために軍事行動を起こしました。天文七年の春頃、義明は下総国国府台城に軍勢を送り込んだのです。この城は江戸川東岸の河岸段丘の上に築かれた城であり、江戸城や葛西城を一望のもとに見渡すことができました。この場所に最初に城を築いたのは太田道灌です。文明十年(1478年)道灌は下総の千葉孝胤を討伐するための前線基地として国府台に陣城を構築しました。そのことからもわかるように国府台は軍事上の要衝であったのです。

 足利義明が北条方へ攻撃する動きを見せたことに対して、北条氏綱はすぐさま軍事行動を起こそうとはせずに和平工作を取ることにしました。古文書によれば、北条氏綱小弓公方足利義明に対して誠実な態度を怠らず、数回に渡って義明に使者を送り戦いを回避しようと努力したということです。

 しかし、足利義明は和平交渉に応じることはありませんでした。そのため、古河公方足利晴氏北条氏綱に対して「小弓公方足利義明の追討を命じる御内書」を下したのです。こうして氏綱は、古河公方の上意によって小弓公方と戦う大義名分を得たのです。すなわち、この後に起きた「下総国相模台合戦」は北条氏綱古河公方の命を受けて小弓公方を討伐する戦いという様相を呈していたのです。

 

 北条氏綱は、合戦の準備を始めました。江戸・河越の両城に兵糧を運び込み、両城の堀を深くし、櫓を上げて城の守りを十分に固めました。そして天文七年(1538年)10月2日、息子の氏康とともに小田原城を出立し、10月5日江戸城に入りました。江戸城には伊豆、相模、武蔵の軍勢が続々と集まってきました。小田原北条記には二万余騎の軍勢が集まったと記されています。

 これに対して、足利義明が軍勢を率いて国府台城に入ったのは9月末頃でした。義明に従ったのは嫡男義純、弟基頼など小弓公方の一族と馬廻衆安房の里見義堯、上総の真里谷武田信応など上総、下総、安房の軍勢でした。軍勢の正確な数はわかりませんが人数の比較では北条方は小弓方の5倍の軍勢を率いていたのではないかと推測されています。

 10月6日、北条氏綱江戸城から軍勢を率いて国府台へ向かいました。国府台城は江戸川の東岸にあるので、北条軍は江戸川を渡って敵を攻めることになります。このとき氏綱が渡河地点に選んだのは国府台の北方の松戸付近でした。6日の夕刻、北条軍は江戸川の西岸に到着し堤の下で待機しました。そして、夜明けとともに北条軍の先陣が江戸川を渡り「松戸のたいという山」に橋頭保を築きました。

 このとき、小弓方の椎津、村上、堀江、鹿嶋の軍勢が北条方の渡河地点の北側にある相模台城に詰めていたのですが、みすみす北条方の渡河を許してしまったのです。江戸川の東岸に橋頭保を築き渡河地点を確保した北条の軍勢は続々と川を渡り始めました。相模台城から国府台城の足利義明に、敵の渡河を知らせる急報が送られました。急報がもたらされた国府台城では、足利義明と家臣の間でつぎのようなやり取りがあったと小田原北条記は伝えています。

 北条軍が大軍勢で渡河中であるとの知らせを聞いた重臣のひとりが、足利義明に次のような進言をしました。「敵は大軍であり味方の人数は敵に劣っています。互角の戦いはできません。小が大を討つためには今すぐ敵に急襲を仕掛けるか、あるいは、一度退却するようにみせかけて敵軍を誘い込み、敵軍が川のなかばを越えた時に一気に先陣を攻撃すれば、敵軍を川へ追い落とすことができ味方は大勝するでしょう。」周囲にいた諸将たちは、この重臣の進言は的を得ていると思いました。

 しかし、足利義明はこの進言を一笑に付し、こう言いました。「退却するふりを装えば、敵を有利にする端緒となろう。戦いは軍勢の多少には関係しない。ただ兵が豪胆か臆病かによっているのだ。氏綱の武勇にどれほどのことがあろう。川を渡らせ近々と引き付け、わが手にかけて氏綱を討ち取って東国をたやすく治めよう。」

 この場のやりとりが史実であるかどうかはわかりません。小田原北条記は、勝った側の記述であるので負けた足利義明をことさら「宋襄の仁」のような愚か者に仕立てているのかもしれません。

 それはともかく、北条軍は敵方の妨害や攻撃を受けることなく、易々と江戸川を渡河したのです。対岸に上陸した北条軍は数で勝っており、義明の軍勢を圧倒しました。午前中の合戦で義明の嫡男義純と弟基頼は討ち死にしました。もはや、義明軍の敗北は明らかであり、義明の重臣逸見入道が義明に落ちのびることを進言しましたが、義明は激怒して「どうみても味方の軍勢が臆病で負けたのであろう。義明が先駆けして強力なことをやつらに思い知らせてやる」と叫んで先頭をきって攻撃に出ました。

 この日の義明は、赤地の直垂に、銅製の裾金物を打ち付けた唐綾おどしの鎧を着て、来国行の三尺二寸の「面影」という太刀と二尺七寸の先祖伝来の太刀を二振り腰につるという、まさに武家の棟梁たる源氏の大将にふさわしいいで立ちでした。武勇を誇る義明は、「法城寺」の大長刀の柄を短めに持ち、奥州三戸産の名馬「鬼つき毛」にまたがり敵陣めがけて駆け出したのです。

 義明は乗馬の名手で、剣術の達人でしたので馬上で長刀をふるい次々と敵をなぎ倒していきました。しかし、最期は、「八州にならぶもののない強弓引き」という高名を得ていた三浦城代の横井神介という武将が射た矢が義明に当たり、倒れたところで松田弥次郎に首を落とされ討ち死にしました。

 足利義明の軍勢は大敗しました。古文書によれば、「天文七年十月七日、下総国相模台合戦で足利義明、義純、基頼の三人を始め千余人が討ち死にした」との記述があるそうです。足利義明に従い戦場に赴いた真里谷武田と安房里見の軍勢は、日和見をして戦闘らしい戦闘もせず早々に戦場を離脱しました。彼らははじめから小弓公方に勝ち目はないと見限っていたようです。

 

 下総国相模台合戦で見事な勝利を収めた北条氏綱は、10月8日に国府台城に入って首実検を行いました。その後、足利義明・義純親子の首は古河城へ送られたということです。氏綱は戦後処置を実施し、小弓城には旧城主の原氏を入れ、武田真里谷信隆も一族の惣領として復活させました。こうして、上総国下総国南部は北条氏綱の傘下に入ったのです。

 また、小弓公方足利義明が滅亡したことで、長年続いた古河公方小弓公方の争いに終止符が打たれ、古河公方足利晴氏が関東足利氏の正統な後継者となったのです。天文七年十月、足利晴氏北条氏綱の勲功を賞して御内書を下し、氏綱を関東管領に任じました。本来、関東管領職の人事権を握っているのは室町幕府の将軍であるので、北条氏綱が正式な関東管領に就任したわけではありません。現に、この時には上野国の平井城に山内上杉家家督を相続し関東管領職に就いていた上杉憲政が健在であったのです。

 したがって、古河公方北条氏綱に対して関東管領職を授けたのは全くの茶番劇でしかなかったのです。しかしながら、たとえ茶番であるにせよ古河公方は、北条氏綱の戦勝に報いる必要がありました。古河公方小弓公方は長年争ってきましたが、古河公方は自分の力では小弓公方を倒すことはできませんでした。

 ところが、古河公方北条氏綱小弓公方の討伐を命じたところ、わずか一日の合戦で氏綱は小弓公方を滅亡させてしまったのです。北条氏綱の軍事力は他を圧倒しておりました。古河公方も氏綱の軍事力を脅威に感じたことでしょう。古河公方は、氏綱の機嫌を損ね矛先を自分に向けられることだけは避けねばなりませんでした。

 そのため、古河公方は氏綱に対して融和策を取らざるを得なかったのです。こうして北条氏綱は、古河公方から関東管領職の補任を受けることになりました。関東管領の肩書は正式なものではありませんが、氏綱はこの肩書を大いに利用し、自分が南関東相模国武蔵国上総国下総国南部)の正当な支配者であるということを主張したのです。さらに、天文八年(1539年)八月、北条氏綱は娘(芳春院殿)を足利晴氏に嫁がせて足利氏との姻戚関係を結び、北条家は関東足利氏の御一家であるという立場を築くことで、関東での政治力や支配力を一層強固なものにしたのです。

 

今回参考にした文献は次の通りです。

 原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著  岸正尚訳 ニュートンプレス

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

 

 

関東の戦国 北条氏綱の武蔵国制覇と扇谷上杉氏の滅亡

 天文六年(1537年)四月、扇谷朝興が河越城で病死しました。朝興は北条氏綱江戸城を奪われた屈辱を晴らすため、その生涯を氏綱を倒すことに費やしたのですが、つにに氏綱を倒すことは叶わず、鬼籍に入ったのでした。

 朝興の死後、扇谷上杉家家督を継いだのは息子の朝定でした。朝定の年齢はこの時まだ13歳であったと云われています。父の遺言に従った朝定は、亡父の弔いを早々に切り上げて、北条氏綱の討伐に乗り出したのです。まず、朝定が着手したのは、武蔵国深大寺にある古い城跡を改修することでした。

 もともとの深大寺城が誰の手によって築かれたのかは定かではありませんが、「埋もれた古城」というブログによると15世紀ころ狛江氏によって深大寺に城が築かれていたという説があるようです。今では、深大寺と言えばお蕎麦で有名ですが、蕎麦屋が建ち並ぶ深大寺門前通りの南側にある「神代植物公園水生植物園」の中には、朝定が改修した深大寺城の城跡が残っており、かつての空堀の遺構などを見ることができます。関東の戦国時代の痕跡は意外に身近なところに存在しています。コロナ禍が終息したら、訪れてみるのもいいかもしれません。

 

 さて、扇谷朝定が新たに築いた深大寺城は、武蔵野台地の南縁辺部に位置し、湿地や国分寺崖線などを利用した天然の要害で、南を眺めれば多摩川とその対岸を望むことができました。朝定は、この城に軍勢を集めて相模攻撃の前線基地にしようと考えていたのです。

 しかし、深大寺城はその目的を果たすことなく破壊されてしまいました。朝定の動きを察知した氏綱は、天文六年(1537年)七月に大軍を率いて深大寺城を攻撃しひと揉みに押しつぶしてしまったのです。氏綱軍はそのまま北へ進軍し、河越城までわずか5.5㎞の距離に位置する三木(埼玉県狭山市三木)という所に陣を構え、河越城を攻撃する態勢を整えたのです。

 小田原北条記によれば、氏綱は数万騎の軍勢を率いており、先陣の兵には井浪、橋本、多目、荒川を足軽大将としてつけ、松田、志水、朝倉、石巻を五方面に配備して敵の出方を待ったそうです。

 これに対して、扇谷朝定は叔父の左近大夫朝成を大将としておよそ二千騎の軍勢を三木へ差し向けました。三木という場所は開けた地形で、大軍が野戦を展開するのにうってつけの場所でした。大軍を擁し、地の利を得た北条軍は、扇谷軍を圧倒します。扇谷軍の大将である扇谷朝成は敵方に捕らえられ数多くの軍兵が討ち死にし、扇谷勢は大敗し河越城へ退却しました。

 河越城で戦況を見守っていた扇谷朝定は、北条の大軍を河越城で迎え撃つのは不利と判断し、城を捨てて難波田弾正が守っている松山城へ避難しました。こうして北条氏綱河越城を手に入れることができたのです。一方、朝定が松山城(埼玉県東松山市)にいることを知った扇谷勢の残党は、松山城へ集結し河越城を攻撃して奪い返そうとしていました。扇谷勢の動きを知った氏綱は、大軍を率いて松山城を襲撃し難波田弾正をはじめ多くの敵方を討ち取り周囲へ放火したのち河越城へ帰還したということです。

 

 北条氏綱は、大永四年(1524年)に江戸城を奪取し、天文六年(1537年)に河越城を手中に収めました。河越城享徳の乱以来、扇谷上杉氏の本拠地と定められ扇谷上杉氏が武蔵国を支配している象徴のような城でした。その河越城北条氏綱のものとなったことは、北条氏綱武蔵国制覇がほぼ達成されたことを意味します。

 北条氏綱河越城の城代に氏康の弟である北条為昌を配置しました。為昌は河越城の他、相模国東部を管轄する玉縄城(神奈川県鎌倉市)の城代も兼ねており兄氏康とともに父氏綱を支える重要な役割を果たしていたのです。北条氏綱が支配する領国は、相模国武蔵国伊豆国に加えて駿河国東部の一部にまで及んでいました。北条氏は、関東きっての戦国大名へと成長したのです。

 これに対して武蔵国の支配権を失った扇谷朝定は、かろうじて生き残り、松山城周辺の地域をどうにか支配していました。天文七年(1538年)以降、朝定は河越城を奪還するため何度も北条氏に戦いを挑みましたが、その都度北条方に跳ね返されていました。朝定の最期の戦いは、天文十五年(1546年)四月に起きた河越夜戦でした。この戦いの最中、扇谷朝定は討ち死にしました。

 永享十年(1438年)に勃発した永享の乱の頃から台頭し、相模国武蔵国の守護として両国を支配し、全盛期には関東管領山内上杉氏と並び立って関東に君臨した扇谷上杉氏は、朝定の死によって滅亡しました。室町時代から戦国時代へと大きく時代が転換するなかで一時代を築き、およそ90年間繁栄してきた扇谷上杉氏でしたが、新たに台頭してきた北条氏によって滅ぼされ歴史の舞台から消え去ったのです。

 

 しかし、江戸時代になると扇谷上杉家は庶民に人気のあった物語のなかに登場することになりました。その物語とは、曲亭馬琴が書いた長編小説の「南総里見八犬伝」です。八犬伝の中に登場するラスボス的存在が扇谷定正です。江戸の庶民にとって、扇谷定正は英雄太田道灌を暗殺した中心人物であり悪の権化というイメージがあったのでしょう。定正の他にも当ブログでしばしば登場する古河公方足利成氏関東管領上杉顕定も悪役として登場します。扇谷、足利、上杉の悪の連合軍は、里見八犬士の率いる安房里見家と戦い敗れるという物語です。

 私が小学生の頃、NHKが「新八犬伝」という子供向けの人形劇を放送していました。私はこの番組が大好きでよく見ていたのですが、今は亡き坂本九さんがナレーターを担当されていて「抜けば玉散る氷の刃」という名ぜりふとともに「関東管領扇谷定正」と言われていたことを懐かしく思い出します。

 

今回参考にさせていただいた文献およびブログ等

 

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著 岸正尚訳

扇谷上杉氏と太田道灌 黒田正樹 岩田書院

ブログ 埋もれた古城

調布観光協会公式サイト 調布観光ナビ 国指定史跡 深大寺城跡

 

 

関東の戦国 北条氏綱包囲網

 大永四年(1524年)正月、江戸城を奪取した北条氏綱は、瞬く間に武蔵国を席捲し岩付城、蕨城、入間郡の毛呂城、石戸城など扇谷勢の城を次々と攻略していきました。

 北条氏綱に一方的に押されていた扇谷朝興は、上杉憲房や甲斐の武田信虎と連携して態勢の立て直しを図り、同年七月に岩付城を取り返しました。関東管領上杉憲房は同年十月に上野の軍勢を率いて武蔵へ進出し、北条の手に落ちていた毛呂城へ攻撃を仕掛けました。

 北条氏綱は毛呂城を救援するため江戸城から軍勢を率いて発進しましたが、武田信虎相模国津久井郡へ侵入してきたので、その方面への対応を迫られました。そのため氏綱は上杉憲房と和睦し毛呂城を返還したのです。

 これを契機に一気に氏綱を倒そうと考えた上杉憲房は、北条氏綱と手を結んでいた真里谷の武田恕鑑を上杉方へ寝返らせることに成功し、さらに小弓公方足利義明安房の里見義豊をも味方に引き込みました。

 こうして、相模国武蔵国南部を支配する北条氏綱に対して、上野国の上杉、武蔵国北部の扇谷、下総国小弓公方上総国の真里谷武田、安房の里見、甲斐国武田信虎によって北条氏綱包囲網が形成されたのです。

 

 この状況は、何かに似ていると思いませんか?そうです、元亀年間(1570年~1572年)に形成された織田信長包囲網にそっくりなのです。織田信長は永禄十一年(1568年)に足利義昭を奉じて入京を果たしましたが、その後将軍義昭と対立し、義昭と連携した浅井、朝倉、石山本願寺と一向門徒宗によって形成された織田信長包囲網に苦しみました。

 戦国時代に日本の東西で北条や織田のような新興勢力が台頭し、古い秩序を破壊して新しい時代を切り開こうとしていたのです。既得権を奪われた旧勢力は、こうした新興勢力に対して連携して包囲網も形成し対抗しようとしたのです。

 いつの世にも、出る杭は打たれる、新参者は排除される、これは世の常なのです。現代においても新興企業が台頭してくると、旧勢力の企業が連携して市場シェアを守るために対抗策を打ち出してきます。

 しかし、新興企業も黙ってはいません。彼らには時代の波に乗った勢いがあります。旧勢力には無い新しい感覚や思考を持っています。その新しさは、時代が求めているものなのです。そして、いくつかの新興企業は、そのような包囲網を打ち破り巨大企業へと成長していくのです。さて、北条氏綱は、この包囲網を打ち破ることができたのでしょうか?

 

 大永五年(1525年)三月、上杉憲房は、北条氏綱を倒すという宿願を成就する前にこの世を去りましたが、その後も憲房が築いた北条氏綱包囲網は機能していました。大永六年(1526年)五月下旬、扇谷朝興、小弓公方足利義明、里見義豊は、北条方の武蔵蕨城を攻撃しこの城を攻略しました。同年九月、上杉憲房の跡を継いで関東管領に就いた上杉憲広と扇谷朝興は多摩川南岸にある小沢城を攻め落としました。

 さらに、安房の里見義豊は、扇谷朝興の小沢城攻めと時を合わせて鎌倉を攻撃したのです。同年十二月里見義豊は数百艘の軍船を集結させて江戸湾を渡り鎌倉へ押し寄せたのです。上陸した里見の軍兵は寺社や家々に乱入し略奪の限りを尽くしました。

 この知らせを聞いた北条氏綱は激怒し「里見は源氏で八幡宮の氏人であるから、本来ならば礼儀を心得て寄進すべきところを、神罰をも顧みずこのような乱暴狼藉をはたらくとは前代未聞のことだ。このようなやつらは、徹底的にこらしめて後世の悪習を絶つ見せしめにしなければならない。」と言ったそうです。そして速やかに軍勢を集めると鎌倉へ向かったのです。

 北条氏綱の軍勢は鎌倉を包囲し四方から里見の軍勢を攻めました。略奪に夢中になっていた里見の軍勢は応戦する態勢を整えることができず、大将格の一人である里見左近大夫が討ち取られました。敗れた里見勢は、早々に船で退却していったということです。この鎌倉での勝利をきっかけに、北条氏綱は攻勢に転じました。

 

 享禄三年(1530年)六月、扇谷朝興は、難波田弾正少弼、上田蔵人に命じて五百騎の軍勢を多摩川沿いの小沢原(神奈川県川崎市多摩区)へ進出させました。これは、扇谷朝興が小田原城を攻撃するための布石でした。この動きを察知した北条氏綱は嫡男氏康の軍勢を小沢原へ向かわせました。

 当年16歳の北条氏康は、父親に勝るとも劣らぬ優れた容姿と品格を備えており、人並み以上の腕力があり武芸にも優れており、やがて関東一の戦国大名となる大器でした。氏康に従う若武者も、晴の舞台を飾ろうと意気盛んで、氏康の軍勢は小勢ながらも戦意旺盛でした。

 数で劣っていた氏康の軍勢は、小沢原に着陣するや矢戦をすると見せかけて、抜刀して敵陣へ一気に切り込みをかけました。氏康勢は縦横無尽に敵陣を駆け回り次々と敵を切り倒したということです。息の合った若武者たちの組織的な攻撃に対して、扇谷勢は息が合わずばらばらに応戦し翻弄され続けました。劣勢に陥った扇谷勢は、夜になると敗色が濃厚になり河越城へ撤退したということです。北条氏康は、扇谷勢の大軍を小沢原の合戦で見事に打ち破り、晴の初陣を飾ることができたのです。恐れを知らぬ若武者たちの斬新な戦い方は、まさに新興勢力ならではのものでした。

 

  こうして、一時は包囲網の前に苦境に立たされていた北条氏綱ですが、嫡男氏康の活躍もあって息を吹き返したのです。さらに、北条包囲網を形成していた里見や真里谷武田に足並みの乱れが生じていました。

 安房を支配する里見義豊は、叔父の里見実堯の動きに警戒していました。実堯は北条の支援を受け里見家の家督を奪おうとしていたのです。天文二年(1533年)七月、里見義豊は先手を打ち、実堯とその家臣である正木大膳大夫を稲村城(千葉県館山市)に招いて誅殺しました。

 これに対して、実堯の遺児里見義堯は西上総の百首城(千葉県富津市)に籠城し、北条氏綱に援軍を要請したのです。この要請に応じた氏綱は水軍を派遣しました。里見義豊が海に面した妙本寺要害(千葉県鋸南町)に陣を構えていたからです。北条の水軍と里見義堯、正木大膳大夫の遺児時茂と時忠の兄弟は連携して妙本寺要害を攻撃し義豊軍を破りました。

 敗れた里見義豊は、真里谷武田氏のもとへ逃れていきました。翌天文三年、真里谷武田氏の支援を受けた里見義豊は反撃を試みましたが、里見義堯、正木時忠の軍勢に敗れ討ち死にしました。義豊の首は小田原へ送られたということです。

 さらに、天文三年七月には真里谷武田恕鑑が亡くなると、嫡男信応と妾腹の信隆との間に家督相続争いが起きました。小弓公方足利義明は、嫡男信応の家督相続を認めましたが、この決定に不服を抱いた信隆は、北条氏綱の支援を求め信応に対抗したのです。

 こうして、北条氏綱包囲網は、里見氏と真里谷武田氏の内部分裂によって崩壊しました。危機を乗り越えた北条氏綱は、関東の覇権を掴むため更なる攻勢に出るのです。

 

今回参考にした文献

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子原著 岸正尚訳 ニュートンプレス