歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

関東の戦国 戦国武将と化した関東足利氏

 大永四年(1524年)正月北条氏綱は扇谷朝良の居城である江戸城を急襲し、城を奪い取りました。敗れた扇谷朝良は、武蔵国河越城へ退き上野国上杉憲房甲斐国武田信虎と手を結び態勢の立て直しを図っていました。

 上野国の平井城を居城とする関東管領上杉憲房は、北条氏綱を倒すため関東の主だった武将に呼びかけて「氏綱包囲網」を形成しようと画策していましたが、大永五年三月に病にかかり平井城で亡くなりました。このとき憲房の嫡男憲政はまだ三歳の幼児であったので家督を継がせるわけにはいきませんでした。

 そこで、古河公方足利高基の次男を養子にして山内上杉家家督を継がせました。この人が、関東管領上杉憲広です。上杉憲広は、7年後に山内上杉家家督上杉憲政に返し、上総へ入り左馬頭源時直と名乗りました。

 

 足利高基は、父である足利政氏との争いに勝利し古河公方の座に就き、下総国の古河城を居城としていました。古河公方とは、足利尊氏の三男基氏を祖として始まり、もともとは鎌倉を在所に定めて関東の支配者として君臨していました。しかし、四代鎌倉公方足利持氏永享の乱に敗れて自害してしまったので、鎌倉公方は一時途絶してしまったのです。(鎌倉公方の詳細については「東の将軍鎌倉公方」をご覧ください。)

 ところが、文安六年(1449年)に持氏の遺児である万寿王丸が鎌倉入りを果たし、元服して足利成氏と名乗り五代鎌倉公方として復活したのです。足利成氏は戦乱の申し子でした。成氏が鎌倉公方に就任すると、すぐさま関東に「享徳の乱」という大戦乱が巻き起こったのです。この戦乱のさなか、足利成氏は鎌倉から下総古河へ本拠地を移したので、それ以来古河公方と呼ばれるようになったのです。享徳の乱を経て古河公方の権威は衰退しましたが、それでも足利尊氏の血を引く者として関東に隠然たる勢力を保っていたのです。

 その由緒ある古河公方の地位を巡って、足利成氏の息子政氏と孫高基は親子で激しく争いました。争いに勝利し古河公方の座を勝ち取ったのは高基でしたが、その地位は安泰ではありませんでした。弟の足利義明古河公方の座を狙っていたのです。

 足利義明は、もともと下総国下河辺庄を在所としていましたが、真里谷(まりやつ)武田氏の武田恕鑑に招かれて上総国に移り住んでいました。真里谷武田氏とは、甲斐の武田氏と同じく新羅三郎義光を祖先とする清和源氏の流れを汲む武家ですが、室町時代の康正二年(1456年)古河公方足利成氏の味方についた恕鑑の曽祖父武田信長が、享徳の乱に乗じて上総国を侵略し真里谷城と長南城を築いて上総半国を支配するようになったのです。

 その後、真里谷武田氏は周辺の武将たちと領地争いを繰り広げてきたのですが、とりわけ激しい争いを続けていた相手がいました。それが、下総国小弓城千葉市中央区南生実町)を拠点とする千葉氏の傍流である原一族です。真里谷武田氏と原一族は上総と下総にまたがる領地の支配権を巡って争っていたのでした。そのころ原一族は古河公方足利基氏の後ろ盾を得ており、戦いを優位に進めていました。劣勢になった真里谷武田恕鑑は、足利義明を味方にして形勢の逆転を図ろうとしたのです。

 足利義明が真里谷武田氏の味方についたことで、両総の領地争いは高基vs義明という足利兄弟の抗争という様相を呈してきたのです。まず先制攻撃を仕掛けたのは高基でした。永正十六年(1519年)高基は下総の結城氏、常陸の羽生氏、菅谷氏の軍勢を使って真里谷武田氏の軍事拠点である「椎津要害」(千葉県市原市)を攻撃し敵に大きな打撃を与えました。この時高基軍の中で大きな働きをしたのが菅谷氏の水軍でした。土浦城を居城とする菅谷氏は、当時広大な内海であった香取海(現在の霞ケ浦)で活躍していた水軍を有していました。菅谷氏はその水軍を使って江戸湾に面した椎津要害を攻撃したのです。

 これに対して、義明は安房の里見豊通の軍勢を動かして反撃に出ました。里見の軍勢はおよそ1年をかけて原一族を駆逐し大永元年(1521年)に小弓城を原一族から奪い取ったのです。こうして足利義明小弓城へ拠点を移し「小弓公方」と呼ばれるようになったのです。

 小弓公方足利義明のもとには近国の兵たちがぞくぞくと集まってきました。血気盛んな足利義明は大勢の味方が集まったことに気をよくして「我こそは、関東八か国を平定して古河公方を配流し、鎌倉に御所を建てて関東公方になるべき者だ」という野望を抱きました。

 こうして、小弓公方足利義明古河公方の本拠地である下総古河城を目指して進撃を開始したのです。小弓公方に従ったのは真里谷武田氏をはじめとする上総の軍勢と安房里見氏の軍勢、さらに常陸・鹿島の軍勢も加わりました。

 これに対し、古河公方足利高基は、下総の千葉氏、原氏、高氏城の軍勢や関宿の梁田氏の軍勢を使って小弓勢の北上を食い止めようとしました。現在の松戸、流山、安孫子手賀沼印旛沼の周辺という地域が戦場となり、長い間合戦が繰り広げられたのです。

 

 初代鎌倉公方足利基氏がその地位に就いたのは貞和五年(1349年)のことでした。それからおよそ100年間、鎌倉公方の足利氏は関東の支配者として君臨していたのです。しかし、享徳三年(1454年)に起きた享徳の乱を境に鎌倉公方の権威は次第に失われてゆき、鎌倉公方の末裔たちは戦国武将へと変貌していったのです。

 京都の足利将軍家は武力を失いましたが、天下を支配する権威の象徴となり、天下を狙う武将たちに担ぎ上げられる御神輿のような存在になりました。京都の足利将軍家と関東の足利氏は、同じ足利尊氏の血脈を受け継ぎながらも全く異なる道を進み始めたのです。

 関東の足利氏は、武家の棟梁という権威を失いはしたものの、武力自体を失ったわけではなく、自らが軍勢を率いて合戦に臨み領地拡大を目指す戦国武将となったのです。

 何故、足利成氏は武力を失わなかったのでしょうか?それは成氏が下総の古河城を本拠地にしたからです。康正元年六月足利成氏を討伐するため関東へ進軍してきた今川範忠の軍勢によって、鎌倉は侵略され焼き討ちされてしまいました。このため、足利成氏は本拠地を下総の古河城に移したのです。古河城のある下総下河辺庄は、足利氏の御料所でした。

 すなわち、足利成氏はホームグラウンドに戻ったのです。そうすることで食べることにも困らず、軍勢を養うことも可能になったのです。下総下河辺庄の周辺には、足利成氏の味方も大勢いました。成氏は永享の乱とそれに続く結城合戦によって父親と兄弟を上杉氏に殺されていました。また、成氏の父持氏に味方した結城氏や里見氏なども上杉氏によって多くの親族が討ち取られていました。これら上杉氏によって親兄弟を殺された武将たちは、その恨みをはらすべく結束して足利成氏のもとに集結していたのです。

 さらに、足利成氏は戦上手でもありました。享徳の乱が勃発すると、古河公方足利成氏の軍勢は快進撃を続け、敵方のを次々と奪い支配地を広げていったのです。そうすることで古河公方は、強力な軍事力を維持するための経済基盤を手に入れたのです。

 足利高基は、こうした古河公方家の遺産を受け継ぎ、戦国武将としての足場を固めていました。他方、足利義明が移り住んでいた上総国市原庄八幡もまた足利家に縁のある土地でした。義昭もまた先祖から受け継いだ経済基盤があったからこそ戦国武将となりえたのです。

 そして、前述した古河公方小弓公方が争っていた地域は、利根川水系の河川が網目のように流れている地域でした。それらの河川を使った水運は、大きな経済的利益を生み出す源でもあったのです。すなわち、古河公方小弓公方の勢力争いは、下総一帯の水運の支配権を巡る争いでもあったのです。

 両公方の争いは長期化しましたが、そこへ上杉氏、扇谷氏、北条氏が絡んでくることで関東の戦国時代は中盤へと入っていことになるのです。

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

現代語訳 小田原北条記 江西逸志子原著 岸正尚訳 ニュートンプレス

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

 

関東の戦国 北条氏綱の江戸城攻略

 関東の名門武家上杉氏の先祖は、もともと京都の公家でした。鎌倉時代の中頃、上杉氏の先祖は皇族初の将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下向し武家となったのです。このとき、上杉重房丹波国上杉庄を領地として賜り、その土地の名にちなんで上杉氏を名乗り始めました。

 上杉氏が武家として飛躍のきっかけをつかんだのは、重房の孫娘である清子が足利氏に嫁いだ時からです。清子は足利尊氏の生母となり、上杉氏と足利氏との間に強い絆が生まれました。成長した尊氏はやがて鎌倉幕府を倒し、後醍醐天皇との戦いにも勝利し室町幕府を開きます。その戦いの中で上杉氏は足利氏の縁者として大いに活躍しました。

 とりわけ、上杉氏が活躍したのは関東に於いてでした。足利尊氏は京都に室町幕府を開く一方で、関東を支配する機関として鎌倉府を創設し、その長官である鎌倉公方には息子の基氏を就けました。鎌倉公方は関東十ヵ国の支配者であり、言わば東の将軍とも言うべき存在でした。その鎌倉公方の補佐役である関東管領となったのが上杉氏です。上杉氏は、鎌倉府の関東支配を確立するため大いに力を発揮する一方、関東管領職を独占するようになりました。これが、上杉氏に大きな繁栄をもたらしました。上杉一族は、武蔵国相模国上野国伊豆国越後国を領国とする名門武家へと発展したのです。

 しかし、「盛者必衰の理をあらはす」という平家物語の言葉通りに、繁栄した上杉氏にも衰退の時が訪れました。室町時代の後半、関東は「享徳の乱」という大戦乱の時代を迎えます。その戦乱の中、上杉一族の中に二本の巨木が出現します。その二本の巨木こそは、関東管領世襲する山内上杉家南関東に勢力を拡大した扇谷上杉家のことでした。

 上杉家の傍流であった扇谷上杉家が勢力を伸ばすことができたのは、家臣である太田道灌の活躍のおかげでした。希代の英雄太田道灌の活躍によって関東の大乱は終息したのですが、その後、道灌の台頭を恐れた上杉氏は道灌を謀殺しました。道灌の死後、二本の巨木である両上杉家は関東の覇権をかけて争いを始め、関東は再び戦乱の時代へ突入します。関東の戦国時代は両上杉の争いで幕を開けたのですが、その争いがあまりに長く続いたため両上杉氏の勢力は次第に衰えてしまったのです。

 

 この両上杉氏の衰退をほくそえんで見ている者がいました。小田原にいる北条氏綱です。氏綱が父伊勢宗瑞から家督を受け継いだのは、宗瑞が亡くなる前年の永正十五年(1518年)のことと云われています。伊勢宗瑞は伊豆の韮山城を居城としていましたが、北条氏綱は相模の小田原城を居城としていました。この小田原城は、明応十年(1501年)に伊勢宗瑞が大森氏から奪い取った城です。

 父宗瑞の意志を受け継いだ氏綱は、関東侵略の拠点として小田原城を本城と定めたのです。大永三年(1523年)氏綱は名字を「北条」と改めました。氏綱は相模国を実質的に支配していましたが、その正当性を主張するために、かつて鎌倉幕府の執権であり相模守であった北条氏と同じ名字を名乗り、自らが相模守の継承者であるこを示したのです。

 室町時代相模国は扇谷上杉氏の領国でした。しかし、扇谷上杉氏の勢力は衰えており北条氏綱から相模国の支配権を奪い返すことができずにいました。それどころか、北条氏綱武蔵国侵攻を防ぐために、守りを固めるのが精いっぱいという状況に陥っていたのです。

 そのころ、扇谷上杉家家督を継いでいたのは扇谷朝興でした。朝興は、河越城江戸城を拠点にして武蔵国の守りを固めていました。江戸城には、太田道灌の孫である太田源六資高、源三郎の兄弟が城代として入っていました。太田兄弟は、扇谷朝興に仕えていましたが、父道灌が扇谷定正の陰謀によって殺されていたので、扇谷氏に深い恨みを抱いていました。

 大永四年(1524年)正月謀反を決意した太田資高、源三郎を兄弟は、北条氏綱に内通しました。これを受けた北条氏綱は素早く動き、相模、伊豆の軍勢を率いて江戸城へ押し寄せたのです。小田原北条記によれば、氏綱が率いた軍勢は二万余騎でした。

 扇谷朝興のもとには、氏綱の大軍が攻め寄せてくる急報が矢継ぎ早に入ってきました。しかし、予期せぬ敵の襲来のため、朝興は軍議を開くこともできずただ手をこまねいて敵を待ち受けるばかりでした。ようやく、江戸城を出て途中で敵を迎え撃ち勝負を決しようということになり、朝興は品川まで陣を進め、重臣の曾我兵庫守の軍勢が高縄原(港区高輪)で北条方の松田・大道寺勢と激突しました。

 北条方には黄八幡の小旗を旗指物にしたことから「黄八幡左衛門」と呼ばれた九島左衛門という武者がおりました。黄八幡左衛門は東国きっての勇猛な武士であり戦場を駆け回り扇谷勢の兵を次々に倒していきました。

 扇谷勢には水沢藤次という武者おり、四尺余り(約121センチ)の大太刀を振るって次々と敵を切っていきます。しかし、怪力の持ち主である相模の苦林平内に組み伏せられて水沢藤次は首を取られてしまいました。

 北条軍と扇谷軍が品川付近で激しい攻防戦を繰り広げているころ、北条軍の別動隊が後方を迂回し渋谷を経由して江戸城へ迫っていました。敵方の動きに気が付いた扇谷朝興は江戸城へ引き返し城に籠って防戦しようとしました。太田道灌が築いた江戸城は日比谷入江に突き出た断崖絶壁の上にありました。天然の要害に築かれた城は、跳ね橋や石垣など強固な防御施設を備えおり難攻不落を誇っていました。

 この城に立て籠ればそうそう簡単に負けるはずはないのです。しかし、それは城に籠る軍兵が皆力を合わせて戦えばのことです。城内にいる者が敵方に寝返っては元も子もありません。北条氏綱に内通している太田源六、源三郎兄弟が手はず通りに裏切って北条軍を城へ導いたので、扇谷勢はやむなく江戸城を捨て敗走しました。氏綱は扇谷朝興を追撃しましたが、朝興はどうにか難を逃れ河越城へ逃げ込むことができました。

 こうして、北条氏綱江戸城を手にいれました。品川の武将である宇田川和泉守や毛呂太郎、岡本将監等は氏綱に降伏し配下となりました。氏綱は江戸城本丸に富永四郎左衛門、二の丸に遠山四郎右衛門、香月亭に太田源六兄弟を配置して小田原へ凱旋しました。小田原から江戸へ至る地域、現在のJR東海道線沿線は北条氏綱の支配地となりました。氏綱の関東侵略は、着実にその一歩を踏み出したのです。

 

 この戦いで両軍の勝敗を分けたのは、両武将の日頃からの備えにあったと思います。関東侵略を目論む北条氏綱は、絶えず敵の情勢を観察し、つけ入る隙を窺っていたのです。そして、いざと言う時には迅速に軍事行動を起こせる体制を整えていたのでしょう。そのため、太田兄弟からの内通を受けて即座に二万もの大軍を集めて江戸城を攻略することができました。

 対する扇谷朝興は、北条氏綱が攻めてきた時にどう対応するのか、という対策を立てていなかったので、いたずらに時を失いました。また太田道灌との因縁を考えれば、その息子たちが危険な存在であることを考慮していなければならないのに、その対策も怠っていたのです。

 このような事例は、現代に於いても国家間の外交、軍事戦略や企業の経営戦略など様々な場面に通じることではないでしょうか。歴史を学ぶということは、実に多くの事を我々にもたらしてくれるのです。

 

 蛇足ですが、二の丸に配置された遠山四郎左衛門は、時代劇「遠山の金さん」でおなじみ遠山金四郎の先祖です。遠山氏はもともと美濃の武士でしたが戦国時代になると北条氏に属していました。

 

 

今回参考にした本は以下の通りです。

原本現代訳 小田原北条記(上) 江西逸志子 原著 岸正尚訳

 

関東戦国史(全)千野原 靖方 崙書房出版

関東の戦国 長尾為景の下克上と上杉顕定の死

  関東の戦国時代は山内上杉と扇谷上杉の覇権争いで幕を開けました。この争いは17年間続きましたが、永正二年(1505年)に扇谷朝良が降伏したことでようやく決着しました。両上杉の争いに勝利したのは関東管領上杉顕定でしたが、長い戦いで両上杉とも疲弊し関東を支配する力はすっかり衰えてしまいました。さらに、永正七年(1510年)六月に上杉顕定は遠征先の越後で、長尾為景との合戦のさなかに討ち死にしてしまいました。顕定の突然の死によって関東の戦国はあらたな局面を迎えることになるのです。

 

長尾為景の謀反

 上杉顕定が越後で命を落としたのは、次のようないきさつによるものです。越後国室町時代の前期から越後上杉氏の領国となりました。越後上杉氏の礎を築いたのは、山内上杉氏中興の祖ともいうべき上杉憲顕でした。憲顕は鎌倉において足利尊氏の子息である義詮や基氏に仕え、足利氏の関東支配を確固たるものにすることに尽力した武将です。観応の擾乱のおり足利直義に味方した憲顕は一時失脚していましたが、足利基氏が初代鎌倉公方の座に就いた後に復活し、康安二年(1362年)に越後守護職に就任したのです。それ以来、越後は山内上杉氏の分国となり憲顕の子孫である越後上杉氏が代々支配してきたのでした。

 実は、上杉顕定も越後上杉氏の出身でした。文正元年(1466年)二月、関東では享徳の乱のさなかに関東管領上杉房顕が五十子陣で急死しました。房顕には子がいなかったため山内上杉家家督を急遽継いだのが越後上杉氏の顕定だったのです。山内上杉家家督を継いだ顕定は、その翌年に関東管領に就任したのです。そして顕定の弟である上杉房能が越後上杉家の家督を継ぎ越後守護に就いていました。

 ところが、永正四年に越後で謀反が起こります。守護代長尾為景が越後上杉氏の上杉定実を担いで反旗を翻したのです。為景は上杉房能と戦って房能を討ち取り、越後支配の実権を奪取したのです。為景の行いは、まさに下克上そのものでした。この長尾為景の息子が長尾景虎すなわち後の上杉謙信なのです。

 上杉顕定が、長尾為景を討伐するために越後へ遠征したのは、為景が謀反をおこしてから2年後のことでした。顕定がすぐに討伐に動かなかったのは、扇谷上杉との長い戦いで山内上杉氏の勢力が疲弊していたことが影響していると考えらえます。二年後どうにか勢力を回復した顕定は養子の憲房とともに、武蔵・上野の軍勢を率いて越後へ進軍したのです。

 

◆長森原の合戦

 小田原北条記によれば、永正六年(1509年)七月越後の府内(新潟県上越市)へ侵攻した顕定・憲房の軍勢は長尾為景の軍勢を打ち破りました。敗れた為景は、越中の西浜というところへ逃れました。顕定と憲房は越後へ留まり謀反に加担した者たちを探索して、所領を取り上げたり、追放したり、首をはねるなど罪の軽重によって厳しい処分を行いました。

 ところが、敵方の高梨摂津守を成敗しようとしたところ逆に反撃にあいました。顕定があまりにも厳しい処罰を下したために、越後の国人衆たちの多くが顕定を恨み高梨方について戦いを始めたのです。顕定はなんとか態勢を立て直そうとしましたが、敵方の勢いは増すばかりでした。

 永正七年六月上杉顕定は、越後と信濃の国境に近い長森原(新潟県南魚沼郡六日町)で長尾為景・高梨摂津守の軍勢と激突しました。合戦当初、顕定の軍勢は長尾為景の軍勢を敗走させたのですが、高梨の軍勢に側面をつかれ乱戦になりました。そして、高梨摂津守が顕定の本陣に攻め込んで一騎打ちになり、顕定の首を取ったということです。

 

上杉顕定死後の関東

 上杉顕定が討ち死にしたことで、養子の憲房も越後に留まることができなくなり、上野国へ引き上げ白井城に籠城しました。顕定には顕実と憲房の二人の養子がいましたが、顕定の遺言によって顕実が山内上杉家家督を継ぎ、関東管領に就きました。顕実が後継者に選ばれた理由は、顕実が古河公方足利政氏の弟であったからだと考えられます。

 その後、古河公方足利政氏と息子の高基が対立すると、顕実が政氏に味方し憲房が高基の味方につくことで、争いが起きました。この争いに勝利したのは、高基と憲房の側でした。高基は古河公方の地位を手に入れ古河城に入りました。永正十二年(1515年)には上杉顕実が死亡し、上杉憲房山内上杉家家督を継いで関東管領の座に就きました。

 一方、越後で上杉顕定が討ち死にした混乱に乗じて、伊勢宗瑞は長尾為景と手を結び相模国への勢力拡大を企てました。相模国の上田蔵人は扇谷朝良の被官でしたが、宗瑞に寝返り権現山(横浜市神奈川区)に城郭を築いて立て籠りました。扇谷朝良は江戸城から出撃し、山内憲房から遣わされた成田親泰・渋江孫太郎・藤田虎寿丸などの援軍の力を借りて上田蔵人を倒しました。

 しかし、その後も伊勢宗瑞は相模国への侵攻を続け、相模の有力武将である三浦氏を滅ぼし相模国の支配権を手に入れたのです。こうして、関東の戦国時代は新たな段階に入り、伊勢宗瑞の跡を継いだ北条氏綱と上杉氏の争いを軸に展開していくことになるのです。

 

今回参考にさせていただいた文献

 現代語訳 小田原北条記 江西逸志子 原著   岸正尚 訳 ニュートンプレイス

 関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

 

 

 

 

 

 

関東の戦国 山内上杉と扇谷上杉の覇権争い

 室町時代関東管領を代々世襲してきた山内上杉家関東公方の執権として上野、越後など広大な領国を持ち関東に勢力を広げていました。しかし、享徳三年(1454年)に享徳の乱が始まると、太田道灌が家宰を務める扇谷上杉家が次第に勢力を拡大し山内上杉家に肩を並べる存在になってきました。

 文明十二年(1480年)、太田道灌の活躍によって関東の長い戦乱は終わりを告げ、関東はひと時の平穏な時代を迎えていました。しかし、その6年後太田道灌扇谷定正にあざむかれ謀殺されてしまいます。道灌の突然の死によって関東は再び戦乱の時代を迎えます。

 関東の秩序を保ってきた関東公方関東管領の権威はすっかり失われ関東の有力武将たちは戦国大名へ変貌していきます。また、伊豆一国を平定した伊勢宗瑞は関東進出の機会を虎視眈々と狙っていました。いよいよ関東は群雄が割拠する戦国時代を迎えることになるのです。

 

太田道灌の死と両上杉の対立 

 文明十八年(1486年)七月二十六日、名将太田道灌は主君扇谷定正の陰謀によって殺害されました。江戸城を築城し関東の大乱を平定した希代の英雄のあっけない最期でした。関東管領山内上杉顕定から、「道灌に謀反の意あり」との話を吹き込まれ扇谷定正は、道灌を相模の糟屋館に呼び寄せだまし討ちしたのです。

 上杉顕定の思惑は、関東一の名将太田道灌扇谷定正によって殺害させ、道灌の活躍によって相模、武蔵に勢力を拡大してきた扇谷上杉を潰すことにありました。そうとも知らず定正はまんまと顕定の計略に乗せられて道灌を殺してしまったのです。

 道灌の一族や家臣たちは、道灌殺害の裏の首謀者が上杉顕定であることなど知る由もなく、扇谷定正から離反し上杉顕定のもとへ走りました。顕定は道灌の一族を受け入れ扇谷定正ひとりを悪者に仕立てたのです。主を失った江戸城扇谷定正に接収され、相模の糟屋館で道灌に直接手を下した張本人である曾我兵庫助が江戸城代になりました。

 長享二年(1488年)二月上杉顕定はかねてからの計画通り、扇谷上杉のせん滅に乗り出しました。一千余騎余の軍勢を率いた上杉顕定は、武蔵鉢形城を出撃し扇谷上杉の糟屋館を攻めようとしましたが、逆に迎え撃った扇谷定正の軍勢に敗れました。

 顕定の予想に反し、道灌殺しの汚名を着せられて人望を失い劣勢に立っていたはずの扇谷定正は、扇谷一族の結束を固めて巧に戦い顕定の軍勢を何度も破ったのです。また、道灌が築いた江戸城河越城は堅固な城塞であり、上杉顕定の大軍に包囲されても容易に落城しませんでした。

 しかし、その定正にも運命の尽きる時がきました。明応三年(1494年)十月扇谷定正は武蔵高見原で上杉軍と交戦中に不慮の事故で死んでしまったのです。定正の死後、扇谷家の家督を継いだのは定正の兄朝昌の息子である朝良でした。扇谷朝良は本拠地の河越城に入り、伊豆の伊勢宗瑞や小田原の大森式部少輔らと連携し上杉顕定の勢力に対抗したのです。伊勢宗瑞が扇谷朝良の味方に付いたのは、まず難敵である上杉顕定を扇谷と協力して倒し、その後に扇谷朝良を倒せばよいと考えていたからでした。

 明応五年(1496年)七月上杉顕定の軍勢が小田原城に攻め寄せると、大森式部少輔は扇谷上杉を裏切り上杉顕定へ寝返りました。扇谷上杉と手を結んでいた伊勢宗瑞は、小田原攻撃の大義名分を得て明応十年(1501年)に大森式部の隙をついて攻撃し小田原城を奪取します。こうして、伊勢宗瑞は関東進出の橋頭保を築いたのでした。

 

◆立河原の合戦

 永正元年(1504年)九月、軍勢を集めた上杉顕定は扇谷朝良の居城である河越城を攻撃しました。防戦する扇谷朝良は伊勢宗瑞と今川氏親へ急ぎの使いを出し援軍を要請しました。要請を受けた伊勢、今川の軍勢は直ちに武蔵国に向かって進軍を始めたのです。伊勢宗瑞の率いる軍勢は、江ノ島、武蔵稲毛庄(川崎市高津区)を経て益形(川崎市多摩区)に着陣しました。今川氏親の率いる軍勢は相模国の海沿いを進軍し鎌倉を経て益形に進み、両軍はここで合流したのです。

 伊勢・今川の援軍が迫ってきたという知らせを受けた上杉顕定は、敵を迎え撃つべく立河に進出して陣を構えました。上杉の陣容は上杉顕定・憲房、古河公方足利政氏、上州一揆の軍勢でした。

 9月27日扇谷朝良、伊勢宗瑞、今川氏親の軍勢が立河原に展開すると正午ころから合戦が始まりました。戦いは数刻に及びましたが、顕定方の軍勢はおよそ二千の軍兵が討ち取られ大敗したということです。

 勝利した扇谷朝良は河越城に戻り、伊勢宗瑞と今川氏親の軍勢も陣を払ってそれぞれの領国へ帰還しました。しかし、上杉顕定はまだあきらめておらず、10月に越後から援軍が到来すると、この軍勢とともに河越城へ攻め寄せました。城方は善戦しましたが多数の死傷者を出しました。

 さらに、顕定は永正二年(1505年)3月にも河越城を攻撃し、ついに扇谷朝良を降伏させたのです。敗れた扇谷朝良は息子の朝興に家督を譲り江戸城に隠居したということです。山内上杉と扇谷上杉が和睦したので、山内上杉顕定のもとにいた道灌の子息である太田資康は江戸城に戻り朝興に仕えることになりました。

 山内上杉と扇谷上杉の覇権争いは17年にも及びました。長い抗争によって両上杉は疲弊し、その勢力はすっかり衰えてしまったのです。一方、伊豆一国を平定し小田原城を奪取した伊勢宗瑞は永正十六年(1519年)に没し、北条氏綱家督を継いでいました。氏綱は父宗瑞に劣らぬ優れた武将であり、小田原城で関東の覇権を虎視眈々と狙っていたのです。

 

関連ブログ 「太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将」

      「東の将軍鎌倉公方 その6 平一揆の反乱と上杉氏」

 

今回参考にさせていただいた文献

図説 太田道灌 黒田基樹 戎光祥出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

小田原北条記(上) 江西逸志子 原著  岸正尚 訳 ニュートンプレイス

 

将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 永禄8年(1565年)5月将軍足利義輝は三好義継と松永久通によって暗殺されました。歴史上在任中の将軍が暗殺されたのは義輝を含めて3人です。3代鎌倉将軍源実朝(頼朝の二男)は甥の公暁(くぎょう)によって暗殺されました。また6代室町将軍足利義教播磨国守護の赤松満祐によって暗殺されました。実朝と義教の暗殺は、大胆な言い方をすると、怨恨による殺人事件ととらえることができます。二つの事件の犯人は、事件後幕府によって討伐されました。

 これに対して、足利義輝の暗殺は他の二つの事件とはいささか趣を異にすると思います。足利義輝は天下(京都を中心とする五畿内)の支配権を三好長慶に奪われ、もはや無力な将軍となっていました。義輝が諸国の戦国大名に上洛を呼び掛けても、これに応じる者は無く、三好政権にとって義輝はなんら脅威的な存在ではなかったはずです。それにもかかわらず、義輝は暗殺されてしまったのです。すなわち、義輝暗殺には何か深い謎があるのです。今回はこの謎に迫ってみます。

 

◆将軍義輝の生涯

 天文15年(1546年)足利義輝は近江坂本で元服し父義晴から将軍職を受け継ぎ13代将軍となりました。義輝が将軍に就任した場所が京の都ではなく、地方であったことは異常なことでした。本来、天皇が任命する征夷大将軍の就任式は都で行われるべきものです。しかし、そのころ京の都では細川晴元細川氏綱が激しく争っており、義輝は都に居をさだめることができず近江に避難していたのです。近江守護の六角定頼は足利将軍家を支える頼もしい武将でしたが、決して上洛しようとはせず、あくまで近江に在国して将軍を支えるという姿勢を崩しませんでした。そのため、将軍義輝は都に入ることができなかったのです。

 将軍義輝が近江にいる間に勢力を拡大したのが三好長慶です。長慶は細川晴元の配下として大いに活躍し、細川氏綱を舎利寺の戦いで破ります。その後、長慶は主君の晴元と対立、江口の戦いで晴元を撃破し京の都の支配権を手に入れました。

 天文21年六角定頼が死去しました。定頼という大きな支えを失ったことで、将軍義輝は三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況になったのです。こうして将軍義輝は傀儡として存在し、天下の真の支配者は三好長慶という構図が生まれたのです。ところが、天文22年将軍義輝の側近たちは、三好長慶の暗殺を企てようとしました。この陰謀は実行される前に三好側に露見してしまいます。そのため、将軍義輝は三好の軍勢によって京の都を追われ朽木へに逃げたのです。このとき義輝に最後まで従っていたのはわずか40人余りの近習だけでした。

 

◆義輝の政策は場当たり的だった

 将軍義輝は、権力を取り戻すため諸国の戦国大名に呼びかけ支援を求めました。しかし、義輝の政策は首尾一貫しておらず、常に場当たり的であったために戦国大名の支持を得ることができなかったのです。

 一例をあげると、備前・美作の守護赤松晴政足利義晴の代から将軍家を支持してきた有力大名でしたが、義輝は出雲・隠岐の守護である尼子晴久に肩入れし赤松氏から備前。美作の守護を没収し尼子に与えてしまいました。そのため、赤松晴政は義輝から離反し三好長慶と手を結んだのです。

 また、毛利氏と大友氏に上洛を求めておきながら、毛利と対立している大友宗麟大内氏家督相続を認めたので、周防と長門の領有権を巡って毛利と大友の対立が激化しどちらの大名も上洛することができませんでした。

 足利義輝は剣豪将軍として知られています。鹿島新当流を開いた塚原卜伝や新陰流の上泉伊勢守信綱を招いて剣術を学びその力量は並々ならぬものがあったといわれています。一方で剣術を学ぶということは、人格を形成し論理的な思考を身に着けることでもありました。剣豪宮本武蔵が人生の集大成として「五輪書」を書き著したことからも、剣豪が単なる剣術使いではなく精神的にもすぐれた人物であることがわかると思います。

 しかし、将軍義輝は本来剣豪が身に着けているはずの、論理的な思考に基づく緻密な戦略を展開する能力に欠けていたようです。将軍義輝は何かしら精神的に欠落したところがあったのかもしれません。

 

天皇との対立

 将軍義輝は戦国大名たちの支持を得られなかっただけではなく、天皇とも対立しその立場を悪化させました。将軍義輝と正親町天皇(おうぎまち)との対立は改元を巡る問題に如実に現れています。

 古来より改元天皇の専権事項でしたが、鎌倉時代より次第に武家が関わるようになりました。室町時代になると将軍が改元の発議を行い、それを受けて天皇改元を実行することが習わしとなっていました。すなわち、改元の発議は将軍の職務であったわけです。将軍義輝は在任中にその職務を怠り天皇の信頼を失っていたのです。

 なぜ、義輝は改元の発議を怠ったのでしょうか?その答えは義輝が出費を惜しんだからです。改元は国家行事として多額の費用を必要としますが、その費用を負担するのは改元の発議者であると定められていました。すなわち、将軍義輝は改元に掛かる費用負担を避けるため改元の発議を行わなかったのです。改元費用だけではなく、将軍義輝は皇室の祝賀行事などの際に出す祝い金なども出し惜しみしていました。こうした義輝の態度が天皇との対立を生み出したのです。

 義輝自身が放浪の身であり足利将軍家の台所事情が苦しかったことは明白ですが、将軍としての責任を果たすための出費を怠るようでは、天皇や公家から支持を受けることはむずかしいでしょう。たとえ本人の財政事情が悪くとも、知恵をしぼり支持者を集めたりパトロンに頼ることでお金を工面することはできたはずです。義輝はそのような努力を怠ったようです。しかし、それは将軍義輝の立場をますます悪くするものでした。

 

天皇と三好氏の接近

 足利義輝が将軍在任中に二度の改元が行われましたが、その改元費用を負担したのは三好氏でした。将軍義輝を京から追放した三好長慶は摂津にある芥川山城を拠点として五畿内を支配していました。長慶は従四位下の官位を賜り足利家や細川家に引けを取らない地位を得ていました。天下の支配者となった三好長慶は、堺や兵庫津など港湾都市を支配し、交易で莫大な利益をあげている豪商を保護するこることで、自らの財政を豊かにしたのです。長慶にとっては、改元の費用を拠出することなど雑作もないことでした。それだけではなく、長慶は皇室の費用を賄う御料所の回復にも力を注ぎ正親町天皇から大きな信頼を得ていたのです。

 正親町天皇は、将軍としての責任を果たさない足利義輝を見限り、三好長慶に対して天皇を支持する武家の代表者としての認識を持つようになっていたと考えられます。その三好長慶の跡を継いだのは長慶の甥である三好義継でした。長慶には義興という嫡男がいましたが、永禄6年(1563年)義興は病に倒れ死去しました。

 義興に代る後継者として長慶が選んだのは甥の義継でした。一代で天下の支配権を手に入れた叔父の長慶とは異なり、三好義継は苦労知らずの二代目でした。三好家の家格は将軍家にひけをとるものではなく、左京太夫に任じられた義継は管領細川氏と同等の地位を得ており正親町天皇に拝謁する機会もあったのでしょう。そのおりに、正親町天皇は「三好頼りにしているぞ」とか「三好こそ武家の棟梁にふさわしい」などと義継にお世辞を言ったかもしれません。

 

◆三好義継の野心と誤算

 しかし、天皇と三好氏が接近し天皇から頼りにされたことで、義継の中に野心が生まれたのです。それは、義継が将軍の座に就くという野心でした。正親町天皇から信頼されていた義継にとって三好将軍の誕生は可能であったかもしれません。ただし、それを実現させるためには巨額のお金を使い長い時間をかけて裏工作や根回しを行うことが必要だったでしょう。このような困難な仕事を成し遂げることができたのは、豊臣秀吉くらいのものです。三好義継はその困難な手間を省き、義輝を亡き者にすれば将軍になれると考えたのです。

 義輝暗殺の1年前永禄7年(1564年)に三好長慶は死去します。長慶の死後、たがのはずれた義継の暴走は止まらなくなりました。義継は松永久通とともに義輝を襲撃し、将軍義輝を暗殺するという暴挙に出たのです。義継は長慶の後継者に選ばれた時から器量にすぐれていないとの評価をされていました。そのため、松永久秀三好三人衆三好長逸三好宗渭、岩松友通)が義継の後見についたのです。もともと器量のない苦労知らずの二代目が、天皇の甘言を真に受けて増長し引き起こしたのが将軍暗殺という前代未聞の事件だったのです。

 三好義継が引き起こした将軍暗殺は、誰からも支持されませんでした。これは、義継にとって大きな誤算であったと思います。諸国の戦国大名は三好氏を武家の棟梁として認めることはなかったのです。三好長慶が一代で築いた政権は、諸国の戦国大名から見れば、自分たちと同格の武将が成り上がっただけにしか見えませんでした。

 たとえ足利将軍家の権威が地に落ちていたとしても、足利氏の血は武士にとって源氏嫡流の血なのです。武士が自分たちの上に立つ権力者として認めるためには、源氏嫡流という遺伝子を持つ者か、あるいは、信長、秀吉、家康のように自分たちの力をはるかに凌駕する強大な力の持ち主でなければならなかったのでしょう。三好義継はそのどちらにも該当しなかったのです。

 ただ一人、正親町天皇だけは、三好義継を支持していました。天皇足利将軍家が代々受け継いできた将軍家の象徴とされる「御小袖の唐櫃」(御小袖という鎧を収めた唐櫃)を義継に下賜し、三好義継が将軍になることを容認したのです。しかし、三好氏の勢力は分裂し、三好三人衆が将軍の後継者として四国にいた足利義栄を担ぎ出す一方、松永久秀足利義昭を将軍後継者として担ぎ、両者は争いました。将軍を暗殺した三好義継は身内からも見放され将軍になることはできませんでした。

 

◆将軍足利義輝を死に追い込んだのは誰か

 将軍義輝の暗殺事件の謎を解くために、足利義輝正親町天皇、三好義継という3人の人物にスポットをあててきました。被害者である義輝は、剣豪将軍として知られ非業の死を遂げたというイメージがあります。たしかに、義輝は剣術使いとしては優れていたのかもしれませんが、剣の道を究めた人が有している論理的思考力に欠けており、自分の支持勢力を拡大するための緻密な戦略を展開することができませんでした。すなわち、足利義輝は将軍にふさわしい器量の持ち主ではなかったと考えらます。

 さらに、将軍義輝は改元問題で天皇と対立し、自分の立場を悪化させました。室町時代は、足利尊氏征夷大将軍となって室町幕府を開いたことから始まっているので、武家中心の時代と思いがちですが、室町時代南北朝の争乱という皇統をめぐる争いの起きた時代でもありました。最終的に勝利したのは北朝です。そして、尊氏を将軍として認めたのは北朝天皇なのです。つまり、正親町天皇の視点に立つと、足利将軍とは北朝という権威に支えられて存在していると考えることができるのです。したがって、足利将軍は常に北朝天皇の立場に配慮してその職務を全うすべきであり、その責任を怠った義輝は、正親町天皇にとって排除すべき存在であったのです。

 正親町天皇は義輝を見限り三好長慶を信頼しました。長慶は一代で天下人となり天皇を軍事力や経済力で支えることのできる頼もしい存在でした。しかし、長慶の死後その跡を継いだ義継は天下人としての器量に欠けていたのです。思慮に欠ける義継は、緻密な戦略を立てて将軍の座を手にいれるのではなく、暗殺という暴挙に出たのです。

 奇しくも、権力者の資質に欠けていた義輝と義継という二人の人物が権力闘争の場で出会い、そこに正親町天皇が加わったことで、将軍義輝暗殺という事件が起きたのだと私は考えます。そして、この事件が戦国時代をあらたなステージへ押し上げることになりました。

 義輝暗殺以前の戦国時代は、五畿内と地方それぞれの場所で、群雄が割拠し争いを展開していたのですが、義輝が暗殺された後の時代は、諸国の乱世を勝ち抜いてきた戦国の英雄たちが出そろい、将軍後継者を巡る争いに加わる機会ができたのです。言わば、戦国の英雄たちに天下人になれる可能性が生まれたわけです。

 

 将軍義輝を暗殺した張本人の三好義継は、この新たなステージの主役にはなれませんでした。義継は新時代の主役である織田信長の家臣となり河内半国を与えられ若江城を居城としていました。天正元年(1573年)三好義継は信長から追放された足利義昭を助けたために、信長の怒りを買いました。若江城は信長軍の攻撃を受けて落城し三好義継は自害して果てたということです。

 

今回参考にさせていただいた資料

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

陰謀の日本中世史 呉座勇一 角川新書

刀の日本史 加来耕三 講談社現代新書

 

 

信長がくる前の京都 三好長慶の天下

 明応2年(1493)細川政元が起こした「明応の政変」こそは、日本を戦国時代に突入させた真の引き金でした。政元は京都でクーデターを起こし、将軍の首をすげ替えたのです。将軍の首をすげ替えることさえ可能な細川京兆家の絶大な権力を巡り、政元の3人の養子が後継者争いを始めました。その苛烈な争いは、二分した足利将軍家の争いと絡み合い果てしない戦乱の世、すなわち戦国時代を出現させたのです。この乱世の中で阿波細川家の被官にすぎなかった三好一族が台頭し、やがて三好長慶が天下を支配する時代がくるのです。信長がくる前の京都ではいったい何が起きていたのでしょうか?今回もこの謎に迫っていきます。

 

 戦国時代の三好氏は阿波守護細川家につかえており、阿波西部三郡の守護代を務める家柄でした。三好長慶の曽祖父である之長は、守護代三好家の傍流にすぎませんでしたが、軍事的才能を高く評価され阿波守護細川家当主の側近となっていました。

 阿波守護家の御曹司である細川澄元は、細川京兆家の惣領である細川政元の養子となりその後継者候補の一人でした。細川京兆家の惣領とは、八か国の守護を独占する細川一族の総帥であり、その絶大な権力を背景に足利将軍を裏で操る真の支配者でした。

 しかし、細川澄元は京兆家の家督を巡る争いでライバルの細川高国に敗れ、都落ちして阿波にひっそくしていたのです。阿波細川家に仕える三好之長は、澄元の宿敵細川高国を倒し、阿波名門の御曹司に天下を取らせることを宿願としていたのです。

 永正16年(1519)細川澄元に天下取りのチャンスがおとずれました。そのころ京の都を支配していたのは将軍足利義稙(よしたね)と細川高国で、この二人を軍事力で支えていたのが周防の太守大内義興でした。その大内義興が前年に都を去り、義稙・高国政権の軍事力は低下していたのです。

 この好機を捉え、澄元と之長は阿波から軍勢を率いて渡海し、細川高国に戦いを挑んだのです。当初、細川澄元・三好之長の軍勢には勢いがありました。その勢いは、将軍足利義稙細川高国を見限り細川澄元と手を結んだほど強いものでした。細川澄元は、天下を手にするまであと一歩にまで迫りましたが、そこで澄元の運が尽きてしまいました。澄元は病にたおれ、阿波勢の勢いは一気に衰えてしまいました。戦いの形勢は逆転し細川高国が攻勢に出ると、細川澄元は阿波へ敗走し三好之長は敵方に捕らえられて切腹させられてしまいました。三好之長は宿願を果たせずこの世を去り、その宿願は子孫に託されたのです。

 

 大永元年(1521)細川高国は11代将軍足利義澄の息子義晴を12代将軍に就けました。このとき義晴はまだ10歳の少年でした。そのため、高国は思うままに義晴を操り実質的に天下を支配していたのです。しかし、高国を支える国人衆は寄せ集めであったので結束力が弱く、内部対立が絶えませんでした。

 大永6年(1526)ついに細川高国の被官である柳本賢治と波多野元清が畿内で反乱を起こしました。この反乱に呼応し、細川澄元の息子晴元と三好之長の孫である三好元長(長慶の父)が阿波で挙兵したのです。元長は先遣隊として従弟の三好宗三を畿内に派遣しました。宗三率いる三好先遣隊は、柳本・波多野の軍勢と合流し、足利義晴細川高国の軍勢を破り、義晴と高国は近江へ敗走しました。

 これを受けて、細川晴元三好元長足利義稙の養子である義維(よしつな)を擁立して堺に上陸しました。義維は正式な将軍に任命されてはいませんが、公家たちは義維を堺公方と呼んでいました。

 こうして、近江には将軍足利義晴細川高国の政権があり、堺には堺公方足利義維細川晴元三好元長の政権があるという状況が生まれたのです。16世紀前半の京都とその周辺諸国では、分裂した足利将軍家と細川一族の勢力争いが絶えず、各陣営の争いは複雑に絡み合い激しい戦乱の時代を迎えていたのです。

 

 堺で天下取りの足場を築いた足利義維でしたが、義維を支える細川晴元三好元長とは目指している方向が違っており、二人の間には深刻な対立が生まれていました。細川晴元が目指していたのは、細川高国を排除し京兆家の家督を継いで裏の支配者として京都に君臨することでした。その目的達成のためには、義晴を将軍として容認することもやむなしと考えていたのです。これに対して、三好元長はあくまでも足利義維を将軍の座に就けることにこだわっていたのです。両者の考えは平行線をたどったままでした。

 享禄2年(1529)細川晴元三好元長を出し抜き将軍義晴と和解しました。はしごをはずされた元長は失脚して阿波へ戻り、足利義維は堺にとどまっていました。一方、将軍義晴が細川晴元と和解したことで細川高国も失脚し、西国へ流れていきました。

 高国は西国を巡り自分の味方になってくれる武将を探していたのです。高国の執念は実り播磨、備前、美作の守護赤松晴政の家宰である浦上村宗の協力を得ることに成功し赤松氏の軍勢が細川高国の援軍についたのです。

 高国と村宗の率いた軍勢は瞬く間に摂津を席捲し、堺に迫ってきました。窮地に陥った細川晴元は阿波の三好元長に援軍を要請したのです。このころの細川晴元の行動姿勢は、「勝つためには手段を選ばず」「昨日の敵は今日の友」といった感じでまさに戦国乱世の象徴のようです。

 再び畿内へ進出した三好元長は、堺を攻撃する高国の軍勢を押し返しました。享禄4年3月元長は天王寺の合戦で高国軍を破り、捕えられた細川高国切腹して果てました。三好元長細川晴元の窮地を救い、阿波細川家にとって宿敵であった細川高国を滅ぼしたのです。この元長の功績によって、足利義維の将軍就任が実現するかと思われました。

 しかし、晴元と元長の共通の敵であった高国が消えたことで、再び二人の間に対立が生じ両者は決裂したのです。天文元年(1532)細川晴元本願寺証如に一揆を依頼し三好元長を亡き者にしようと企みました。証如の呼びかけに応じて10万とも20万ともいわれる一向一揆が集結し三好元長のいる堺を攻撃しました。元長は一向一揆によって捉えられ切腹したのです。

 ところが、一向一揆の勢いはおさまらず、制御できなくなったのです。このため、将軍義晴と細川晴元は京の都へ入ることができませんでした。さらに、細川晴元一向一揆によって堺を追われ、淡路へ逃げ込まなければならない状況にまで追い込まれたのです。「敵を倒すためには手段を選ばず」という細川晴元の行動は、ついに宗教勢力をも巻き込み戦乱の時代に新たな勢力を生み出してしまったのです。この新勢力が後に織田信長の前に立ちはだかり苦しめることになるのです。

 

 再び窮地に陥った細川晴元は、態勢を巻き返すためとは言え、こともあろうに実の父親を死に追いやった三好長慶に援軍を求めました。このとき長慶はまだ11歳の少年でした。父の仇である細川晴元に対して、少年長慶がどのような思いを持っていたのかはわかりませんが、三好家の当主として長慶は晴元の要請に応じ、軍勢を率いて晴元とともに摂津へ攻め込んだのです。

 三好長慶の援軍を得た細川晴元は、摂津の芥川山城を拠点に一向一揆と戦いました。徐々に態勢を巻き返した晴元は、足利義晴との連携をとることで勢いを増し、天文4年6月の大坂の戦いで本願寺勢を破りました。この勝利の後、晴元は本願寺と和睦しました。

 その後、三好長慶細川晴元の配下として摂津にとどまっていました。本国阿波の領地支配は弟たちにまかせ長慶は畿内に根をおろすことにしたのです。そのころ畿内では守護代クラスの武将たちが、台頭し勢力拡大をかけた争いを展開していました。

 応仁の乱の時にも守護代クラスの武将が台頭したのですが、この時代も同様のことが起きたのです。その理由は、戦乱が長期化すると、物資や軍勢を直接支配している守護代クラスの武将の存在価値が高まり、彼らが戦いの主導権を握るからです。将軍や細川京兆家の権威などは、守護代クラスの武将には通用しません。守護代クラスの武将が求めているのは天下を支配することではなく、自分の領地や勢力を拡大することだけでした。そして、それを実現するのに必要なのは権威ではなく実力でした。まだ少年だった三好長慶は、摂津の片隅で勢力を蓄えながら時代の趨勢を眺めて、乱世を生き抜く術を学んでいたのだと思います。

 

 天文6年(1537)三好長慶元服し、2500の手勢を率いて上洛しました。このとき長慶は、三好宗三が手にしている河内十七箇所代官職に就くことを希望して幕府に訴えました。いったんは長慶の希望がかなえられたのですが、三好宗三がこれを拒否し両者は対立しました。このとき、六角定頼が両者の間に立ち、長慶は越水城を居城とすることで決着しました。この城は、西宮神社門前町で大阪湾に面した港を守る要衝でした。港と西国街道に接した西宮は商業地としても栄えていました。歴史の流れとは実に面白いものです。このとき三好長慶が越水城を得たことが、長慶が後に飛躍するきっかけを作ったのです。越水城を拠点にした長慶は、松永久秀など摂津国人衆を配下に組み入れて摂津西半国を支配する武将に成長していくのです。

 しかし、勢力を拡大していくと、他の勢力と衝突することも増えてきます。このころ畿内では、細川高国の残党が息を吹き返し、細川氏綱を旗頭として細川晴元と争っていました。晴元の配下である三好長慶は、晴元勢の主力として氏綱との戦いに参戦していくことになります。

 細川晴元細川氏綱の争いは激化し、天文15年(1546)12月将軍義晴は戦乱を理由に都を離れ近江坂本に拠点を移しました。近江守護の六角定頼は、将軍義晴が最も信頼している守護大名でした。この地で、義晴は嫡男義輝を元服させて13代将軍の座に就けたのです。それは、都にいることのできない将軍の誕生でもありました。

 天文16年(1547)7月細川晴元の軍勢と細川氏綱の軍勢は、大坂の舎利寺で激突します。この舎利寺の戦いで三好長慶は氏綱軍に大勝しました。その後、六角定頼が調停に乗り出し晴元と氏綱は和睦します。

 天文18年(1548)三好長慶は、細川晴元に対して戦いを仕掛けます。晴元が被官の一人を自害させたことに対して反発し、国人衆に呼びかけ「国人衆の権利を守るため」という大義名分を掲げ、父の仇である細川晴元を討つことにしたのです。長慶は永らく晴元に仕えてきたのですが、ついに反旗を翻し、父の仇をうち、大きな権力を手に入れる賭けにでたのです。もちろん、この賭けには大きなリスクがありました。晴元と敵対するということは、将軍義輝と管領代である六角定頼をも敵に回すということなのです。しかし、期は熟しました。いまや三好長慶畿内一の軍事力を誇る武将に成長していたのです。

 三好長慶が掲げた「国人衆の権利を守る」という大義名分は効果を発揮し、河内、摂津、山城、丹波、和泉など畿内の国人衆はもとより、淡路、阿波、讃岐の国人衆をも結集した大勢力となりました。これに対して、細川晴元の軍勢は摂津の江口に集結しここを拠点として淀川沿いに守りを固めて、晴元の義父である六角定頼の援軍を待つことにしたのです。江口を守る晴元勢の主力は、かつて長慶と河内十七箇所代官職を巡って対立した三好宗三でした。

 三好長慶は、六角定頼の援軍がくる前に敵を撃破しようと考え、江口に対して総攻撃をかけました。長慶軍の強襲を受けた三好宗三の軍勢は800人が討ち取られて大敗し、晴元勢は総崩れになって近江へ敗走しました。そのため、六角定頼は三好勢と戦うことなく近江へ引き返したのです。

 江口の戦いに勝利した三好長慶は、京都を支配下におさめました。天文20年(1551)幕府政所執事の伊勢貞孝は将軍義輝を見放して、三好長慶の軍門に下りました。将軍義輝は近江に避難し、京都不在が長く続いた結果、京都を支配する幕府の機能は崩壊したのです。

 天文21年(1552)正月将軍義輝を軍事的に援助してきた近江の六角定頼が死亡しました。定頼の死によって将軍義輝と細川晴元は後ろ盾を失い、三好長慶と和睦を結ばざるを得ない状況に追い込まれました。和睦の条件は、次のようなものです。細川晴元は出家すること。晴元の嫡子信良は人質として長慶に差し出すこと。細川氏綱細川京兆家家督を継ぐこと。将軍義輝は京へ帰還すること。

 一切の力を失った将軍義輝は京都に帰還し、三好長慶は将軍の御供衆に任じられました。もともと細川家の被官であった三好長慶が、本来はなれないはずの将軍直臣になったのです。また長慶の力によって、およそ50年間続いていた細川京兆家家督を巡る争いにも終止符が打たれました。足利義輝は飾り物の将軍として存在し、真の支配者は三好長慶という構図が出来上がりました。無力な将軍義輝は、長慶に逆らうことができなかったのです。

 京都にはひとときの平穏が訪れましたが、それは長続きしませんでした。天文22年(1553)将軍義輝の側近たちが、三好長慶の暗殺を企んだのです。暗殺計画は、実行される前に露見し将軍義輝は霊山城に立て籠りました。三好長慶は2万5千の大軍を率いて霊山城を攻撃し、城を落とされた将軍義輝は琵琶湖西岸の朽木へ敗走したのです。

 この時、三好長慶は、将軍義輝を討ち取ることも可能でしたが、それは思いとどまったのです。そのかわり、義輝に従う者は、公家、武家、にかかわらず領地を没収すると宣言したのです。この脅しは絶大な効果を発揮し、義輝に従っていた者たちは次々に離脱し、朽木まで義輝に従っていったのはわずか40人ほどの側近だけだったそうです。三好長慶は、将軍の命を奪うのではなく、将軍の力を完膚なきまでに奪うことで、自らの権力を天下に知らしめたのでした。

 

 こうして、三好長慶はついに天下人となったのです。これまで、細川京兆家は表には足利将軍を立てておきながら、裏で将軍を操るという方法で天下を支配していました。しかし、三好長慶は足利将軍を擁立せず、自らが表に出て天下の支配者となったのです。同時代の武将の多くが、自分の領土を拡大することしか考えていなかった時に、三好長慶は、ただ一人だけ天下を支配するという大望を抱きそれを実現させたのです。この当時、日本を訪れたイエズス会の宣教師が、本国ポルトガルへ送った書簡には日本国王として「三好殿」すなわち三好長慶の名が記載されていました。三好長慶の先祖は、阿波守護代の傍流でしかありませんでした。乱世の中から台頭した地方出身の守護代クラスの武将が、天下の支配者になったのです。

 これは、戦国時代の流れを変える大きな出来事でした。もしも、三好長慶が天下人になっていなければ、織田信長が天下取りに乗り出すことはなかったかもしれません。まさに、信長がくる前の京都には三好長慶という先駆者がいて、足利将軍や細川京兆家などそれまで日本の中世を支えてきた権威を破壊していたのです。三好長慶は、権威という抽象的な概念に支えられた貴種・名族が支配する時代に終止符を打ち、その出自は関係なく軍事力や経済力を保有する真の実力者が支配者になるという新たな時代を切り開いたのです。 

 

今回参考にした文献は以下の通りです。

 

室町幕府分裂と畿内近国の胎動 天野忠幸 吉川弘文館

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

信長が来る前の京都 何故麒麟はいなくなったのか

 戦国時代は、歴史に興味を持つ者にとって最も関心の深い時代だと思います。私たちは、織田信長武田信玄あるいは上杉謙信など戦国武将たちの活躍を通して戦国時代の歴史を知ることになるのです。彼らは、尾張、甲斐、越後などまず地方を制してから京都へ上り天下統一を目指していきます。そのため、私たちは戦国時代の地方の情勢に関しては様々な知識を持っているのですが、日本の中心である京都の戦国時代についてはほとんど情報を持っていないのです。

 歴史の教科書では、京都で応仁の乱が起こったことで足利将軍の権威は失墜し、日本各地に戦乱が広がり下克上が横行して戦国時代になったといわれています。そして、その戦乱のなから台頭してきた織田信長が天下統一をめざして京都へ上洛するという流れになっています。応仁の乱終結したのが1477年であり、信長が足利義昭を奉じて上洛を果たしたのが1568年です。この約90年の間、私たちの目は地方の歴史に向けられており京都や足利将軍の歴史については全く注目されていないのです。

 NHKの大河ドラマ麒麟がくる」では、向井理さんが演じる13代将軍足利義輝も無力な将軍として描かれています。いったいなぜ、足利将軍は力を失い、三好長慶松永久秀が京都を支配するようになったのでしょうか?そこで、今回は大河ドラマ歴史小説では語られない「信長がくる前の京都」の歴史に光を当て、足利将軍のもとから「何故麒麟がいなくなった」のかを探りたいと思います。

 

 1477年応仁の乱終結し、足利義政日野富子の間に生まれた足利義尚が9代将軍としての地位を確かなものとし、新たな支配者として歩み始めました。ところが、足利義尚は1489年3月25歳の若さで病死してしまうのです。ようやく戦乱の終えた京都に、再び将軍の後継者問題が浮上し戦乱の気配がしのびよってきました。

 このとき、将軍の候補者は二人いました。ひとりは、応仁の乱の主役の一人であった足利義視の息子である足利義稙でした。義稙(よしたね)は、義材(よしき)、義尹(よしただ)と名乗った時代もありますが、本文では義稙で統一します。義稙は日野富子の妹が産んだ子であり、日野富子の支持を得て将軍候補者となりました。

 もう一人の候補者は、堀越公方足利政知の息子である足利義澄です。義澄も義遐(よしとお)、義高(よしたか)と名乗った時代がありますが、本文では義澄で統一します。義澄を支持したのが細川勝元の息子で管領細川政元でした。

 この時の争いでは、日野富子の巨大な財力がものを言ったのでしょうか、義稙が後継者争いに勝利し10代将軍足利義稙となったのです。その後、日野富子と義稙は対立し、富子は義稙を失脚させる政変に加担します。

 1491年将軍となった義稙は軍勢を率いて近江へ遠征し、寺社本所領を横領していた六角高頼を征伐し、将軍としての力を誇示しました。1493年義稙は河内へ遠征し再び軍事力によって己の力を誇示しようと試みました。今回標的とされたのは河内を支配している畠山基家でした。大軍勢を率いた義稙は河内へ向け進軍を開始し、京都を留守にしました。

 このすきをついて義稙に反旗を翻した者がいます。さきの将軍後継者争いで義澄を担いで敗れた細川政元でした。政元は義稙の将軍職を一方的にはく奪すると、足利義澄を将軍の座に就けたのです。この事件は「明応の政変」と呼ばれています。明応の政変には、日野富子や幕府政所を司る伊勢貞宗も加担しています。京都で政変が起きると、不思議なことに足利義稙に従って河内へ遠征していた大軍勢の武将たちは、次々と細川政元の側へ寝返り京都へ帰還してしまったのです。

 見捨てられた義稙のもとに最後まで残っていたのは、わずか40人ばかりの近臣たちだけでした。義稙は細川方に捕らえられ京都に幽閉され、あわや毒殺されるところでしたが、なんとかその窮地を脱出し、越中へ逃れました。このとき、義稙が生き残ったことがその後の歴史を混乱させる要因になるのです。

 さて、細川政元が起こした明応の政変は、公職にもついていない細川政元が、時の将軍の首をすげ替えたのですから、前代未聞の大事件でした。政元は足利義稙が将軍職に就いた時に管領になっていたのですが、たった一日で辞職していたのです。過去にも6代将軍足利義教が播磨守護の赤松満祐に暗殺されるという「嘉吉の変」がありましたが、このときは将軍を殺した赤松満祐は幕府軍によって討伐されており、足利将軍の支配体制はまだ維持されていました。

 しかし、明応の政変が起きたことで、天下の真の支配者は細川政元になり、足利将軍は政元の操り人形にされてしまったのです。なぜ細川政元は、将軍よりも強い権力を握ることができたのでしょうか?その答えは、細川一族の結束にありました。

 政元は細川本家の家督者です。細川本家は代々右京太夫の官途を継承したことから「京兆家」と呼ばれていました。京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の守護を兼務していました。細川一族は、この京兆家を中心に典厩家、野州家、阿波守護家、和泉上下守護家、備中守護家、淡路守護家があり、細川一族で八か国の守護を独占し近畿から瀬戸内海東部を支配する一大勢力でした。この時代の日本で細川一族ほど広大な分国を領有し瀬戸内海や日本海の経済的な要地を支配している者は他にはいませんでした。

 ここにおいて、日本の歴史の中に新たな支配者の形態が生まれました。細川政元は、公職にはついていませんが、京兆家という細川一族の総帥であるという立場で絶大な権力を手にし、「天下無双の権威」と呼ばれる支配者となったのです。

 

 細川政元は絶大な権力を手にし、その栄華は永らく続くかと思われました。ところが政元は一風変わった生き方をしており、そのことで運命を狂わせてしまうのです。政元は修験道に傾倒していました。そのため、政元は妻帯しておらず跡取りとなる息子がいなかったのです。

 当初、政元は細川高国を養子にしようとしていましたが、政元の母が反対し高国は野州細川家に入れられました。次に政元は前関白九条政基の息子である澄之を養子に迎えました。ところが、細川一族の中から細川家の血筋ではない者に京兆家を継がせることに難色を示す者が現れました。澄之反対派の三好之長は、阿波守護細川家の澄元を擁立して上洛してきました。三好の軍事的圧力に押された政元は、澄元に家督を譲る決断をします。

 細川政元が後継者を誰にするか二転三転したことで、京兆家の家督を巡り三つ巴の争いが起き、一枚岩で結束していたはずの細川一族は分裂してしまったのです。後継者争いは武力闘争に発展し、そのあおりを受けて政元は暗殺されてしまいました。政元の死後、泥沼の後継者争いを制したのは細川高国でした。高国は澄之を自害に追い込むと、西国の太守大内義興に庇護されていた足利義稙と手を結び、細川澄元と三好之長を阿波へ追い落とし、将軍足利義澄も近江へ退かせました。

 細川高国の取った行動は拙速であったと言わざるを得ません。権力者が衰退していく過程の多くは、目先の利益にとらわれて、安易な妥協したために、後に大きな禍根を残し、その禍根がもとで自分が滅びるという図式です。高国の場合は、京兆家の家督を得るために、足利義稙と手を組み、わざわざ将軍家の争いのもとを都に呼び戻したということです。

 

 1508年7月足利義稙が上洛して将軍の座に復位し、細川高国が京兆家の家督を継ぎ大内義興が軍事力を提供して政権を支えるという体制が生まれたのです。一見強固な政権が誕生した印象を受けますが、この政権はガラス細工のようにもろいものでした。

 まず、義稙が政権の主導権を巡り高国や義興と対立します。義稙は、明応の政変で失脚し軍事力も無ければ、経済力もありません。義稙にあるのは、足利将軍家の血筋だけです。身の程知らずの義稙の存在はこの政権の大きな足かせになっていました。 

 そして、政権発足から10年後の1518年大内義興が都を去り、周防へ帰還してしまいます。大内義興は明貿易で巨額の富を稼いでいたのですが、それでも長期間京都に滞在することは大きな負担だったのです。さらに、大内義興が領国を留守にしている間、山陰の尼子氏が勢力を拡大し大内氏の領国をおびやかし始めたのです。そのため、大内義興は帰国せざるを得ませんでした。

 大内義興が京都を去ると、義稙と高国の連合政権は軍事力が大幅に低下しました。その時を待っていたかのように、阿波の細川澄元が動き兵庫へ上陸します。摂津国最大の国人である池田氏が澄元に呼応し高国に対して挙兵しました。

 この動きを見た足利義稙は、澄元が優勢とみて、高国を見限り澄元に京兆家の家督を認めました。いつのころからか、足利将軍家には義稙のようなひきょうな男が出るようになってしまいました。このような男が足利家の力をどんどん弱めていくのです。ともあれ、義稙が高国から澄元に乗りかえ、阿波からは三好之長が2万の軍勢を率いて上洛を果たし、足利義稙、細川澄元、三好之長による政権が誕生しました。

 しかし、細川澄元が病にかかったことで、状況は一変しました。阿波軍勢の総大将である澄元が弱っているすきをついて、細川高国が反撃に出たのです。高国は近江の六角氏や朽木氏、越前朝倉氏、美濃土岐氏丹波内藤氏を味方につけ洛北で三好之長の軍勢と対決し勝利をあげました。総大将の澄元を欠いた阿波の軍勢のなから高国側へ寝返るものが続出したのです。敗れた三好之長は切腹させられ、細川澄元は阿波へ逃れましたがそこで死にました。そして、足利義稙も淡路へ逃げたのです。

 1521年細川高国後柏原天皇即位式を執り行い天皇の信任を得て京兆家の家督を継ぎ、足利義澄の遺児である足利義晴を新将軍として京都に迎えたのです。

 一方、このとき淡路へ逃れていた足利義稙は阿波へ渡っていました。義稙のもとには養子の義維(よしつな)がいました。この義維は足利義澄のもうひとりの遺児でした。こののち、義維は義晴と将軍の座を争うことになっていくのです。

 

 織田信長が誕生したのは1534年のことです。信長が生まれる以前から京都では権力の座を巡る激しい戦乱が起こっていたわけです。近畿、瀬戸内海東部の八か国を領有する細川一族は絶大な権力を手にし、一族の総帥である京兆家の細川政元は、明応の政変を起こし将軍の首をすげ替えることさえできる支配者となっていました。

 しかし、政元に実子がいなかったために京兆家の家督相続をめぐる争いが生じ、細川一族は分裂してしまいました。細川高国家督相続争いを有利に運ぶため、足利義稙と手結び、細川家の争いに加えて将軍の座を巡る争いも再燃してしまいました。権力を巡る争いは手段を選ばず、武力に勝ることが最優先されます。そのため、戦いのすそ野は広がっていきました。足利氏も細川氏も軍事力を提供してくれる味方を必要としたのです。

 ところが、大内義興の例にみられるように、遠国から京都に遠征してきても長期間滞在することは不可能です。そのため、足利氏も細川氏も、京都周辺の有力国人衆はもとより、一向宗法華宗など宗教勢力であっても軍事力を持っている集団を利用しようとしました。いつしか、争いの主導権を握るのは、実際の軍勢を動員できる国人衆や宗教勢力に移ってしまい足利氏や細川氏は彼らを制御できなくなってしまったのです。彼らは自分たちの勢力を拡大するため勝手に争いをはじめ、京都はその戦場となってしまったのです。

 かくして、信長がくる前の京都は戦乱の巷と化し、世に平和をもたらす麒麟はいなくなってしまいました。将軍や細川氏は自分の身を守るため、味方になってくれる有力武将のもとに逃げ込むしかなかったのです。

 一方、阿波からは三好長慶畿内に進出してきました。1539年長慶は越水城に入城しここを拠点として摂津西半国を支配下におさめ畿内に根を下ろしました。阿波の領地は弟たちに任せることで畿内と四国の両方で軍事力を養い、世に出る機会をうかがっていたのです。長慶の活躍とその後の権力争いのゆくえは、また次回にお話しします。

 

 

今回の参考文献

 「応仁の乱」 呉座勇一 中公新書

 「室町幕府分裂と畿内近国の胎動」 天野忠幸 吉川弘文館