歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

東の将軍 鎌倉公方 その4ー 基氏、将軍の力を手に入れる

前回のお話で、ようやく初代鎌倉公方足利基氏が登場するところまでたどり着きました。少し遠回りをしましたが、鎌倉公方がいかなるものであるのかを知るためには避けては通れない道なのです。歴史を学ぶことは、暗記ではなく過去の壮大な物語を理解することだと私は思います。我々日本人が、どのような道をたどって今に至っているのかを知ることが大切なのです。そして、過去の歴史を未来に向かう道標として活用することが、さらに大切なことです。

ちょっと脇道にそれてしまいました。鎌倉公方のお話にもどりますが、基氏の話に入る前に、もう少しだけ尊氏と直義の争い(観応の擾乱)について言及しなければなりません。
足利直義は尊氏の息子直冬を養子にしていました。1349年まだ足利政権の政治統率者であった直義は直冬を山陰・山陽地方を統括する中国探題として備後国の鞆に派遣していました。しかし、養父直義が失脚すると、直冬は鞆を去り九州へ逃れました。そのころ、九州では小弐氏(しょうにし)が勢力を誇っていました。
もともと小弐氏は武藤氏と名乗っており関東の武蔵国の武士でした。武藤氏は源頼朝が挙兵した際に頼朝のもとへ馳せ参じ、頼朝に重用された武士でした。そして頼朝の命によって九州へ下向し太宰小弐という役職に就いたのです。太宰小弐とは太宰府の長官を補佐する役職でした。やがて、武藤氏は九州に土着し小弐氏と称するようになったのです。武勇に優れた小弐氏は肥前筑前豊前支配下に置く北部九州きっての有力な武将でした。足利直冬は幸運にも小弐氏に庇護され勢力を回復することができたのです。
直義派の直冬が九州で勢力を増大させたことは、足利尊氏にとって大きな脅威となりました。尊氏は直冬討伐を決意し、高師直と共に軍勢を率いて西へ向かったのです。1351年尊氏が直冬討伐のため西へ向かい京都の守りが手薄になった隙をついて直義派の武将が畿内で挙兵しました。この挙兵は成功し直義は京都を手中に収めたのです。
しかし、尊氏は九州への遠征を中止し、すぐさま京都へ戻ってきました。尊氏軍の反撃を受けた直義は、京都を捨て鎌倉の基氏を頼って関東へ逃げ込んだのです。
鎌倉公方足利基氏は直義を快く受け入れました。基氏は幼い頃に直義のもとに預けられたいたこともあり、直義に大きな信頼を寄せていました。また基氏の補佐役である関東管領上杉憲顕も、直義の政治姿勢に好感をもっており直義の味方になってくれました。こうして鎌倉府は直義派として足利尊氏と対立することになったのです。
尊氏は直義を討伐すべく軍勢を率いて関東へ出陣することにしましたが、後顧の憂いをなくすために南朝方と急遽和睦を結ぶことにしました。この和睦のことを「正平一統」と呼びます。尊氏は外部の敵は後回しにして内部の敵を倒すことを優先したのです。
関東へ向かった尊氏ですが、鎌倉へ接近することができずに駿河国の薩埵山に陣をしきました。駿河以東の国々では直義に味方する武士が大勢いたので、さすがの足利尊氏といえども鎌倉へ一気に攻め込むことができなかったのです。このため、尊氏の軍勢は一月ほど薩埵山に陣をしいたまま動くことができませんでした。
ところが、尊氏に味方する宇都宮・小山の大軍勢が援軍に駆けつけるとの情報が流れると、直義派の軍勢に動揺が生じ、戦う前に直義軍の兵士が逃亡を始めたのです。このため、直義は尊氏に降伏せざるを得ませんでした。直義は尊氏に捕らえられ鎌倉で監視されていましたが、1352年2月に死去しました。一説には尊氏に毒殺されたとも言われています。
この時、父親と叔父の不和を嘆いていた基氏は鎌倉を離れており安房国に引き込もっていたそうです。世を疎んじていた基氏ですが、安房を訪れた尊氏の使者に説得され鎌倉に戻りました。この年足利基氏元服し、左馬頭に任じられ従五位下に除せられました。

足利直義が死去し足利氏の内部抗争が終息すると、正平一統は破れ尊氏と南朝方は再び争いを開始しました。1352年2月南朝新田義貞の次男である新田義興に対して足利尊氏の追討を命じました。義興は弟の新田義宗や従兄弟の脇屋義治ともとに上野国で挙兵しました。2月8日上野国を発進した新田義興の軍勢はわずか800騎でした。ところが、南朝から征夷大将軍に任じられた宗良親王が新田軍に迎え入れられると、関東武士の多くが新田勢が有利と思い込み、次々と味方に加わり始め、新田軍は大軍勢に膨れ上がりました。また、観応の擾乱の際に直義に味方して敗れた上杉憲顕も、信濃国から出てきて新田軍に加わっていました。
直義の死後も鎌倉にとどまっていた足利尊氏は、鎌倉で大軍勢を迎え撃つのは不利と判断し、2月17日に鎌倉を離れ武蔵国の石浜(現在の浅草付近)に移動しました。尊氏が去ったあとの鎌倉を新田義興が占拠しここを本拠地としました。こののち両軍は武蔵国の各地で激戦を繰り広げるので、この戦いは武蔵野合戦と呼ばれています。
2月20日両軍が最初に激突したのは武蔵国の金井原(東京都小金井市)でした。戦いは激戦となりましたが勝利をおさめたのは足利軍でした。敗れた新田義興は鎌倉に逃げ込み、新田義宗小手指原に布陣しましたが、小手指原の合戦でも勝利したのは足利軍です。その後も、入間河原(埼玉県狭山市)の合戦、高麗原(埼玉県日高市)の合戦において新田軍は敗れました。敗戦が続く新田義宗の軍勢は後退を強いられ、ついに笛吹峠に追い込まれ最後の決戦を挑むことになりました。決戦前夜、新田義宗の本陣から美しい笛の音が流れてきました。陣中にいた宗良親王が、月明かりのもとで笛を吹いたということです。この故事にちなんで、この地を笛吹峠(埼玉県鳩山町)と呼ぶようになったそうです。
最後の決戦に挑んだ新田義宗の軍勢は、笛吹峠の合戦でも敗れ越後国へ逃げていきました。また、鎌倉を占拠していた新田義興の軍勢も義宗軍が敗れたという知らせを受けると、足利軍と戦うことなく鎌倉を放棄し越後国へ退いていったということです。

新田義興の軍勢を退けた足利尊氏は、1353年7月まで鎌倉にとどまりました。その期間に、尊氏は鎌倉公方の関東支配を磐石なものとすべく様々な手を打ちました。
まず、鎌倉公方足利基氏の補佐役として畠山国清関東管領に抜擢しました。畠山氏は、足利氏の親戚であり鎌倉幕府草創期に活躍した関東の名族です。ちょっと昔の話にもどってみましょう。治承四年(1180)源頼朝は打倒平家の兵を挙げました。頼朝は初戦の石橋山の合戦では敗れたものの、船で房総半島へ逃れ、そこで千葉氏の助けを得て鎌倉への進軍を始めました。頼朝の軍勢が武蔵国へ入ると、秩父平氏の有力な武将畠山重忠は頼朝に忠節を誓い軍勢に加わりました。その後、河越氏や江戸氏など武蔵国の坂東武者が次々に頼朝の軍勢に加わりました。大勢の坂東武者を従えた頼朝が鎌倉入りを果たした時、その先陣を任されていたのが畠山重忠です。重忠は頼朝の重臣として用いられたのです。
しかし、鎌倉幕府成立後、畠山重忠は不運に見舞われました。畠山氏の勢力が拡大することを恐れた北条時政は、重忠を殺害し畠山一族は滅びたのです。ところが、重忠の妻が生き残っており、足利義純と再婚したのです。この義純とは足利氏の祖である足利義康の孫にあたります。義純は関東の名族畠山氏が滅んだことを惜しみ、畠山氏を名乗ることにしたのです。こうして畠山氏は存続し室町時代に至って関東管領の地位に就いたのです。畠山国清は基氏にとって頼りになる補佐役でした。
次に、尊氏が基氏の為にしたことは、基氏に入間川在陣を命じたことです。関東には上野国を中心にして南朝に味方する武士が依然として存在しており不穏な動きを見せていました。基氏が鎌倉にいたのでは、上野国国境から離れ過ぎており、いざという時に素早い対応をすることができません。そこで、尊氏は武蔵国北部の入間川(埼玉県狭山市)に恒久的な足利氏の軍事拠点を構築し、基氏をそこに在陣させたのです。入間川陣は、上野国から武蔵国へ侵入してくる敵を迎え撃つのに適した場所です。また入間川陣は、尊氏に味方する武蔵国の平一揆の勢力圏の中に位置しています。平一揆とは、武蔵野合戦でも活躍した強力な軍事勢力です。前述した小手指原の合戦では、足利軍の先陣を平一揆が受け持ち、新田義宗の軍を大いに破ったそうです。入間川陣は、平一揆の軍勢に常に守られており、上野国との国境にも近く、南朝方の敵を牽制するのにうってつけの場所でした。
足利基氏は、1353年から1362年までの10年もの間入間川陣に在陣していました。そのため、入間川陣は鎌倉府の軍事拠点であるとともに、政治拠点でもあったとも考えられています。また、入間川陣に在陣したことは、尊氏と基氏の親子の絆を深めることにもつながったと私は考えます。尊氏の三男である基氏は幼い頃足利直義の養子に出されていたと言われています。そのため、尊氏と基氏の親子関係は希薄であったと思われるのです。それが、入間川陣で長らくともに過ごすうちに親子の情が深まったと思われるのです。尊氏が基氏のことを思いやる気持ちが強くなったからこそ、鎌倉公方は思いもよらぬ権限を持つことができたのです。
それが、尊氏が基氏のためにしてあげた最も重要なことです。それは、鎌倉公方に将軍と同等の権限を与えたことです。尊氏は、関東十ヵ国内において、鎌倉公方が武士に対して土地所有権や土地支配権を与える権限を持つことを許したのです。本来、この権限は京にいる将軍だけが持つことのできる権限でした。それを、関東分国内に限定してですが、鎌倉公方が行使できるようにしたのです。中世の武士にとって、最も重要なことは戦に出て手柄をあげ、その褒美として土地をもらうことでした。武士に土地を与える権限、あるいは土地を支配する権限を与えることができるのは将軍だけなのです。だからこそ、武士は将軍に忠節を誓い、戦に出て死に物狂いで働くのです。言わばこの権限は、将軍の支配力の源であるわけです。鎌倉公方はこの権限を持ったことで、関東の武士たちをを支配することのできる強力な力を手に入れたのです。さらに、鎌倉公方本領安堵新恩給与の権限を持ったことは、鎌倉公方と関東武士の間に主従関係が結ばれる大きな要因となりました。こうして、初代鎌倉公方足利基氏は、東の将軍とも言える存在になったのです。

東の将軍 鎌倉公方 その3ー 足利義詮京へ上る

1343年千寿王は元服足利義詮と名乗りました。鎌倉の主である義詮は、足利政権の関東方面軍司令官として関東十ヵ国ににらみをきかしていました。本来ならば、足利義詮こそが初代鎌倉公方と呼ばれるべきですが、義詮はこの後京へ上り、父足利尊氏の跡を継いで足利幕府の二代将軍となるので、歴史上足利義詮が初代鎌倉公方とは呼ばれることはないのです。初代鎌倉公方と呼ばれるのは、義詮の跡を継いで鎌倉公方となった弟の基氏です。
基氏が誕生したのは1340年で、尊氏の正室登子の生んだ3番目の男子です。基氏は京都で生まれ育ったのですが、兄義詮が鎌倉を離れ上洛してくるのと入れ替わりに鎌倉へ下向したのです。義詮が上洛したのは1349年のことですが、この時義詮の上洛を巡りひとつの事件が起きていました。
その事件は、やがて日本史上最大の兄弟喧嘩とも言われる「観応の擾乱」へと発展していきます。事件の発端となったのは、足利尊氏の弟直義と尊氏の執事である高師直の対立でした。足利尊氏は情けに深い親分肌の武将で、足利氏を支持する武士たちにとって象徴的な存在でした。ひとたび尊氏が戦場に立てば、味方の軍勢は奮い立ち、無敵の軍団に変貌を遂げるのです。これに対し、弟の直義は実務能力に優れていたので、発足当時の足利政権において行政を担当し、足利政権の政治統率者となっていたのです。
直義の政治姿勢は、足利政権の力を強化するために、守護や地方の軍事勢力の行動を厳しく抑制するものでした。このころ守護や地方の有力な武将たちは、戦乱を理由に寺社や貴族の荘園の年貢を差し押さえ、その半分を自分たちの兵糧にしてしまうという事態が横行していたのです。直義は守護や有力武将たちのそのような行為を厳しく制限したのです。
この直義の政策に対して、佐々木道誉土岐氏など足利一門ではない有力武将たちは反発をしました。そして、不満を持つ武士たちの急先鋒が高師直でした。師直の率いる高一族は、南朝方との戦いの中で大きな戦果をあげ足利政権内での発言力を高めていました。師直は事あるごとに直義に反発し、両者は対立を深めていったのです。
南北朝の争いが激しくなるにつれ、足利政権内における反直義派の圧力が強まり、直義と師直の対立も一気に表面化しました。この状況を打開するために、先に手を打ったのは直義でした。直義は兄尊氏に働きかけ師直を尊氏の執事から降ろすことに成功したのです。しかし、師直はこの動きに反発し、直義の屋敷を軍勢で取り囲みクーデターを起こそうとしたのです。身の危険を感じた直義は、尊氏に助けを求めました。尊氏は仲裁に乗りだし、直義と師直の軍事衝突は回避され和解が成立しました。このとき尊氏が出した和解の条件は、直義が政権統率者の地位を降り、尊氏の嫡男義詮が新たに政権統率者の座に就くというものでした。そして、義詮の補佐役として高師直を抜擢したのです。
結局、この和解で得をしたのは尊氏と師直でした。実は、高師直が企てたクーデターは尊氏と師直が仕組んだ芝居だったと言われています。その目的は、尊氏の嫡男義詮を政権統率者の地位に就けることでした。尊氏は義詮を京都に呼び寄せ足利幕府の後継者として指名したかったのです。しかし、政治的な実力者である直義の存在が、尊氏の思惑を妨げていました。そこで、尊氏と師直は裏で通じあい直義を失脚させるために一芝居打ったのです。
こうして、幼い頃から鎌倉の主として振る舞ってきた足利義詮が晴れて京へ上り尊氏の後継者として足利幕府の表舞台に登場したのです。そして、義詮と入れ替わるように、弟の足利基氏が鎌倉へ下り鎌倉公方に就任したのです。しかし、基氏の船出は順風満帆とはいきませんでした。父尊氏が樹立した足利幕府はまだ不安定であり、南北朝の争いは激化していました。また、尊氏と直義の兄弟の間にも亀裂が生じていました。鎌倉へ向かう基氏の前には過酷な運命が待ち受けていたのです。

東の将軍 鎌倉公方 その2ー 尊氏鎌倉府を設置する

1333年鎌倉幕府は滅亡しました。北条氏がいなくなった鎌倉を占拠したのは、足利尊氏の嫡男千寿王を旗頭とする足利の軍勢でした。鎌倉幕府を倒した最大の功労者である新田義貞が京都の後醍醐天皇に拝謁しに行った隙をついて、足利氏は易々と源氏の聖地である鎌倉を手にいれることができたのです。
しかし、足利氏にとっても鎌倉を守り続けることは容易なことではありませんでした。1337年7月北条高時の遺児時行が、北条方の残党を集めて突如鎌倉を襲撃してきたのです。世に言う「中先代の乱」です。この時鎌倉には後醍醐天皇の皇子である成良親王を奉じた足利直義と千寿王がいました。足利尊氏後醍醐天皇に対して関東十ヵ国を支配する鎌倉将軍府を創設することを要求していました。後醍醐天皇は尊氏の要求を受け入れつつ、鎌倉将軍の座には自分の皇子を据えることで尊氏の武力を抑制しようと考えたのです。
北条時行は、後醍醐天皇足利尊氏が主導権争いをしている隙をついて鎌倉を襲撃してきたのです。不意をつかれた足利直義らは、北条時行の急襲を防ぎきれず鎌倉を放棄して東海方面へ逃げ出しました。直義と千寿王は三河国矢作で京都から救援にかけつけてきた足利尊氏の軍勢と遭遇したのです。
ここで、成良親王は京都へ戻ることになり、尊氏の軍勢と合流した直義と千寿王の軍勢は鎌倉へ引き返すことになりました。尊氏の率いた軍勢は戦意旺盛であり、鎌倉へたどりつくと瞬く間に北条氏の残党をせん滅しました。
鎌倉を奪還した足利尊氏は、ついに後醍醐天皇に反旗を翻しました。鎌倉幕府を倒した後、尊氏と後醍醐天皇は互いに反目し合っていました。後醍醐天皇は公家中心の政権を打ち立て、貴族たちは権力の座に返り咲いたことに夢中になり、足利氏など武家のことは全く顧みていなかったのです。
後醍醐の政策に不満をつのらせていた尊氏は、武家による政権を樹立し鎌倉幕府を倒した武士たちの働きに報いてやりたいと考えていたのです。尊氏謀反の報を受けた後醍醐天皇は、新田義貞に尊氏追討の命を下しました。
義貞は尊氏討伐の軍勢を率いて鎌倉へ発進しました。義貞は尊氏に対して強い敵意を抱いていました。同じ源氏の棟梁の血を引きながら、坂東武者の棟梁のような振る舞いをしている尊氏をゆるせなかったのです。義貞の胸中は、これぞ尊氏を倒す千載一遇の好機であり、この機会に尊氏を完膚なきまでに叩きのめし、新田こそが武家の棟梁であることを天下に知らしめてやると意気込んでいたことでしょう。
しかし、勝ちを急いだ新田義貞は、京都を発進する際に楠木正成から受けた忠告に耳をかさず鎌倉への攻撃を仕掛けたので、尊氏からの反撃を受け箱根・竹ノ下の合戦に敗れ京都へ逃げ戻ったのでした。ちなみに楠木正成の忠告とは、箱根の西側に防御線を構築し尊氏を関東に封じ込めるという作戦でした。この作戦に従うと、尊氏を倒すという新田義貞の願望は叶わなかったのです。
逃げる新田を追いかけ尊氏は京都へ攻め込みます。この時も、尊氏は鎌倉に千寿王を残して行きました。京都へ攻め込んだ尊氏の軍勢は、いったんは勝利を挙げ洛中へ入りました。しかし、後醍醐方の武将で軍事の天才である楠木正成の奇策によって尊氏は敗れ、京都を追われて九州へ敗走したのです。
ところが九州では、尊氏に味方する武士が大勢いました。1336年勢力を盛り返した足利尊氏は、西国の軍勢を率いて再び京都へ攻め込みました。行く手に待ち受けていたのは宿敵楠木正成です。尊氏は湊川の合戦でついに楠木正成を倒しました。軍事力の要であった楠木正成を失い、後醍醐方は京都を尊氏に明け渡しました。
1336年8月足利尊氏光明天皇を擁立し北朝を再建しました。同年11月には建武式目を制定し鎌倉府を設置したのです。一方、京都を追われた後醍醐天皇は、吉野へ逃れここで新たな政権を樹立しました。この時から持明院統天皇を擁する北朝と、大覚寺統天皇を擁する南朝という二つの朝廷が出現し、南北朝の争乱が続くことになるのです。
なお、後醍醐方が京都を失った際、新田義貞は北陸方面へ逃げ、敦賀にある金ヶ崎城に立て籠りました。しかし、金ヶ崎城は周囲を足利の軍勢に取り囲まれ兵糧攻めに遭いました。飢餓に苦しめられた金ヶ崎城は落城します。この時新田義貞は生き残りますが、1338年越前藤島城を攻撃中に戦死しました。
さて、1336年鎌倉府が設置された時、鎌倉の主となったのは足利尊氏の嫡男千寿王でした。このとき千寿王はまだ6歳でした。当然のことながら6歳の幼子に鎌倉府の仕事が勤まるはずはなく、尊氏は千寿王の補佐役を置きました。その役目に就いたのは、足利氏の親戚である斯波氏や細川氏、あるいは足利氏の有力な被官である上杉氏や高氏です。こうして鎌倉府による関東支配の基盤作りが始まったのです。

東の将軍 鎌倉公方 その1ー 尊氏鎌倉を手に入れる

1336年湊川の合戦で宿敵楠木正成を倒した足利尊氏は、武家政権を樹立する目的で建武式目を定めました。建武式目において、尊氏は京都に幕府を開くことを明らかにし、鎌倉には関東十ヵ国(相模、武蔵、上総、下総、上野、下野、常陸安房の関東八ヵ国に加えて甲斐、伊豆)を支配する機関として鎌倉府を設置しました。鎌倉府の最高権力者は鎌倉公方と呼ばれ足利尊氏の子孫が代々その地位に就いたのです。
当初、鎌倉公方の役割は、室町幕府から派遣された関東方面軍の戦闘司令官でした。鎌倉公方の権限は軍事行動に限定されており、政治的な命令は全て京都の将軍から発せられていたのです。ところが、南北朝の争乱が続く中で、鎌倉公方は関東の武士たちに対して土地の所有権を保証する権限を行使できるようになるのです。
この権限は、本来将軍だけが持つ権限でした。幕府の出先機関の長官であった鎌倉公方は、所領安堵の権限を持ったことで、関東の武士たちと主従関係を結び、関東の支配者として君臨するようになりました。こうして鎌倉公方は、あたかも東の将軍として存在し西の室町幕府の将軍と並び立つ存在になったのです。やがて、鎌倉公方と室町将軍は争うようになり関東の歴史に大きな影響を及ぼします。
しかしながら、高校の日本史の教科書では鎌倉公方についての記述はわずか数行でしかありません。一般的には鎌倉公方は全く知られていない存在なのでず。そこで、今回は室町時代における東の将軍とも言うべき鎌倉公方について、調べていきたいと思います。
では、最初に鎌倉公方が誕生するまでの道のりをみていきます。1331年打倒鎌倉幕府を掲げた後醍醐天皇笠置山へ遷幸すると、楠木正成など勤皇の志を持った武将がこれに応じ挙兵しました。しかしながら、後醍醐天皇の企ては失敗し、北条政権は後醍醐天皇隠岐への流罪に処しました。1333年後醍醐天皇隠岐を脱出し、再び鎌倉幕府に対して反旗を翻しました。今回の蜂起では、楠木正成はもちろんのこと、名和長利など西国の有力な豪族も後醍醐天皇の呼び掛けに応じて武装蜂起しました。
鎌倉の執権北条高時は、後醍醐天皇の勢力を倒すため、東国武士で組織した幕府軍を編成し畿内に派遣したのです。幕府軍の指揮官に任命されたのは、足利尊氏でした。尊氏は畿内に出立する際に、嫡男千寿王(元服後は義詮)を人質として鎌倉に残していきました。源氏の棟梁の血を引く足利尊氏は、自らが武家の頂点に立つという野望を秘めていました。そのことは北条高時もうすうす気がついており、高時は尊氏の裏切りを警戒していたのです。
そして、北条高時の不安は的中しました。京都に入った尊氏は北条方を裏切り後醍醐天皇方へ寝返ると、一気に六波羅探題を攻撃しこれを攻め落としたのです。この時人質となっていた千寿王は密かに鎌倉を脱出していました。千寿王は上野国で挙兵した新田義貞の軍勢と遭遇し、そのまま鎌倉攻めの軍勢に加わることができたのです。1333年鎌倉幕府新田義貞の軍勢によって滅ぼされました。鎌倉幕府を滅亡させた第一の軍功は新田義貞にありますが、足利尊氏の嫡男である千寿王が足利氏の軍勢の旗頭として参戦していたことが、後の歴史に大きな影響を与えることになるのです。
鎌倉で見事な勝利を挙げた新田義貞は、後醍醐天皇に拝謁すべく京都へ向かいました。一方、千寿王は鎌倉にとどまり、鎌倉幕府を倒した戦いで軍功のあった関東武士に軍忠状を与えていました。千寿王はこの時3歳でしたが、千寿王の身の回りには足利尊氏の家臣が付き添い、あたかも倒幕軍の大将のようなふるまいをしていたのです。
こうして、足利尊氏は千寿王を尊氏の代理として鎌倉にとどめたことで、源氏にとっての聖地である鎌倉をいとも簡単に手に入れることに成功したのです。

江戸という地名の謎

 2019年5月1日に新天皇が即位され、元号が令和に改められました。新しい時代の幕が開き、日本国内は祝賀ムードに包まれ、人々の心には新しい時代への夢や希望がふくらんでいます。
 今から151年前の1868年9月、時の政府は元号を明治に改めました。そして、改元の2ヶ月前に、江戸は東京にその名前を改められたのです。翌1869年に日本の首都は京都から東京へ遷されました。それ以来、東京は日本の首都として発展してきたのです。
 その一方で、江戸という地名は、長い歴史と伝統に育まれ、今も私たちの暮らしの中に息づいています。美しい硝子細工の器といえば江戸切り子ですし、美味しいお寿司といえば江戸前ですよね。
 さて、この江戸という地名にはどのような意味があるのでしょうか?実は、その名の由来には諸説あって、未だ結論は出ていないようです。そこで、今回は江戸という地名の謎に迫るとともに、江戸の歴史をたどってみたいと思います。
 江戸の地名の由来については、「家康はなぜ江戸を選んだか」(岡野友彦)という本の中に詳しく書いてあるので、その本を参考にさせて頂きました。

 「江の門戸」説
 江戸、水戸、坂戸など戸のつく地名は戸口という意味。江戸は江の門戸、つまり入江の出入り口という意味です。
 
 「荏土」説
 「荏所」の略語で、エゴマやアサ、アシばかりが生えていた土地という意味です。

 「江に臨む所」説
 鎌倉中期に作られた「沙石集」という説話集に「武蔵の江所」という記述がある。これこそ中世の江戸であり、江所とは入江のある場所を意味しており、江戸は入江に臨む所とう意味です。

 「江の湊」説
 江戸の「江」は日比谷の入江を指しており江戸の「戸」は船が停泊するところの意味であり、江戸とは入江のある湊という意味です。

 その他、律令制で郷という行政単位を作るときに、郷にまとめることのできなかった余った戸=余戸という説や、アイヌ語の「エツ」で鼻という意味だというユニークな説も載っています。

 この本に取り上げられている説の中で「江の門戸」「江に臨む所」「江の湊」の三つの説は江戸が海に面した土地であるという地理的要因に由来している地名だと思います。
 つまり、江戸とは海と河川が接する特別な場所なのです。古来から、人々はそこが豊かな海の恵みを享受できる場所であり、また交易をするのにも便利な場所であることを知っていたのでしょう。


 では、この江戸に人々が暮らし始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
 人々が江戸付近で暮らし始めた古い痕跡を留めているのが、東京都品川区にある「大森貝塚」です。
 大森貝塚は米国の学者モースによって発見されました。明治10年モースは明治政府の招きを承けて来日し、東京大学の動物学教授に就任しました。そして、就任して間もなく大森貝塚を発見したのです。
 大森貝塚縄文時代後期から晩期にかけての遺跡です。貝塚からは多種におよぶ貝のほかに、魚や動物の骨や土器、石器、人骨などが見つかっています。つまり、今からおよそ3500年ほど前から人々は江戸付近で暮らし始め、海の恵みを受けていたのです。
 さらに、大森貝塚と同じ品川区にある「大井鹿島遺跡」からは、古墳時代から奈良、平安時代にかけて断続的に形成された村落の痕跡が見つかっています。人々は江戸の地に定住し暮らしの場所を広げていったのでしょう。
 また、古い時代に人々が暮らしていた痕跡は遺跡だけではなく、お寺や神社の「御由緒」にも残っています。
 浅草の三社祭りで有名な浅草寺の「浅草寺縁起」によれば飛鳥時代推古天皇36年すなわち西暦628年に江戸浦(隅田川)で魚を穫っていた三兄弟の漁師が観音像を引き上げて、そのご尊像をお祀りしたのが浅草寺の始まりだとされています。
 大化元年(645年)には勝海上人がこの地を訪れて観音堂を建立したので、浅草一帯は門前町として栄えるようになったということです。今や海外からの観光客で賑わう浅草のルーツは飛鳥時代にあり、古来から栄えた門前町であるのです。
 さて、前出した「家康はなぜ江戸を選んだか」によると「江戸」という地名が歴史に登場したのは、「吾妻鏡」に書かれたのが最初だということです。
 「吾妻鏡」とは鎌倉時代に書かれた歴史書であり、源頼朝がいかにして平家を倒し、鎌倉幕府を築いたのかが書かれた文書です。
 治承四年(1180年)源頼朝は伊豆において平家打倒の兵を挙げました。しかし、頼朝は石橋山の合戦に敗れ、船に乗って房総半島へ逃れたのです。房総半島で再起を図った頼朝は、東国にいる武将たちに御書を出して味方を募るのです。その時、武蔵国の武将葛西三郎清重に宛てた御書に江戸の地名が出ています。その部分を「現代語訳 吾妻鏡」(五味文彦本郷和人 編)より抜粋します。
 「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間であるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように」
 頼朝が発した御書に多くの坂東武者が従い、頼朝のもとに大軍勢が集結します。この部分の詳しいお話は、小職のブログ「坂東武者の系譜 源頼朝」に書いています。
 吾妻鏡によれば、頼朝は三万騎の軍勢を率いて江戸川と隅田川を渡り武蔵国に入ったそうです。三万騎という数字が真実かどうかは別にしても、石橋山の合戦に敗れてから僅か1ヶ月で、頼朝が大軍勢を集めることができたのは驚きです。
 また、大軍勢をそろえなければいけないほど、下総国から武蔵国への国境を通過するのは非常に危険であったということがわかるのです。つまり、国境に接した江戸は軍事的にも非常に重要な場所であったということです。
 一説によれば、この時頼朝が渡河に使った船は、江戸重長が用意した船だということです。江戸氏は平良文につながる秩父平氏の子孫で、後三年の役では源義家に従い先陣を努めたこともある由緒正しき武将の家柄です。平安時代末より江戸を領地とし地名を名字としたのでしょう。
 江戸重長は浅草一帯をも支配し、浅草にある石浜湊には数多くの西国の船が集まっていたということです。重長は江戸湾の湊に集まっていた船を総動員して頼朝の武蔵国入りを支えたのだと思います。
 そして、このことは、平安時代末までに江戸と西国の間には航路が開かれ、交易が行われていたことを示しているのです。江戸はこの頃から港湾都市として機能していた場所なのです。
 鎌倉時代のころ、江戸には隅田川の河口に位置する石浜湊や目黒川の河口に位置する品川湊が栄えていました。そのことから考えると、江戸という地名は大きな川の河口にある湊という意味が一番ふさわしいのではないでしょうか。
 以前に「徳川家康が来る前の江戸」でも話した通り、家康公が来る以前の江戸は決して寂しい漁村ではなく、中世から港湾都市として栄えていたのです。
 太古の昔から人々は江戸一帯に住み着き始めました。そこは穏やかな海に面した場所であり、豊かな海の恵みを享受できる場所でした。
 やがて、浅草ではありがたい観音様の像が祀られ、お堂が建立されました。その評判はたちまち広まり、浅草には多くの参拝客が訪れるようになったのです。
 中世になると、伊勢との間に航路が開かれ西国の産物が江戸にもたらされるようになりました。この航路を切り開いたのは、熊野権現の信仰を伝える目的で航海に出た人々でした。彼らの一部は江戸にたどり着き、そこで船乗りと商人を兼ねる存在(問丸)になったのです。 
 こうして隅田川や目黒川の河口に生まれた海辺の集落は、仏教の聖地となり、海運・商業の拠点となることで港湾都市に変貌を遂げました。さらに、武士の時代が到来すると江戸は軍事的にも重要な場所になり、室町時代に関東で大戦乱が起きると、太田道灌によって江戸城が築かれたのです。

 今回参考にさせて頂いた文献は下記の通りです。

家康はなぜ江戸を選んだか 岡野友彦

現代語訳 吾妻鏡 五味文彦本郷和人 編

品川歴史館解説シート No2大森貝塚   No21古代の村のくらし

Wikipedia 江戸重長

日本の歴史と天皇の関わり

 平成31年4月30日は天皇が退位される日です。天皇が退位されるのは約200年ぶりとのことで、5月1日には新天皇が即位され令和という新しい時代が始まります。
 そこで、日本の歴史の節目にあたり、歴史と天皇の関わりについて考えてみました。
 まず、教科書に載っている年表によって、天皇の歴史をザックリとたどってみたいと思います。参考にしたのは、高校日本史のサブテキスト「新詳日本史」(浜島書店)です。
 古代の日本では文書による記録がなく、日本の歴史を知る手がかりは、古代中国の歴史書の記述にあります。
 古代中国の歴史書宋書」によると、4世紀から5世紀にかけて日本には「讃、珍、済、興、武」という大王がいたことが記されています。いわゆる倭の五王です。
 近畿地方には仁徳天皇陵などの巨大な前方後円墳が存在していますが、それらを築いた大王たちが倭の五王であると考えられています。そして、古事記日本書紀に登場する応神天皇仁徳天皇允恭天皇安康天皇雄略天皇などが、倭の五王に当たるのではないかと推定されていますが、確実ではありません。
 この倭の五王の中で最も存在したことが確かなのは倭王武です。宋書によれば武は478年に宋に特使を派遣し、安東大将軍と呼ばれ倭国王であると認められているのです。
 埼玉県稲荷山古墳や熊本県江田船山古墳から出土した鉄剣には「ワカタケル大王」の名が刻まれており、その年代からワカタケル大王が倭王武であり、雄略天皇であると推定されています。
 ワカタケルは関東から九州にかけて勢力を広げた大王でした。しかし、ワカタケル大王の死後、天皇皇位継承をめぐり、有力な豪族たちが争いを起こします。その結果、北陸地方の豪族に後押しされたオホド王が迎えられ、507年に継体天皇となります。
 その後も豪族たちの勢力争いは続きますが、やがて蘇我氏が台頭し大きな力を持つようになります。
 592年には日本で初の女性天皇である推古天皇が即位します。推古天皇を補佐したのが聖徳太子です。推古天皇のもとで聖徳太子は冠位十二階を制定したり17条の憲法を制定したりするのです。
 645年中大兄皇子中臣鎌足らとともにクーデターを起こし蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏を滅ぼします。以前は大化改新と呼ばれていたこの出来事は、最近では「乙巳の変」(いっしのへん)と呼ぶそうです。
 この時、日本史上初の元号が定められました。それが大化であることは皆さんもご存知の通りです。そして、この時の天皇孝徳天皇です。
 中大兄皇子天皇に即位し天智天皇になるのは668年です。それから3年後の671年に天智天皇は亡くなります。その後、天智天皇の息子大友皇子天智天皇の弟大海皇子との間で皇位継承争いが起きます。世に言う「壬申の乱」です。
 大海皇子は畿内を脱出し伊勢へ向かいます。伊勢を通過する途中、大海皇子は海を挟んで伊勢神宮の方向を一望できる場所にたたずみ天照大神を遙拝します。おそらく、大海皇子は、ここまで無事に逃げてこれたことに感謝し、戦いに勝利することを祈願したのでしょう。
 大海皇子は伊勢を通過し美濃に至ります。大海皇子は美濃の不破の関へ進み、そこで大軍勢を味方につけることに成功します。じつは、この大軍勢は大友皇子が集めた軍勢だったのですが、大海皇子側に寝返ったのです。
これで一気に優位に立った大海皇子は軍勢を大友皇子のいる近江に進め、大友軍を破り勝利を得るのです。
 ちなみに、この不破の関があった場所ということで名付けられたのが関ヶ原です。関ヶ原とはその地名の由来からしても、天下分け目の大合戦が起きる場所として運命付けられていたのかもしれません。
 話を元に戻します。673年大海皇子は天武天皇として即位します。天武天皇律令の編纂を開始したり、国史の編纂を開始するなど、日本が律令国家になるための基礎を築いた天皇です。
 天武天皇の死後跡を継いだのは皇后であった持統天皇でした。持統天皇は孫が成長し天皇に就くまでのつなぎ役として天皇になったのですが大いに活躍します。
 持統天皇は、伊勢神宮に祀られている天照大神への感謝の意を示し、夫天武天皇の偉業を後世に伝える為に、伊勢神宮の社殿を新築し20年毎に建て替えるという式年遷宮を創始したのだと云われています。こうしてみると伊勢神宮と皇室の関わりがいかに深いかがわかります。
 794年桓武天皇平安京へ遷都すると、律令国家を運営するため、官僚機構が整備され貴族が政治運営をする時代になりました。
その中で台頭してきたのが藤原北家です。
 藤原北家は娘を天皇の后にし、その后から男子が生まれ天皇となることで摂関政治を展開するようになりました。そして藤原道長・頼通の時代に全盛期を迎えるのです。
 これに対して、天皇藤原氏から政治の実権を奪い返すために院政を始めるのです。1086年白河上皇は歴史上初の院政を開始します。これ以降、政治権力を奪い合うために天皇上皇藤原氏は武士の力を利用するようになります。そして、それが源氏や平氏などの武士の台頭を招くのです。
 清和源氏桓武平氏と呼ばれるように、源氏や平氏はもともと天皇の子息でした。しかし9世紀になると増えすぎた皇族を整理するために身分の低い女性から生まれた皇子は貴族へと降下させられたのです。これが源氏や平氏の始まりでした。
 貴族となった源氏や平氏は地方へ赴き国司に就任しました。彼らは地方を拠点にして勢力を養い、武士としての力を蓄えたのです。
 やがて平安時代後期になると天皇上皇藤原氏が複雑に入り乱れて権力争いを始めます。そこへ源氏や平氏は巻き込まれることになるのです。そして武士の軍事力なくしては政治権力を得ることはできなくなり、武士の存在価値は大いに高まりました。
 その流れの中で、数々の戦いに勝利してきた平清盛が頂点に立つことができたのです。安徳天皇の外祖父となった清盛は時の最高権力者であり、平氏はその当時の日本最強の軍事集団であったのです。
 その平氏全盛の時代にあって異議を唱える皇族が現れました。高倉天皇の第三皇子である以仁王です。1180年以仁王は自分が天皇になりたいがために反乱を企て、平氏追討の令旨(りょうじ)を出したのでした。
 このことをきっかけにして、源平合戦が起きたのです。1185年壇ノ浦の合戦で平氏は滅亡しました。勝利した源頼朝鎌倉幕府を開き本格的な武家政治の時代が始まりした。
 政治の実権を失った天皇は、鎌倉幕府を倒す機会を待つほかありませんでした。1219年三代将軍源実朝が暗殺され鎌倉幕府は危機に直面します。
 これを好機ととらえた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府打倒のため1221年に挙兵します。世に言う「承久の乱」です。しかし、北条政子の必死の訴えによって、東国武士は北条氏のもとに結集し、京都へ攻め込んで鎌倉幕府は勝利を得たのです。この後、およそ100年の間鎌倉幕府は続きました。
 鎌倉時代の末期に後醍醐天皇が挙兵し一時は建武の新政を展開しましたが、足利尊氏に敗れました。天皇が政治権力を得るために戦いを起こしたのはこれが最後でした。その後室町時代、戦国時代、江戸時代と武士の時代が長く続くのです。
 天皇が歴史の表舞台に再び登場したのは1853年にペリーが浦賀に来航した時です。この時の天皇孝明天皇でした。そして幕末の動乱を経て、明治維新を迎えたのです。
 明治以降、日本は外国との戦争を経験しました。第二次世界大戦で日本は、アジア地域を侵略するという暴挙を起こし、アメリカやイギリスと戦うことになりました。そして戦争に敗れ、反省し平和な国家として新たな歩みを始めたのです。
 天皇は日本の象徴となりました。「象徴とは何であるか」という問いに答えを出すのは大変難しいことですが、日本の歴史と天皇の関わりを知ることで、その答えのヒントがみつかるような気がします。
 私たち日本人の祖先が、同じ仲間として国を作ろうと思い始めたのが、今から約1600年前のことのようです。そのとき、リーダーとなって国作りを進めたのが大王=天皇です。国家の仕組みを作るだけではなく、私たちが誇りにしている日本の伝統や文化を作り出すところでも天皇はリーダーでした。
 そして栄枯盛衰を繰り返しながらも、今日まで天皇家は存続し、私たちに日本の歴史の長さと奥行きの深さを教えてくれるのです。
 平成に続く令和の時代も、天皇は日本の象徴としていらっしゃるでしょう。そして私たち日本人は、令和という元号に込められているような「平和でより良き時代」を力を合わせて築いていくのです。

ブラックホールを予言した天才 チャンドラセカール

 先日天文学の世界で大きなニュースがありました。人類はついにブラックホールの撮影に成功したのです。南米やハワイなどの電波望遠鏡をつないで地球規模の観測装置(イベント ホライズン テレスコープ)を作りブラックホールを撮影することができたのです。撮影されたのは、M87銀河の中心に存在するモンスターブラックホールです。
 巨大な星が一生の終わりに超新星爆発を起こしてブラックホールが生まれるのですが、今回撮影されたようなモンスターブラックホールがどのようにして生まれるのかは、まだ謎のままです。
 ともあれ、アインシュタインが発表した一般相対性理論によって、その存在が理論上予測された奇妙な天体ブラックホールの実在がついに証明されたのです。この成功を受けて今後さらに研究が進み、ブラックホールの謎が解明されて行くことでしょう。
 ブラックホールの撮影に成功した快挙は、連日のようにネットでも取り上げられています。そこで、私も今回はブラックホールに関する一人の天才科学者について話をしたいと思います。
 その科学者の名前はチャンドラセカール。非常に重い恒星が一生の最後にブラックホールになることを予言した人です。
 19歳でインドの大学を卒業したチャンドラセカールはイギリスのケンブリッジ大学に留学することになりました。1930年イギリスへ向かう船旅の途中で、チャンドラセカールは、天才的なひらめきを得ました。それは「非常に重たい恒星の一生の終わりは白色矮星ではなく、ブラックホールになる」という考えでした。
 チャンドラセカールの考えは非常に斬新なものでした。1930年頃まで天文学の世界では恒星は全て一生の終わりに白色矮星になると考えられていました。
 しかし、チャンドラセカールは一般相対性理論を考慮して計算した結果、非常に重たい星は、その重さゆえに白色矮星にとどまることができず無限に収縮していきブラックホールになるという結論に達したのです。
 ケンブリッジ大に留学したチャンドラセカールは偉大な天文学者エディントンに師事しこのアイデアを伝えたのです。エディントンはアインシュタイン一般相対性理論の正しさを証明した人物でした。
 しかし、エディントンはチャンドラセカールの考えを全否定しました。エディントンはブラックホールのような奇妙な天体が、宇宙に存在することを認めてくれなかったのです。
 アインシュタイン一般相対性理論を発表した直後、ドイツの天文学者シュヴァルツシルトによって一般相対性理論の方程式が解かれ、ブラックホールが理論上は存在することが予測されていたにもかかわらずです。
 エディントンとチャンドラセカールの間では激しい論争が繰り広げられました。しかし、当時の世界的権威であるエディントンが相手では、チャンドラセカールにとうてい勝ち目はありません。論争に疲れたチャンドラセカールはケンブリッジ大を去りました。
 ところが、その後欧米の天文学者たちがチャンドラセカールの理論を研究し、それが正しいことが認められたのです。
 のちにチャンドラセカールは、その功績が認められノーベル物理学賞を受賞しました。またNASAが打ち上げたX線観測衛星は「チャンドラ」と名付けられました。
 歴史上初めて星がブラックホールになること予言したのはチャンドラセカールです。もしも、彼がインド人ではなく欧米人であればエディントンの受けとめ方は違っていたのではないでしょうか?
 科学の世界では時として権威主義や偏見が進歩を妨げることがあるのです。しかし、我々人類が持つ好奇心はそのような障壁を乗り越えて前進していくのです。
 およそ90年前にチャンドラセカールが予言した奇妙な天体ブラックホールは、科学技術の進歩と世界中の科学者が協力することでついに、その姿をとらえられました。チャンドラセカールが生きていればきっと喜んだことでしょう。そして、私はこの機会にチャンドラセカールの功績を世界中の人々に知って欲しいと思います。

 時々、「ブラックホールが撮影できたことが何の役に立つのですか?」という愚問を発する人がいます。
 ブラックホールについて研究することが何か直接的に人間の生活に利便性を与えることは、なかなかないかもしれません。
 しかし、ブラックホールについて知りたいという好奇心は我々人間だけが持つものです。この好奇心こそが人間を進化させてきたのではないでしょうか。「あの山の向こうには何があるのだろうか?」「この海の向こうにはどんな世界があるのだろうか?」人間はこのような好奇心に突き動かされ新天地を開拓したり、舟を発明し大海原を渡る冒険にでることができたのです。
 何かを知りたいという好奇心と、知るために挑戦すること、それが人間を進化させ同時に人間の持つ技術力を高めてきたのです。月に行きたいという好奇心が人間にロケットを発明させ、月面に人類が降り立つことができたのです。
 何かを知りたいという好奇心に突き動かされ挑戦し続けること、それが我々が人類であるということの証なのです。