歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

徳川家康が最も恐れた刀 妖刀村正

 皆さんは「妖刀村正」をご存じでしょうか。刀女子や刀大好きなオジサンなら知っていてあたりまえですが、歴史は好きだけど日本刀はあまり興味ないという方も是非ご一読下さい。

 日本刀には数々の名刀があり、今日でも歴史に縁のある名刀が博物館に所蔵されています。例えば、当ブログで最近話題にしている足利尊氏に由来の名刀といえば「骨喰藤四郎」であり、清和源氏に縁の日本刀と言えば国宝「童子切安綱」があります。この「童子切安綱」という刀は、平安時代源頼光の家臣である渡辺綱大江山に棲む酒呑童子という鬼を切った刀として有名です。この刀は現在でも東京国立博物館に所蔵されていますので、タイミングよく展示してあれば実物を見ることができます。一説によれば、大河ドラマ麒麟がくる」で向井理さんが演じている代13代将軍足利義輝は、吉田鋼太郎さん演じる松永久秀に裏切られ切り殺されるのですが、その時最後に手にしていたのが「童子切安綱」であったと云われています。

 さて、今回のテーマである妖刀村正は、前述したような名刀とはまったく異なります。村正という刀は室町時代から戦国時代にかけて伊勢国桑名で量産されていたごく普通の日本刀で、切れ味鋭く実用性に優れていた日本刀です。それが妖刀と言われているようになったのは、戦国時代に徳川家康の祖父清康、父広忠、息子信康の三人の命を奪ったのが村正だったからです。そのため、家康はこの村正という刀を恐れていたと云われています。

 徳川家康の祖父松平清康が死んだのは1535年のことでした。斎藤道三の娘帰蝶織田信長に嫁いだのが1549年ですから、先週3月15日に放送された「麒麟がくる」のお話の14年前に松平清康は死んだのです。家康の祖父松平清康は一代の英雄になりかけた武将でした。東三河を制圧した清康はまたたくまに三河全土を制圧し、次は美濃へ攻め込む足掛かりを作ろうとしていた矢先、軍事行動のさなか心を病んだ家臣によって清康は命を奪われました。その時、家臣が清康を切ったのが村正でした。もしも、清康がこの時死んでいなければ、三河、美濃、尾張の戦国時代の様相はまったく異なったものとなっていたかもしれません。希代の名将清康の急死によって三河は弱体化し今川に隷属するような国になったのです。

 清康の息子にして家康の父である松平広忠は幼くして岡崎松平家家督を継ぎ、その地位をなんとか守るために駿河今川義元に頼っていたのです。清康の死によって岡崎松平家は弱体化し、三河国内でも広忠から三河領主の地位を奪おうと狙っている者たちがいたのです。不穏な空気が漂うなか、家康の父松平広忠は暗殺されました。下手人は松平家に仕えていた岩松八弥です。ウィキペディアによれば「龍海院年譜」「天元年記録」「岡崎古記」には岩松八弥が松平広忠を殺害したとの記述が残されているそうです。また、「徳川実記」「武徳大成記」「三河風土記」には岩松八弥が松平広忠を襲撃はしたものの殺害するには至らなかったという記述があるそうです。また別の説では、松平広忠は病死したとの説もあるとのことですが、歴史資料の多くが松平広忠の死に岩松八弥が関係しており、八弥が村正を使って広忠を切り殺したということが通説となっている訳です。

 妖刀村正の犠牲になった三人目は家康の長男である松平信康でした。この時織田と徳川は同盟を結んでいたのですが、信康は武田信玄と通じていると信長に疑われ切腹させられたました。信康が切腹した時、介錯に使われた刀がまたしても村正であったというのです。

 こうして、村正は三度も徳川家康の家族を切り殺した刀となりました。祖父清康と父広忠が死んだことで松平家の家運は衰退し、幼少期の家康(竹千代)は織田や今川の人質となり三河の国は隣国から利益を収奪される国となってしまったのです。このため、徳川家康にとって村正とい刀は徳川家に不運をもたらす恐ろしい刀となったわけです。もちろん、ある特定の一振りの村正が徳川家に仇をなしたわけではありません。前述したように村正という刀は、戦国時代に実用品として量産され切れ味鋭いとの評判でしたから、東海地方ではどこにでもある普通の刀だったということです。

 さて、今回「歴史楽者のひとりごと」では、がらにもなく日本刀についてくどくどと述べてきたのですが、その真意は3月15日に放送されたNHK大河ドラマ麒麟がくる」において、松平広忠の暗殺シーンについて「?」と思ったからです。大河ドラマは娯楽でありフィクションですから、歴史的な通説と異なるストーリーが展開してもいいと思います。松平広忠が岩松八弥によって村正で切り殺されたという話は通説ではありますが、確定しているわけではありません。したがって、広忠が信長に雇われた忍びの者によって暗殺されてもいいのですが、広忠の死に妖刀村正がからまらなかったのは非常に残念でした。

 さらに心配なのは、徳川家康の父を死に至らしめたのが織田信長であるという大河ドラマの展開です。まさかとは思いますが、NHK明智光秀本能寺の変を起こした動機を、明智憲三郎氏が唱えている「徳川家康黒幕説」にしようとしている訳ではないですよね。それだけはお願いだからやめて欲しいと思います。今回の大河ドラマは歴史ファンとしてとても楽しめるドラマです。どうか、光秀が本能寺の変を起こした動機だけは、へんてこりんなものではなく誰もが納得するようなものにして頂きたいと願います。なお明智憲三郎氏は明智光秀の子孫で、著書「本能寺の変 431年目の真実」(文芸社文庫)の中で本能寺の変に関する自説を述べていらっしゃいます。

 ところで徳川家に祟るとの噂がついた村正は、徳川家を倒したいと願う武士に愛用されたそうです。真田信繁もその一人でした。また幕末の志士たちも好んで村正を腰に差していたそうです。その村正の実物を見たい方は、名古屋にある徳川美術館に足を運んでください。尾張徳川家は、妖刀村正を毛嫌いせず、切れ味鋭い刀として所有していたそうです。その一振りが展示してあります。

 さいごに、松平清康の活躍や妖刀村正の恐ろしさを知りたい方は、宮城谷昌光さんの小説「風は山河より」(全6巻・新潮文庫)を読んでみてください。とても面白い歴史小説ですよ。

 

今回参考にさせていただいた資料

 「刀の日本史」 加来耕三

 ウィキペディア 岩松八弥の項

 

東の将軍 鎌倉公方 その10-足利持氏 室町将軍に挑み死す

上杉禅秀の乱終結後の関東

 1417年1月上杉禅秀の乱終結しました。無事に鎌倉へ戻ることのできた足利持氏は、反乱に加担した者たちへの討伐に着手しました。この年持氏は、上野国の岩松満純、甲斐国武田信満を討伐しました。彼らは上杉禅秀の乱に加担したものの、室町幕府からの寝返りの呼びかけに応じていた者たちでした。幕府は寝返りに応じた者に対しては、謀反の罪を問わないと約束していたのです。

 しかし、鎌倉公方足利持氏は謀反に加担した者たちを決して許さず、徹底した弾圧を加えたのです。そのため、持氏から弾圧の標的にされた関東武士の中には、自分の身を守るために室町幕府に庇護を求める者がでてきたのです。彼らは、幕府から庇護を受ける見返りに、鎌倉府や鎌倉公方の動向を監視し幕府の手先となって、鎌倉公方を牽制する役割を担うようになりました。このような関東武士のことを「京都御扶持衆」と呼びます。京都御扶持衆となった主な関東武士は、稲村御所の足利満貞、白河結城氏、下野国の宇都宮氏、常陸国の小栗氏、真壁氏などです。

 謀反に加担した武士を弾圧する足利持氏の行動は、関東内部に敵対勢力を増大させる行為でしたが、この時期持氏の近臣には持氏の暴走を止めることのできる者がいませんでした。本来ならば、関東管領鎌倉公方を補佐する立場として、持氏に意見すべきでしたが、その関東管領職に就いていたのは10歳の少年上杉憲実でした。

 上杉禅秀の乱が勃発した時、関東管領の座についていたのは上杉憲基でした。憲基は禅秀との戦いに敗れ越後国へ逃れていました。越後国は1341年に山内上杉家の祖である上杉憲顕が守護に任じられて以来、上杉氏が守護職に就いていた国です。越後上杉家では、憲顕の息子憲栄が病死すると、山内上杉家より憲顕の孫である房方を越後へ呼び寄せ家督を継がせていました。このように越後国山内上杉家にとって信頼できる国でした。そのため上杉憲基は禅秀の乱が終結するまで越後国に逃れていたのです。その後、憲基は鎌倉に復帰していたのですが、病に倒れてしまいました。そこで、憲基の養子になっていた上杉憲実(越後上杉家の生まれ)が山内上杉家家督を継ぎ10歳で関東管領職についていたのです。

 10歳の少年が関東管領では、足利持氏の暴走を止めることはできず、この時期の持氏は半ば独裁者として関東に君臨していたのです。持氏に弾圧された武士の中には京都御扶持衆にならなかった佐竹氏や千葉氏などもいましたが、彼らは持氏に対して深い恨みを持ちました。そして、この時に生じた遺恨が、後に起こる関東大乱の火種となるのです。

 

くじ引き将軍 足利義教

 1425年京都では五代将軍足利義量が亡くなりました。享年19歳の義量にはまだ跡継ぎの子供がいませんでした。ただし、義量の父で四代将軍であった足利義持は健在でした。義量の死後、足利義持は前将軍として室町幕府の実権を握っていましたが、自らが将軍に返り咲くことはありませんでした。ところが、義持は将軍の後継者を急いで決める気配もありませんでした。義持には、病死した義量の他に子供がいなかったのですが、このとき義持の年齢は40代の男盛りでしたので、これから跡取り息子ができると思っていたようです。そのため、室町将軍の座は空位になっていたのです。

 このことに色めき立った者がいました。鎌倉公方足利持氏です。持氏もまた将軍になりたいという宿痾に取りつかれていたのです。持氏は使者を立てて京都へ派遣し、足利義持の猶子となり将軍の座に就きたいと願い出たのです。しかし、持氏の申し出はあまりにも難題であったため、使者は義持に対面することすらできませんでした。室町幕府の将軍になれるのは、二代将軍足利義詮の血を引く者でなければなりませんでした。ところが、鎌倉公方は義詮の弟である基氏の血を引いた家系です。たとえ足利尊氏の子孫であったとしても、二代目の時に室町将軍と鎌倉公方に分かれた血筋は決定的な違いになっていたのです。それが理解できていなかったのは、鎌倉公方だけでした。

 1428年足利持氏は急死しました。原因は入浴中に背中にできた腫物をかきむしり、それがもとで体調をくずしたことによるものです。義持が将軍の跡継ぎを決めないままに死去したので、室町幕府重臣たちは次期将軍を「くじ引き」で決めることにしました。前代未聞の事態です。次期将軍の候補者とされたのは義持の兄弟4人で4人とも僧籍に入っていました。義持の兄弟ではない持氏は、当然のことながら候補者のなかに入ることすらできませんでした。おそらく、鎌倉の持氏は地団駄を踏んで悔しがったことでしょう。

 しかし、持氏のことなどおかまいなしに、室町幕府重臣たちは粛々と将軍選びの「くじ引き」を進めていたのです。まず4人の候補者の名前を書いた「くじ」が用意されました。「くじ」に候補者の名前を書いたのは三代将軍足利義満に重用され「黒衣の宰相」と呼ばれた三宝満済です。「くじ引き」は石清水八幡宮の神前において管領畠山満家の手によって厳正に行われました。満家が引いた「くじ」には「青蓮院殿」と書いてあったそうです。当選した青蓮院門跡義円は還俗して足利義宣(よしのぶ)と称し、翌1429年に足利義教と名を改めて6代将軍の座に就きました。一説によれば、このくじ引きは八百長であったそうです。ただし、そのことは選ばれた義教には伝えられていなかったそうです。義教自身は、「自分は神様によって選ばれた将軍である」と思い込んでいたようです。

 

永享の乱勃発

 さてこの時、鎌倉の足利持氏はどうしていたでしょうか。くじ引きによる次期将軍選びに不満をつのらせていた持氏は、関東の軍勢を率いて京都へ攻め込もうと考えていました。持氏の出兵を思いとどまらせたのは、関東管領上杉憲実でした。憲実はこのとき21歳になっていました。かつて持氏の暴走をとめることのできなかった少年は、冷静沈着な大人へ成長し関東管領の職務を全うできるようになっていたのです。憲実は持氏の挙兵を押しとどめるために、新田氏が鎌倉へ攻め込んでくるという偽りの注進をしたのです。この注進に驚いた持氏は、京都へ攻めあがること断念せざるを得ませんでした。

 しかし、室町幕府には関東にいる京都御扶持衆を通じて、持氏の動きが全て伝わっていたのです。鎌倉公方足利持氏が挙兵し京都に攻め込もうとしたことも、関東管領上杉憲実が持氏の挙兵を押しとどめたことも全て幕府に筒抜けになっていたのです。このとき室町幕府重臣たちは上杉憲実の行動を見て、幕府への協力者であると思い込んでいました。しかし、憲実の真意は持氏を裏切って幕府に協力しようとしていたのではなく、幕府に敵対せず鎌倉府が安定して存在することだけを考えていたのです。ところが憲実の気持ちは持氏には伝わらず、憲実と持氏の関係には亀裂が生じ、その溝は次第に深まっていったのです。

 1429年足利義教が6代将軍の座に就きました。同年9月改元が実施され元号は正長から永享へ改められました。ところが、室町幕府に反発する足利持氏はこの改元に従わず、鎌倉府では正長の元号を使い続けたのです。関東管領上杉憲実は、改元に従わない持氏に諫言しましたが、持氏は聞く耳を持ちませんでした。室町幕府から敵視されることを恐れた上杉憲実は、1431年に京都へ使節を派遣し、改元を無視していることを幕府に」わびました。そして、この後鎌倉府は永享の元号を用いるようになったのです。

 1432年将軍足利義教は、富士山を遊覧するために駿河へ下向しました。義教の富士山遊覧は足利持氏を威嚇する軍事行動でもあったのです。自分の立場をわきまえずに将軍の座を望み、その無謀な望みがかなわないとなると、お門違いにも室町幕府に反発してくる足利持氏に対して、足利義教は強い敵意を抱いていました。義教は持氏を牽制するために陸奥国篠川公方足利満直に対して関東の支配権を認める御内書を出していました。しかし、足利満直は陸奥国内の諸勢力を制圧することもできていなかったので、鎌倉府に対して軍事行動を起こして足利持氏を倒せることなど到底不可能でした。

 ところが、将軍義教に足利持氏を倒す機会が到来したのです。きっかけは、足利持氏信濃国守護小笠原氏と村上氏の領地争いに介入しようとしたことでした。1436年信濃国の武将村上頼清は小笠原氏との領地争いに際して、鎌倉公方足利持氏に援軍を求めてきたのです。持氏はこの援軍要請を引き受け、鎌倉から軍勢を派遣しようとしました。しかし、関東管領上杉憲実は信濃へ軍勢を出すことに反対しました。信濃鎌倉公方の権力が及ぶ地域ではなく、室町将軍の支配下にある地域です。そこへ鎌倉から軍勢を派遣することは、室町幕府に反旗を翻すことと同じであると憲実は説いたのです。持氏が憲実の反対を無視して軍勢を派遣しようとしたので、憲実は上杉の軍勢を使って力ずくで持氏軍の信濃入りを阻止しました。

 この事件によって、持氏と憲実の対立は決定的なのもとなりました。翌1437年持氏は再び信濃国へ出兵するためと称して軍勢を集めましたが、関東諸国では持氏が集めた軍勢は上杉憲実を討つための軍勢であるとの風聞が立ちました。そのため、憲実を支持する勢力が鎌倉に集結し、鎌倉は騒然とした状況になったということです。持氏は憲実に対して和解を申し入れましたが、両者が和解することはありませんでした。

 1438年再び足利持氏が上杉憲実を討つとの風聞が立ちました。憲実は自分の真意を理解してくれない持氏のことを嘆き自害しようとしましたが近臣によって止められました。自害を断念した憲実は、鎌倉を脱出し領国の上野国へ逃れました。憲実が上野国へ逃れたことを知った持氏は、憲実討伐のため軍勢を率いて鎌倉を出立し武蔵国府中の高安寺に陣を構えました。

 関東で持氏と憲実の争いが勃発したことを知った将軍義教は、持氏を倒す機会が到来したとばかりに、憲実への援軍を派遣することにしました。8月22日幕府軍が京都を出発し、信濃国守護の小笠原氏に対しても足利持氏討伐の命令が下されました。朝廷は8月28日に後花園天皇が持氏討伐の綸旨を発し錦の御旗が幕府に与えられたのです。

 足利持氏は上杉憲実を攻撃するため一色氏の軍勢を上野国へ派遣する一方、自らは相模国へ進出し西からくる幕府軍を迎え撃とうとしました。しかし、持氏が朝敵となったことが味方に知れ渡ると、持氏軍の中から幕府側へ寝返る武士が続出しました。この情報は上野国で戦って一色軍にも伝わり、一色軍の中からも幕府側へ寝返る武士が次々に現れました。さらに、持氏から鎌倉防衛を任されていた三浦氏が幕府側に寝返り鎌倉を焼き討ちにしたのです。これによって持氏の敗色は決定的となりました。

 持氏は戦闘を中止し剃髪して幕府に対する恭順の姿勢を見せました。しかし、将軍足利義教に持氏を許す気はなく、上杉憲実に対して持氏の命を奪うように命令したのです。1432年上杉憲実は、足利持氏が幽閉されている鎌倉の永安寺を軍勢で取り囲みました。もはや助かる道はないと悟った持氏は、自ら寺に火を放って自害しました。およそ100年の間関東を支配した鎌倉公方はこの時をもって滅亡したのです。

 

 その後、足利義教は自分の息子を鎌倉へ下向させ鎌倉公方に就かせようとしたようですが、実現しなかったそうです。自分は神によって選ばれた将軍だと思い込んでいた義教は独断的な政治を行って暴走し1441年に赤松満祐によって暗殺されます。これを嘉吉の変と呼びます。その前年、関東では持氏方の残党が持氏の遺児である春王丸と安王丸を擁して下総国の結城城に立て籠り、室町幕府に反旗を翻しました。世にいう「結城合戦」です。反乱軍はおよそ1年の間籠城して抵抗しましたが、関東管領上杉清方が率いる幕府軍の総攻撃を受けて結城城は炎上し、反乱軍は壊滅しました。まだ12~13歳の春王丸と安王丸は幕府軍に捕らえられて京都へ護送されていましたが、その途中の美濃国垂井で殺害されてしまいました。

 その時、6歳であった万寿王丸だけは、まだ分別のつかない幼子であるとして命がたすかり母方の里である信濃国の大井氏のもとに匿われ大切に育てられました。一説によれば足利義教は万寿王丸の命も奪おうとしていたようですが、その決断をくだす前に自分の命を失ったのです。生きながらえた万寿王丸は、かつて鎌倉公方に恩顧のあった関東の武将たちにとって、希望の光でした。関東をうまく治めていくためには、どうしても源氏の棟梁の血筋の大将が必要だと考える武士が大勢いたのです。関東の有力武将たちは室町幕府重臣たちに多額の賄賂を渡して、鎌倉公方の復活を嘆願していました。その嘆願が実り、1447年室町幕府は万寿王丸を許して鎌倉公方に就くことを認めたのです。1449年元服した万寿王丸は足利成氏と称して鎌倉入りを果たし第五代鎌倉公方になったのです。しかし、成氏が鎌倉公方になったことが、関東に大戦乱を呼び起こすきっかけとなるのです。それは、享徳の乱とよばれる大戦乱でおよそ30年間も続きました。この大戦乱が関東に戦国時代をもたらすことになるのです。その詳しい話は、「歴史楽者のひとりごと」の中で「鎌倉公方の不在」から始まる一連のブログに書いています。こちらも記事もぜひご一読ください。

 

今回の「東の将軍鎌倉公方シリーズ」を書くにあたって参考にした資料は以下の通りです。

 

関東公方足利氏四代」 田辺久子 

「武蔵武士団」     関 幸彦

「武蔵武士と戦乱の時代」 田代 脩

「日本社会の歴史」(下)網野義彦

日本経済新聞 日本史ひと模様」 本郷和人

 

 

 

 

東の将軍 鎌倉公方 その9ー 上杉禅秀の乱

満兼の死後、その跡を継いで四代鎌倉公方に就いたのは満兼の嫡男幸王丸でした。関東足利家は初代鎌倉公方基氏の尽力によって関東を平定し、その後二代氏満、三代満兼と安定した政権を確立し関東を支配してきました。ところが、四代幸王丸(元服後は持氏)が鎌倉公方の座に就くと、関東足利家では内部崩壊の兆しを見せ始めるのです。
幸王丸が鎌倉公方に就任した翌年1410年には、叔父である足利満隆が謀反を企んでいるとの風聞がたちました。幸王丸が鎌倉公方になったのは12歳のときでした。幼い鎌倉公方を側面から支える立場であるはずの満隆は、幸王丸を恫喝し鎌倉公方の座を奪おうとしたのです。鎌倉公方の関東支配が始まっておよそ60年が経過していましたが、その間、関東足利家は一糸乱れぬ結束を保ってきました。ところが政権基盤が安定してくると関東足利家の内部に緩みが生じてきたのです。結束の乱れを作り出した原因は、二代氏満、三代満兼の心に生じた野望が原因であると私は考えます。
氏満、満兼というふたりの凡庸な君主は、自分達の実力不足を顧みず、不届きにも京都の将軍になりかわって天下を支配するという野望にとりつかれたのです。分家である関東足利家が、謀反を起こして主家である室町幕府を倒そうという不埒な考えにとらわれていたのです。関東足利家のトップがそのような野望にとりつかれていたのであれば、鎌倉のなかに下克上のような風潮が蔓延するのは当然のことです。初代基氏以来、関東を支配してきた鎌倉府は、やがて、身内や家臣の反乱によって内部崩壊していくことになるのです。
幸王丸が鎌倉公方に就任した直後の内訌は、関東管領上杉憲定のとりなしによってなんとか納めることができました。最初の難局を乗り切った幸王丸は、1410年12月に13歳で元服し、足利持氏と名乗るようになりました。その翌年、持氏が頼りにしてきた関東管領上杉憲定が病死しました。憲定に代わって関東管領に就任したのは上杉禅秀(氏憲)です。上杉禅秀犬懸上杉家の出身でしたが、犬懸上杉から関東管領がえらばれたのは、実に20年ぶりのことでした。この20年の間、関東管領職を独占してきたのは山内上杉家でした。閑職に甘んじていた犬懸上杉家の人々は、不満を募らせ、いつか再び力を取り戻せる機会を狙っていたことでしょう。
そして、上杉禅秀の時代にようやくその機会が巡ってきたのです。ただし、禅秀の考えは関東管領職に就いてその役目を全うするだけでは収まりませんでした。禅秀は、関東に巣くう不満分子を集めて謀反を起こし、影の支配者となることを目論んでいたのです。
禅秀は、密かに関東の不満分子に声をかけると同時に、足利満隆にも声をかけました。それは、謀反に大義名分を得るためでした。鎌倉大草紙は足利満隆に対して禅秀が次のように語ったと伝えています。
「持氏公のご政道は悪く誰もが不満を持っています。ご政道を改めなさいませと、持氏公をお諌めしたのですが、まったく聞く耳をお持ちでないのです。このような悪政が続けば、やがて謀反人が出て鎌倉へ攻め寄せ、足利家は滅ぶやもしれません。そうなる前に、持氏公に代わって満隆様が鎌倉公方におなりください」
禅秀の訴えを聞いた足利満隆は、大いに喜んで謀反の旗印となることを了承したのです。
謀反の一味にはもう一人注目すべき人物がいます。それは三代将軍足利義満の息子である足利義嗣です。義嗣の生母は、足利義満正室日野康子でした。義満が全盛期の時代、日野康子は、後小松天皇の准母(名目上の母)となりました。そのおかげで、義嗣は親王の待遇をえることができたのです。義満は義嗣を皇太子にすることに成功し、あと一歩で足利義満の息子が天皇になる寸前までこぎつけていたのです。しかし、義満が急死したことで義嗣は天皇になることができませんでした。それだけではなく、室町将軍の地位につくこともできませんでした。なぜなら、義満は生前に義嗣の異母兄の足利義持に将軍の座を譲っていたからです。こうして、義嗣は父が急死したことで全てを失っていたのです。
失意のどん底にあった義嗣は、起死回生の策を思いつきます。それが、上杉禅秀と手を結び、禅秀が鎌倉府を転覆させるのと時を合わせて、京都で謀反を起こし、義持を倒して義嗣が将軍の座につくというものでした。義嗣は京都から鎌倉の禅秀のもとへ密使を派遣し連絡を取り合っていたのです。こうして、上杉禅秀の呼び掛けによって、不満分子の面々や持たざる者たちが集まり謀反の準備が進行したのです。
1415年上杉禅秀関東管領の職を辞しました。理由は禅秀の家臣に対する関東公方の処罰に対する抗議でした。しかし、禅秀の辞職は、謀反の準備を進めるための表だった理由に過ぎないでしょう。
そして、1426年10月2日の夜、ついに上杉禅秀の乱が始まりました。まず足利満隆と甥の持仲が鎌倉西御門の宝寿寺で謀反の旗をあげました。上杉禅秀は軍勢を率いて持氏の御所に襲いかかりました。この時、持氏は酒を飲んで酔いつぶれ寝床に入っていました。家臣から禅秀謀反の知らせを聞いた持氏は、当初禅秀の謀反を信じなかったそうです。持氏は禅秀が病に臥せっていると正直に信じていたのです。「禅秀は病を装って謀反を企んでいたのです。とにかく、今はここからお逃げください。」そう家臣から促されてた持氏は、御所を脱出し馬に乗って逃げたのです。
上杉禅秀関東管領職を辞したあと、その職に就いていたのは山内上杉家の上杉憲基でした。その夜憲基も酒宴を開いていたのですが、禅秀謀反の第一報を聞くと慌てることなく武具を用意させ出陣の支度を整えたということです。憲基は700騎の軍勢を従えて、持氏を奉じて禅秀との合戦に備えました。翌10月3日は悪日であったので両軍とも動かず、合戦は起こりませんでした。10月4日未明、上杉憲基が軍勢を動かすと、若宮大路に陣取っていた足利満隆の軍勢が一斉に攻めかかり合戦が始まりました。
軍勢の数に勝っていたのは禅秀・満隆のほうでした。敵方が一気に押しまくってきたので持氏・憲基の軍勢は劣勢に陥り鎌倉を捨て小田原へ逃げ込みました。しかし、小田原にも禅秀に味方する土肥・土屋の軍勢が攻め込んできたので、持氏と憲基の軍勢は箱根山中に逃げ込まざるを得ませんでした。持氏は箱根山中で憲基とはぐれたのですが、箱根山別当の証実に助けられ駿河国へ逃げ込み、駿河国守護今川範政のもとに庇護されたのです。一方、上杉憲基は伊豆の清国寺にたどりつき、そこからさらに越後へ落ちのびたということです。
上杉禅秀の軍勢は、鎌倉を占拠し、足利満隆は早くも鎌倉公方を称しだしました。室町幕府は関東内乱の情報は掴んでいたものの、当初は静観していました。これまで、鎌倉公方は何かと幕府に反発してきました。室町幕府にとって鎌倉公方は目障りな存在であり、鎌倉公方の力が内乱で衰えることは、むしろ室町幕府にとって好都合だったのです。
しかし、10月29日になって、室町幕府の方針は持氏を助けることに急展開しました。幕府は、駿河国守護今川氏と越後国守護上杉氏に対して、持氏を助けるように命令を出したのです。上杉禅秀が鎌倉をあっさりと陥落させ新たな政権を樹立させたことは幕府にとって予想外の出来事でした。このまま反乱が拡大し、室町幕府に対抗する勢力が誕生することは、非常に危険なことであるし、将軍義持は持氏の烏帽子親であることから、持氏を見捨てることができなかったのです。
室町幕府から上杉禅秀討伐の命を受けた今川範政は、足利持氏を帯同して駿河より軍勢を率いて発進しました。今川範政は鎌倉へ向かって進軍しつつ、謀反の軍勢に寝返りを呼び掛けたのです。「今すぐ幕府方に寝返れば、謀反に荷担した罪には問われない。だが、あくまでも謀反の一味に加わり続けるならば、幕府の沙汰によって所領は没収されることになる。」
今川軍が相模国に入るないなや、寝返りの呼び掛けは絶大な効果を発揮しました。謀反の一味は次々と幕府方に寝返り始めたのです。とうとう禅秀は孤立し、1月10日足利満隆、持仲、上杉禅秀は鎌倉で自害し、上杉禅秀の乱終結しました。
一方、上杉禅秀とともに京都で謀反を起こすことを約束していた足利義嗣はどうしていたでしょうか。ふがいないことに、義嗣は何ら軍事行動をとってはいませんでした。しかし、義嗣が上杉禅秀の乱に荷担していることを、室町幕府は掴んでいました。謀反の罪を逃れようとした義嗣は、京都から逐電し出家していましたが、幕府に捕らえられ1418年に処刑されています。一時は次の天皇と目されていた男の哀れな最期でした。

東の将軍 鎌倉公方 その8ー 井の中の蛙だった足利満兼

1398年足利氏満は、病で亡くなりました。享年40才です。両上杉の管領に支えられた氏満は、関東の支配体制を充実させ、鎌倉公方を関東の将軍ともいえる立場へ押し上げたのです。氏満の跡を継ぎ三代鎌倉公方の座に就いたのは、氏満の嫡男である満兼でした。初代基氏、二代氏満が鎌倉公方になったのは元服する前でありましたが、満兼が鎌倉公方の座に就いたのは21歳の時でした。

鎌倉府の奥州進出
満兼がまず取り組んだのは、鎌倉府による陸奥・出羽両国の支配体制を固めることでした。前回説明したように、氏満の代に起きた小山氏の反乱では、小山政義の跡を継いだ若犬丸が、陸奥国の豪族田村氏の支援を受けて長期間に渡り抵抗を続けました。このため、奥羽の勢力が足利氏の支配体制に敵対することを危惧した将軍義満は、鎌倉府の管轄下に陸奥・出羽両国を置くことを認めたのです。
二代鎌倉公方足利氏満は、奥羽に在住する足利方の武家を使って奥羽の統制を試みたようですが、満兼はこの方策を一歩進めて、二人の弟を奥州に派遣し奥州の統制を強化しようとしました。足利満貞陸奥国稲村(福島県須賀川市)へ派遣され、足利満直が陸奥国篠川(福島県郡山市)へ派遣されました。この二つの出先機関はそれぞれ稲村御所、篠川御所と呼ばれるようになりました。
稲村・篠川の両御所は、現在の福島県南部に位置しており、関東と奥州の国境であった白河の関の目と鼻の先でした。この位置では、奥州の南端に寄りすぎており、陸奥・出羽両国を支配する政庁を置く場所としてはかなり無理な場所でした。しかし、この地より北には伊達氏や大崎氏など奥州の強力な武家が存在し、鎌倉公方の支配に反発する姿勢を見せていました。そのため、足利満兼は奥州の中心部へ深く押し入ることができなかったのです。
奥州北部で勢力を張っている伊達氏は、もともと関東出身の武家でした。伊達氏の祖である常陸入道念西は、常陸国伊佐荘(茨城県筑西市)の住人でしたが、奥州藤原氏を討伐する源頼朝の軍勢に加わり奥州へ遠征したのです。念西が配置された大手軍は、陸奥国伊達郡石那坂(福島県福島市)で奥州藤原氏の軍勢と遭遇し合戦となりました。この合戦は頼朝軍と奥州の軍勢が遭遇した最初の戦いでしたが、激戦となりました。その激戦の中で、念西は三人の息子たちとともに奮戦し、頼朝軍の勝利に大きく貢献したのです。その軍功によって、念西は頼朝から伊達郡を恩賞地として与えられたのです。その後、念西はこの地に土着し伊達氏をと称するようになったのです。
石那坂の合戦で奥州藤原氏の軍勢として戦ったのは、信夫荘司の佐藤一族でした。佐藤一族の中でも佐藤継信と忠信の兄弟は、源義経の股肱の忠臣で、源平合戦では義経に従い西国へ遠征しました。兄継信は屋島の合戦の際に義経をかばって矢面に立ち討ち死にしました。また、弟忠信は義経が頼朝から追われる身となった時に、義経の身代わりとなり、後に京都で切腹死しました。石那坂の合戦では非業の死を遂げた佐藤兄弟の父元治が藤原方として戦い、激戦の末討ち死にしています。佐藤一族の忠臣ぶりと悲劇は長らく東北地方の人々の間で語り伝えられ、松尾芭蕉も「奥の細道」の旅でこの地を訪れています。
奥州には伊達氏と同じように、源頼朝の奥州遠征の際に恩賞地を与えられた葛西氏や、南北朝の時代に奥州へ派遣され定着した斯波氏を祖とする大崎氏など、関東出身の武家が数多く存在して勢力を伸ばしていました。しかし、もはや彼らは奥州の武家として独自の立場をとっており、決して鎌倉公方の傘下に入る気はありませんでした。そのため、鎌倉公方による奥州支配は、ほんの一部の地域に限定されたものでした。

応永の乱
足利満兼は弟たちを派遣して、白河の関をわずかに越えた地域を鎌倉公方支配下に組み入れたことに満足し、己れの力を過信したのです。関東が、鎌倉公方支配下で平穏であるのは、祖父基氏が死に物狂いで軍事行動を続け、関東平定に力を尽くしたおかげです。鎌倉府の政治体制が整い、関東八家と呼ばれる有力な武家鎌倉公方に従っているのは、父氏満のもとで働いた関東管領上杉氏の努力によるものです。しかし、浅はかな足利満兼は己れの力で関東の支配者になったと思い違いをし、京都の室町将軍と肩を並べた気でいるのでした。
満兼もまた、父氏満と同じように室町将軍の座に就き天下に号令したいという野望を抱きました。これは、足利尊氏の血を引く者の宿命なのでしょうか。そして、満兼の時代にもまた、西国では鎌倉公方の野心に火をつけるような事件が起きたのです。西国の太守大内義弘が、鎌倉公方足利満兼と手を結び、謀反を起こして室町幕府を倒そうという話を持ちかけてきたのです。
大内義弘は、1391年(明徳二)明徳の乱山名氏清の討伐を将軍義満から命じられました。大内義弘は、京都に迫ってきた氏清の軍勢と戦い、これを滅ぼしました。それまで山陰・山陽の十一ヵ国の守護を兼務し繁栄してきた山名氏は、明徳の乱に敗北し三ヵ国の守護に落ちぶれ衰退したのです。一方、明徳の乱で功績をあげた大内義弘は、周防、長門、石見、豊前、和泉、紀伊の六ヵ国の守護となり、瀬戸内海の海上交通において大きな影響力を持つ存在となりました。また、大内氏は祖先が朝鮮半島の出身であるとして室町幕府と朝鮮の外交を仲介する一方、大内氏自身も朝鮮との交易を営み莫大な富を得ていたのです。
西国で勢力を拡大してきた大内義弘は、足利義満にとって目障りな存在でした。1394年義満は将軍職を息子の義持に譲り、自らは法皇となって日本国王のごとく振る舞いはじめていました。義満は日本国王として明国や朝鮮と外交関係を結ぶことを目指していました。それを実現させるためには、大内氏が握っている瀬戸内海の海上交通権を奪い、大内氏と朝鮮の間で行われている交易をやめさせる必要があったのです。そのため、足利義満は大内義弘に対して強い圧力をかけるようになったのです。
義満の圧力に対抗するため、大内義弘は謀反を起こすことを決意したのです。東国の支配者である鎌倉公方足利満兼と手を結び、東西から京都の義満を挟み撃ちすることで室町幕府を倒そうという計画を立てたのです。しかし、1399年に大内義弘が起こした反乱は、足利義満の直轄軍によってあっけなく鎮圧されました。それは、足利満兼が関東の軍勢を動かす前の出来事でした。そのため、足利満兼の謀反加担は未遂に終わったのです。この反乱は、「応永の乱」と呼ばれています。

応永の乱の際、将軍義満は、関東に不穏な動きがあったことを察知していました。義満は上杉憲定に書状を出して足利満兼の真意を探っています。義満の問い合わせに対して、上杉憲定は満兼に謀反を起こす気など毛頭無いとの返事を返しています。しかし、義満は満兼に対する疑いを晴らしてはおらず、その後、奥州の伊達氏を使って鎌倉公方を牽制する動きを取るのです。
陸奥国の伊達氏は、源頼朝公より頂いた先祖伝来の土地を守るため、室町幕府の呼びかけに応じて鎌倉公方に対する反乱を企てたのです。それより少し前に、満兼は伊達氏が所有する土地の一部を鎌倉公方に献上するように要求していたのです。この尊大な要求が、伊達氏ら奥州の武家の反発を招いたのです。これに対して足利満兼は、1400年3月上杉氏憲に命令を下し、伊達氏など奥州の反鎌倉勢力の討伐に乗り出しました。上杉氏憲は苦戦しながらも、従来からも足利氏に協力的であった白河結城氏の力を借りて、なんとか反鎌倉勢力の討伐に成功したのでした。
しかし、鎌倉公方の奥州支配は依然として南部陸奥国の一角に限定されており、それ以上は勢力圏を拡大することができませんでした。稲村御所と篠川御所に派遣された足利満貞と足利満直は、兄満兼のために力を尽くしたと云われています。ところが、四代鎌倉公方足利持氏の代になると、満貞と満直は室町幕府と手を結び、鎌倉公方に対して抵抗する勢力に変化するのである。結局、足利満兼が試みた奥州支配は、後の鎌倉公方にとって足かせとなるのです。

足利満兼が奥州支配に四苦八苦していたのとは対照的に、足利義満は日本国の支配者として着実に歩みを進めていました。義満が専制体制を築き始めたのは、細川頼之が失脚した康暦の政変の後のことです。1380年京都室町に花の御所が完成し、足利氏の政権は室町幕府と呼ばれるようになりました。義満は専制体制を確立するために有力守護や武将に干渉して、彼らを互いに争わせることで弱体化させていったのです。義満は、斯波、細川、山名、大内、今川などの勢力を押さえ込むことに成功し、これらの勢力が支配していた瀬戸内海から九州に至る海上交通権を手中に収めました。こうして、明国や朝鮮との交易を独占することが可能になったのです。
また、天皇家にも干渉し、官位の叙任権や僧侶、神官の位階の叙任権をも掌握することによって、貴族や寺社に対する支配権も手にしたのです。義満は、明国に朝貢することで明皇帝から日本国王として認知されました。義満は日本国王としての権威によって自分の息子を親王とし、新たな皇族として朝廷を開く寸前までこぎつけていました。しかし、1408年義満は急死し、義満の皇位簒奪計画はここに潰えたのでした。
足利義満が亡くなった翌年、三代鎌倉公方足利満兼もこの世を去ります。享年32歳。将軍になることを夢見た満兼でしたが、鎌倉公方として満兼が残した実績と、室町将軍足利義満が残した実績との間には実に大きな差があります。義満は有力な守護大名の勢力を削ぎ、近畿から九州を経て海外へ繋がる交易路を確保し、海外交易を独占しました。さらに古代から日本を支配してきた皇族・貴族を押さえつけ、新たな朝廷を開く寸前までいっていたのです。その壮大なスケールの業績に比較して、足利満兼の実績はなんと小さいことでしょう。それにもかかわらず、無謀にも足利満兼足利義満に挑もうとしたのです。その行為はまさに、井の中の蛙でした。

東の将軍 鎌倉公方 その7ー 康暦の政変と足利氏満

1367年に急死した足利基氏の跡を継いで二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男氏満でしたが、この時まだ9歳でした。幼い関東公方にとって幸いだったのは、父基氏が命を懸けて関東平定に邁進したことで、氏満の代になると関東の軍事情勢が落ち着いていたことです。さらに、氏満を補佐する関東管領には上杉能憲と上杉朝房が就いていました。両上杉の管領は、鎌倉府の政治体制を整備し政所、侍所、問注所などの行政期間を設置する一方、評定奉行、御所奉行、陣奉行など奉行衆も定められていました。こうして、鎌倉府は小さいながらも幕府のような機関として存在し、足利基氏を祖とする関東足利氏が関東を支配する体制が整ってきたのです。

小山義政の反乱
関東は、氏満の代になって安定期に入っていましたが、合戦がなかったわけではありません。1380年には小山氏の反乱が起きています。小山氏は、藤原秀郷の末裔と云われており、下野国小山荘を中心にして勢力を誇っていた武家です。下野国には、小山氏のほかにも宇都宮社務職を司る宇都宮氏が有力者として存在し、両者は下野国の支配権をめぐって対立していました。
足利氏満は、小山氏と宇都宮氏の争いの調停に乗り出していましたが、小山義政は氏満の調停を無視し、宇都宮基綱を攻め滅ぼしてしまいました。鎌倉公方としての面目をつぶされた氏満は、小山義政を討伐するため関東八ヵ国に軍勢催促を出し、自ら軍勢を率いて下野国へ進軍しました。下野国に出陣した氏満が、小山氏の祇園城を攻撃すると、小山義政は一旦は降伏しました。しかし、翌年になると再び反乱を起こし、またしても氏満から討伐されました。結局、小山義政は三度反乱を起こし、三度目の1832年に自害したのです。このとき、小山義政の嫡男若犬丸は、難を逃れて奥州へ走り、陸奥国の田村氏に保護されたのです。
その後、若犬丸は、田村氏の支援を受けて下野国へ舞い戻り、たびたび氏満に反抗しました。足利氏満は、若犬丸に対しても自ら軍勢を率いて討伐に向かいました。ところが、若犬丸は、氏満が攻めて来ると陸奥へ逃げ込み、また様子を窺っては関東に侵入するということを何度も繰り返しました。若犬丸の反抗は実に17年間に及びましたが、1396年会津の芦名氏に攻められて、ついに滅びました。これによって、小山氏は一旦滅亡したのですが、鎌倉公方は、名門小山氏の家門が途絶えることを惜しんで、小山氏の流れを汲む結城氏の子息を立てて小山氏を再興したのです。
鎌倉公方によって再興された小山氏は、その恩を忘れることはなく名門武家として鎌倉公方を支えるようになりました。また、小山氏をはじめとして、千葉氏、長沼氏、結城氏、佐竹氏、小田氏、宇都宮氏、那須氏は関東八家と呼ばれ、関東の有力武家として特別な存在となり、鎌倉公方を中心とした武家の支配体制が確立したのです。

康暦の政変
関東八家が明確な体制を整えたのは、足利氏満の死後のようですが、氏満が健在の頃から関東武士の主だった氏族は、鎌倉公方に恭順する姿勢をみせるようになっていました。名実ともに関東の支配者となった足利氏満は、父基氏の資質を受け継いだ聡明な関東公方であると目されていましたが、その心の内に密やかな野望を宿していました。それは、京都の将軍の座を奪い、天下を支配したいという野望でした。
室町幕府の将軍足利義満と、鎌倉公方足利氏満は、どちらも室町幕府創始者である足利尊氏の孫であり、年齢は将軍義満のほうがひとつ年上でした。氏満にしてみれば、尊氏の孫である自分が将軍になってもおかしくないという考えを持っていたのでしょう。ましてや、氏満は関東の支配体制を確立し、関東武士たちから将軍のように崇められているのです。氏満の心に野心が芽生えるのは、当然のことだったのかもしれません。
1378年京都において、足利氏満の野心に火をつける事件が起きました。将軍義満を補佐する管領細川頼之に対して、斯波義将、土岐頼康、京極高秀など室町幕府を支える有力守護大名らが罷免要求を出してきたのです。細川頼之は、足利義満が三代将軍の座に就いて以来、管領として義満を支えてきた人物でした。頼之は、室町幕府の支配体制を強化するため南禅寺建仁寺など京都五山に対する統制を強める一方、奈良興福寺比叡山延暦寺などの南都北嶺に対しても圧力をかけたので、畿内の大寺院や仏教教団から反発を受けていました。また、頼之は守護大名家督相続に干渉したり、細川一族を重用したりしたため武家からの反発も受けていたのです。特に斯波義将は、細川頼之管領職を奪われていたことから、頼之を陥れる機会を窺っていたのでした。
有力守護大名から出てきた細川頼之に対する罷免要求を受けて、将軍足利義満は、室町幕府の安定を第一に考えて、細川頼之管領職を剥奪し、斯波義将管領職に据える決定を下しました。この管領職交代の事件を「康暦の政変」と言います。管領職から降ろされた細川頼之が、将軍に対して抵抗する姿勢を見せたので、将軍義満は頼之討伐の為に、軍勢催促を出しました。
この時、鎌倉公方足利氏満は、軍勢催促に乗じて関東の軍勢を率いて京都へ進軍し、将軍義満を討ち果たして自らが将軍の座に就くという野望を抱いたのです。氏満の謀略に気がついた関東管領上杉憲春は、氏満の無謀な計略を諌めたのですが、氏満はこれを聞き入れませんでした。氏満を説得できなかった憲春は、責任を取って自害し、自らの死をもって氏満を諌めたのです。足利氏満は、上杉憲春の自害によって、ようやく室町将軍の座を奪取するという野望をあきらめたのです。
しかし、関東管領の自害という異常な事態は、すぐさま京都の将軍義満に伝わったのです。義満は憲春の自害の裏には、鎌倉公方の野望があったことを見抜きました。そのため、これ以降将軍義満は氏満に対して警戒の目を向けるようになり、両者は対立するようになりました。この対立は、義満と氏満の時代だけにとどまらず、世代を越えて継続していくことになるのです。

東の将軍 鎌倉公方 その6ー 平一揆の反乱と上杉氏

基氏の跡を継ぎ二代鎌倉公方の座に就いたのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき氏満はまだ9歳でしたが、京都の将軍義詮は氏満が鎌倉公方を継承することを容認したのです。この事実によって、鎌倉公方足利基氏の子孫が代々世襲していくことになるのです。

一揆の反乱
幼い氏満が鎌倉公方に就任するやいなや、関東では平一揆の反乱が起きました。「一揆」といえば、悪代官の圧政に耐えかねた百姓たちが鋤や鍬を手にして蜂起し、代官所を襲撃するというイメージがまず頭に思い浮かびますが、これは「土一揆」と呼ばれるものです。「一揆」とは本来「ひとりのリーダーが存在せずに、多対多の関係のなかで心をひとつにする」ということをいいます。これを「一味同心」とも呼びますが、この「一味同心」こそが中世日本における平等の考え方なのです。
「平一揆」とは、中小の国人や地侍が共通の利害関係のために一味同心した集団のことです。彼らのような一揆は、室町時代から戦国時代において独立した軍事勢力として存在し、その時々の利害関係に応じて合戦に参加したのです。合戦の際に、一揆の軍勢は旗や母衣などに赤や白などの共通の色をあしらい、仲間意識を高めていたそうです。武蔵野合戦で足利尊氏の味方になった平一揆の軍勢は、全身を赤で統一して合戦にのぞみ、新田氏の軍勢を打ち負かしました。
その平一揆を構成していたのは、どのような人々だったのでしょうか?その人々とは、平一揆という呼び方からも想像できるように、桓武平氏の血を引く坂東武者の一族でした。一揆の中核をなしていたのは、秩父平氏の名族である河越氏でした。河越氏は、平安時代に関東で武勇の誉れが高かった平良文の孫である平将常を祖とする一族です。河越氏は、平安時代の終わりころから室町時代の前半にかけて、武蔵国秩父地方に大きな勢力を持っていた武家でした。鎌倉幕府草創期には、源頼朝重臣として活躍した一族です。平一揆には、河越氏の他にも、高坂氏、江戸氏、古屋氏、土肥氏、土屋氏などが加わっていますが、いずれの一族も平良文の子孫でした。その点では、平一揆は血族的なつながりを持っており、一般的な国人一揆とはやや性格の異なる集団であったかもしれません。
一揆は、観応の擾乱新田義興との合戦においては、常に足利尊氏の味方について戦ってきました。基氏が関東の南朝方を牽制するために在陣していた入間川陣は、平一揆の勢力圏の中に位置しており、入間川陣の防衛は平一揆の軍事力によってまかなわれていたのです。基氏の存命中は、平一揆鎌倉公方の関係は良好であったのです。
その良好な関係がくずれ、平一揆鎌倉公方に反旗を翻したのは何故でしょうか?その理由は上杉憲顕が復活してきたことに関係があるのです。上杉憲顕は、足利直義の近臣として仕えた武将です。観応の擾乱の際には、憲顕は直義派に与していました。直義の死後も、武蔵野合戦において憲顕は新田氏の軍勢に参陣しています。つまり、上杉憲顕は、平一揆にとっては常に戦い続けてきた敵なのです。
その敵である上杉憲顕は、失脚し信濃国に逃れていました。しかし、基氏が鎌倉公方になって勢力を拡大してくると、上杉憲顕は徐々に復活してくるのです。基氏は、憲顕の政治手腕を高く評価していました。鎌倉公方が安定して関東を支配するためには、上杉憲顕の力がどうしても必要だったのです。また、将軍義詮も上杉憲顕の復活を支持していました。そのため、上杉憲顕は、1363年に関東管領に返り咲くことができたのです。
しかし、その一方で、これまで鎌倉の足利氏に味方し、その軍事力によって鎌倉公方に大きな貢献をしてきた平一揆の存在に陰りが生じてきたのです。基氏が鎌倉公方に就任した当初は、河越氏の首領である河越直重相模国守護に就き、同じく平一揆の主力である高坂氏も伊豆国守護に付くなど、平一揆は全盛期を誇っていました。しかし、基氏の関東支配が安定してくると上杉憲顕が台頭し、平一揆の勢力は衰えてきました。河越直重相模国守護を解任され、その後に相模国守護に就いたのは上杉憲顕を支持する三浦高通りでした。こうして、平一揆上杉憲顕の復活にともなって冷遇されるようになりました。平一揆は次第に不満を蓄積しその怒りの矛先を上杉憲顕に向けたのです。
1367年二代将軍足利義詮がこの世を去りました。義詮の跡を継ぎ三代将軍となったのは義詮の嫡男である足利義満です。翌1368年に義満の元服の儀が催された時、幼い鎌倉公方足利氏満の名代として上洛したのは関東管領上杉憲顕でした。
一揆は、憲顕の鎌倉不在をついて武蔵国で反乱を起こしました。平一揆謀反の急報を受けた上杉憲顕は、急いで鎌倉へ戻り、反乱の鎮圧にあたりました。足利幕府の支持を受けている憲顕には多くの味方がつき、平一揆は劣勢に陥りました。追い詰められた平一揆河越直重は、河越館に立て籠り抵抗しましたが、勢力に勝る上杉憲顕に敗れたのです。平一揆の反乱に呼応して蜂起した下野国の宇都宮氏綱も、上杉憲顕によって討伐されました。

東武者の衰退
鎌倉時代に編纂された説話集「今昔物語」には、坂東武者の説話として平良文(たいらの よしふみ)と源宛(みなもとの あつる)の一騎討ちの話が書かれています。武勇を競い合う彼らはある時戦うことになりますが、軍勢同士の戦いではなく、大将同士の一騎討ちをしようということになります。平良文と源宛は両者とも武芸に秀でた武者であったので、何度も馬上から弓矢で射る「馬上騎射」によって一騎討ちを試みましたが、互いに巧みに相手の矢をかわしたので決着がつきませんでした。結局、両者は互いの健闘を称えあい、戦いは終わったということです。平安時代の関東では、このような牧歌的な戦いが行われていました。このような戦いを繰り返して、坂東武者は互いに競い合いながら「兵の道」(つわもののみち)を極めていったのです。
河越氏は、今昔物語にも登場する武勇の誉れ高い坂東武者の血を引く名門武家でした。源頼朝が挙兵した時には、一度は頼朝に敵対したものの、その後は頼朝に恭順し、源氏方の重臣として源平合戦でも活躍したのです。その武家の名門河越氏は、歴史の舞台から姿を消していったのです。
河越氏のような坂東武者が衰退していった背景にあるのは、武士の合戦の仕方に大きな変化があったことです。前述した平良文と源宛の一騎討ちのように、坂東武者の戦い方は、馬上騎射することが基本でした。最近、日本刀がブームになっていますが、日本刀が主要な武器として合戦に用いられることはほとんどなかったそうです。日本刀は神聖なものとして扱われ、武士の権威の象徴として存在していたそうです。
源平合戦の頃、武士は馬上騎射による一騎討ちで戦っていましたが、鎌倉時代になるとその戦法に大きな変化があったと考えられます。武士の戦法の変化に大きな影響を与えたのが、元寇でした。鎌倉時代中期に北部九州に襲来した蒙古軍は、集団戦法を用いて日本の武士を苦戦させました。歴史の教科書にも載っている「蒙古襲来絵巻」の一場面では、九州の武士竹崎季長が馬上騎射して蒙古軍と戦っている様子が描かれています。このころまで日本の武士は馬上騎射して戦っていたという証拠です。しかし、蒙古軍の集団戦法が有効であったことから、その後の日本では戦法の変化が起きたと考えられるのです。
建武中興の時に活躍した楠木正成が用いた戦法は、楠木戦法と言われるように従来の武士の戦法とは異質の戦い方でした。楠木正成が得意とした戦法は、千早城や赤坂城に代表されるような山城を築き、その城を拠点にしたゲリラ戦でした。戦場は山岳地帯となるので、武士が得意な馬上騎射は通用しないのです。砦にこもった楠木軍は、石や丸太などを敵兵めがけて落とすことで攻撃したのです。楠木正成が従来の武士らしい戦法にこだわらず、奇想天外な戦法を使うことができたのは、楠木正成が武士ではなく「悪党」と呼ばれる人々の一員だったからです。
「悪党」とは、中世日本に出現した武装集団で、源平藤橘の姓を名乗るような者はいませんでした。「悪党」は為政者の支配体制に従わず、武力による無法な行いをしていたのです。このような悪党であればこそ、馬上騎射する武士の戦い方にこだわることなく臨機応変にゲリラ戦を展開したり、敵を欺く謀略を実行することができたのです。足利尊氏楠木正成に苦戦したのも、このような背景があったのです。
このような、悪党が増加したことで戦闘のプロとしての武士の役割は減少したと考えられます。広大な原野を戦場にした騎馬武者同士の一騎討ちが減少したことで、馬上騎射する武士の特殊能力はあまり必要とされなくなってきました。武士には戦闘を行う能力だけでははく、権力者の支配体制を維持するための行政能力や、領国を経営する能力が求められるようになってきたのです。この、時代の変化に対応できた上杉氏は新たな時代の担い手として台頭し、時代の変化に対応できなかった古き名門武家は衰退していったのです。

関東管領 上杉氏
一揆の反乱が鎮圧され河越氏が滅亡したことは、関東の歴史にとって大きな転換点だと思います。平安時代に関東に下向し土着した桓武平氏の流れを汲む坂東武者たちは落日の時を迎え、次の時代を担う新たな武士たちが台頭してきました。その代表格が上杉氏です。平一揆の反乱を鎮圧した上杉憲顕は、1368年に亡くなりました。その跡を継いで関東管領職に就いたのは、憲顕の息子の能憲と甥の朝房でした。こののち、関東管領職は上杉氏が独占し、関東の歴史に大きな影響を与えることになります。そこで、上杉氏とは如何なる武士であるのか、ここでまとめておきます。
上杉氏は、もともと京都の公家で、当初は藤原氏と名乗っていました。1252年藤原重房は、宗尊親王に従って鎌倉に下向しました。宗尊親王は皇族初の将軍として鎌倉幕府の六代将軍に就任したのです。この時、上杉重房は、丹波国上杉荘を領地として賜ったので、これをきっかけに上杉氏と名乗るようになったのです。ところが、将軍となった宗尊親王は、謀反の疑いをかけられ将軍職を廃されて京都に戻されたのです。しかし、上杉重房は、そのまま鎌倉にとどまることにしました。
重房の娘は、足利氏の侍女となり、足利頼氏とのあいだに家時が生まれました。この家時は、足利尊氏の祖父にあたります。さらに、家時の息子貞氏は上杉重房の孫清子を妻に迎えました。この貞氏と清子のあいだに生まれたのが尊氏と直義なのです。こうして、上杉氏は足利氏の親戚となることで、足利氏から重用され、徐々に力をつけてきたのです。そして、上杉憲顕足利直義の側近として活躍したことが、上杉氏の家運を開いていくことになりました。もともと公家の出である上杉氏には、行政の担い手としての素養が代々受け継がれていたのかもしれません。
上杉氏は、いくつかの家にわかれて分立していましたが、憲顕の山内上杉家と甥の朝房がいる犬懸上杉家が繁栄し、両上杉と呼ばれていました。やがて、犬懸上杉家は没落し、山内上杉家関東管領職を独占していくようになります。関東管領武蔵国守護を兼務することが慣例となっていたので、山内上杉家関東管領にして武蔵国守護・上野国守護を兼務するという大きな勢力に発展したのです。この山内上杉家に従属する形で、扇谷上杉家が徐々に勢力を伸ばしてきますが、それは後の話です。ちなみに、上杉謙信は、上杉氏と血縁関係にあるのではありません。越後国守護代であった長尾景虎が上杉姓を名乗るようになったのは、山内上杉家上杉憲政から上杉の姓を譲られたことによるのです。

東の将軍 鎌倉公方 その5ー 基氏関東平定に乗り出す

新田義興の暗殺
1358年足利尊氏は京都で他界しました。享年54歳でした。尊氏が亡くなると南朝方の動きが再び活発になりました。尊氏に敗れ越後へ逃れていた新田義興が、再び関東へ攻め込む準備を始めたのです。義興が攻め込んでくることを恐れた鎌倉公方足利基氏関東管領畠山国清は、策略をめぐらし義興を騙し討ちにすることにしました。この顛末は、東京都大田区矢口にある新田神社の縁起に詳しく説明されています。
新田神社縁起によれば、畠山国清は竹沢右京亮と江戸遠江守を招いて、二人に新田義興の味方を装って義興を誘い出し、暗殺するように命じたということです。さっそく、二人は少将局という美女を義興に差し出して接近を図り、義興の味方になりすました。竹沢右京亮は、足利氏に恨みがあるので、その恨みをはらすためにいっしょに鎌倉に攻め込み、基氏を倒そうという偽りの計画に新田義興を誘い出したのです。
1358年10月10日新田義興は江戸遠江守と共に鎌倉へ向かって発進しました。やがて多摩川の矢口の渡しにさしかかると、義興一行は船で対岸へ渡ることになりました。この渡し船こそが義興を暗殺するためのワナだったのです。義興とその家臣が乗り込んだ船には事前に仕掛けが施されていました。江戸氏の手先である渡し船の船頭は、義興の乘った船が川の中ほどにくると、船底に仕掛けていた穴を開けて自らは川へ飛び込み逃げ出したのです。船はみるみるうちに水が入り沈み始めました。 さらに、川の両岸には江戸氏の伏兵が待ち伏せており、沈みかけた船に乘った義興主従に対して、一斉に矢を射かけたのです。謀られたことに気がついた新田義興は無念の形相で腹を切り、家臣たちは互いに刺し違えて自害したのです。こうして、新田義興は暗殺されました。
ところが、その後新田義興は怨霊となって江戸氏や船頭に祟りをなしたというのです。船を沈めた船頭は溺死し、江戸遠江守は落馬して寝込み、七日間布団の上で溺れるしぐさをしながら狂い死にしたそうです。入間川陣の近くでは、義興の怨霊がさかんに落雷を起こし、人々を恐れさせました。また、矢口の渡し付近では、夜な夜な義興の怨霊が火車となって現れ人々を悩ませたということです。そこで、多摩川近隣の村人たちが、義興の怨霊を鎮めるために墳墓を築き祠を建てて新田大明神として崇め奉ったところ、ようやく怨霊の祟りはおさまったと伝わっています。
新田義興の暗殺を実行し、その後不可解な死を遂げた江戸氏は、武士としての評判を落としてしまいました。鎌倉時代には、源頼朝重臣であり武蔵国南部一帯を支配していた江戸氏はその後衰退していきました。

畠山国清の失脚
1359年には、京都周辺でも南朝方に不穏な動きが現れました。尊氏の跡を継いで二代将軍となった足利義詮は、南朝方の機先を制し、河内国にある南朝方の拠点へ攻撃を仕掛けることにしたのです。この時、鎌倉公方足利基氏は、関東の軍勢を組織し、義詮に援軍を送りました。基氏の取った行動は、畠山国清の進言によるものでした。
このころ世上では、尊氏亡き後の将軍の座を巡り、弟の基氏が兄の義詮に対して謀反を企てるのではないかという憶測が盛んに飛び交っていたのです。畠山国清は、鎌倉から京都へ援軍を送ることで基氏には兄に背く意志などないことを示すべきだと提案したのです。そこで、基氏は畠山国清を大将とする援軍を編成し、兄のもとへ派遣したのです。
関東の援軍を得た義詮は、河内国南朝方を勢力を攻めたて、敵方を窮地に追い込んだのです。畿内への遠征が成功したことで、畠山国清は増長しました。国清は関東へ戻ると、高慢な振る舞いが目立つようになったのです。畿内へ遠征中のこと、遠征が長引いたので関東武士のなかには国清に無断で帰国するものがいました。国清はこのような武士たちに対して厳しい処分を下し、領地を取り上げたりしたのです。関東の武士たちは、国清の横暴な仕打ちに怒り、鎌倉公方足利基氏に対して、畠山国清の罷免を要求したのです。基氏は関東武士の支持を失うことを危惧し、武士たちの要求を受け入れて国清を関東管領の地位から降ろし、鎌倉から追放処分にしました。
鎌倉を追われた国清は、領国の伊豆へ逃れると修善寺に城郭を築いて防備を固めました。国清の思惑では、関東管領時代の権威は未だ衰えておらず、多くの武士たちが伊豆へ馳せ参じてくるはずでした。しかし、現実に国清のもとに集まった勢力はたった五百騎でした。一方、足利基氏が国清討伐のために軍勢催促を起こすと、関東の有力武士たちは続々と基氏のもとに集まってきました。基氏が討伐軍を従えて伊豆へ出陣したのは1362年8月のことです。基氏に代わって入間川陣の留守を預かったのは、基氏の嫡男である氏満でした。このとき、入間川陣の警固についたのは平一揆の高坂氏です。
畠山国清修善寺城にこもり抵抗を試みましたが、基氏の大軍勢にかこまれては、なす術もありませんでした。同年9月には修善寺城の兵糧が底をつき、国清はあえなく基氏に降参しました。その後、国清は逃亡しましたが奈良付近まで逃げて惨めな最後を遂げたということです。
鎌倉公方足利基氏は、父尊氏が亡くなった後の最初の戦いで勝利を挙げることができました。この戦いで勝利を得たことは、基氏にとって非常に大きな出来事だったと思います。自分が戦いに勝つ強い鎌倉公方であることを関東の武士達に示すことができたのです。この勝利によって、足利基氏は源氏の棟梁として坂東武者に認められたのです。

基氏の関東平定
畠山国清が失脚した後、基氏は上杉憲顕復権させることに力を注ぎます。まず手始めに、1362年に憲顕は越後国守護に就いています。これは、将軍義詮の権限によるはからいでもありました。義詮もまた、鎌倉の主であったころは憲顕の補佐を受けており、憲顕にはひとかたならぬ恩義を感じていたのです。
しかし、関東武士のなかには上杉憲顕の鎌倉府復帰に対して強く反発するものもいました。下野国の宇都宮氏綱は、もともと越後国守護でしたが、上杉憲顕が復活したことで越後国守護の座を追われていました。そのことで憲顕に遺恨のある氏綱は、芳賀氏とかたらって1363年に反乱を起こしました。足利基氏は素早く対応し、宇都宮氏綱の討伐に動きました。この時、基氏軍の主力となったのは、やはり平一揆の軍勢でした。平一揆の活躍で、基氏軍はまず武蔵国岩殿で芳賀氏を倒し、次いで下野国小山で宇都宮氏綱を降伏させたのです。さらに翌1364年には、基氏は世良田氏の討伐に動いており、精力的に関東平定のために軍事行動を続けていました。
関東平定を成し遂げた基氏の活躍は、朝廷からも認めらました。1364年4月足利基氏従三位に除せられ上級貴族の仲間入りを果たし、鎌倉公方の地位を確固たるものとしたのです。まさに、基氏の人生は充実し前途は洋々としていたのです。

ところが、基氏を突然の不幸が襲います。1367年4月、はやり病にかかった基氏は10日間ほど寝込んだのち息を引き取ったのです。享年28歳、9歳の時に鎌倉へ下向し鎌倉の主となった基氏は、観応の擾乱に巻き込まれるという過酷な運命に遭遇しました。父と叔父の争いを目の当たりにした少年基氏の胸中はいかばかりであったでしょうか。しかし、基氏は過酷な運命に耐え、敵対勢力を倒し、清和源氏にとっての聖地である鎌倉を守り続けました。初代鎌倉公方となった基氏は、少年の頃から関東平定に力を尽くし、絶えず戦陣に身を置いてきたのです。
京都で誕生したばかりの足利幕府は、まだ不安定であり、敵対する南朝方の勢力を押さえるために、鎌倉公方は関東武士の協力を得る必要がありました。そのために、鎌倉公方は、本来なら将軍しか持つことのできない「本領安堵」と「新恩給与」という二つの権限を持つことができたのです。この権限を持ったことで、鎌倉公方は関東の支配者として
君臨し関東武士との間に主従関係を結ぶことができたのです。
しかし、鎌倉公方が関東十ヵ国の武士たちと主従関係を結ぶことは、京都にいる将軍にとっては見過ごすことのできない脅威となっていたでしょう。鎌倉公方は関東武士団という強力な軍事力を手に入れることができるのです。鎌倉公方がその軍事力を行使して、将軍の座を要求してくれば一大事です。ましてや、義詮と基氏の兄弟は、父尊氏と叔父直義の権力争いを目の当たりにしながら成長してきたのです。大人になった義詮が、基氏に対して謀反の疑いを持つのは必然的であったのです。
そのため、基氏は絶えず足利将軍の猜疑心に気を配り続けていました。また、基氏は関東内部にも常に目を光らせ、敵対勢力を押さえ込む必要がありました。こうした基氏の生き様は、まさにその後の鎌倉公方のあり方を暗示しているようでした。鎌倉公方は内憂外患に悩まされ続けながらも、およそ百年間関東十ヵ国を支配する将軍のような存在として鎌倉に君臨しますが、その土台を築いたのが、初代鎌倉公方である足利基氏なのです。
こうして、基氏の生涯を振り返ると、基氏の誠実なイメージが浮かび上がってくると私は思います。基氏は、鎌倉府の力を安定させるために一時も休まずに働き続けています。その姿からは、新田義興を矢口の渡しで騙し討ちにしたような卑怯なイメージはわいてきません。おそらく、基氏は新田義興の暗殺に関して、畠山国清に対処を任せ、基氏自身は暗殺計画に深く関与していないのではないかと思うのです。私がそのように考える理由は、基氏の死後、鎌倉五山の僧侶たちが基氏の死を悼み、手厚い供養をほどこしたということが伝わっているからです。足利基氏は、関東平定に力を尽くした武家の棟梁であると同時に、庶民に対して心を向け善政を施した為政者でもありました。