歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

江戸という地名の謎

 2019年5月1日に新天皇が即位され、元号が令和に改められました。新しい時代の幕が開き、日本国内は祝賀ムードに包まれ、人々の心には新しい時代への夢や希望がふくらんでいます。
 今から151年前の1868年9月、時の政府は元号を明治に改めました。そして、改元の2ヶ月前に、江戸は東京にその名前を改められたのです。翌1869年に日本の首都は京都から東京へ遷されました。それ以来、東京は日本の首都として発展してきたのです。
 その一方で、江戸という地名は、長い歴史と伝統に育まれ、今も私たちの暮らしの中に息づいています。美しい硝子細工の器といえば江戸切り子ですし、美味しいお寿司といえば江戸前ですよね。
 さて、この江戸という地名にはどのような意味があるのでしょうか?実は、その名の由来には諸説あって、未だ結論は出ていないようです。そこで、今回は江戸という地名の謎に迫るとともに、江戸の歴史をたどってみたいと思います。
 江戸の地名の由来については、「家康はなぜ江戸を選んだか」(岡野友彦)という本の中に詳しく書いてあるので、その本を参考にさせて頂きました。

 「江の門戸」説
 江戸、水戸、坂戸など戸のつく地名は戸口という意味。江戸は江の門戸、つまり入江の出入り口という意味です。
 
 「荏土」説
 「荏所」の略語で、エゴマやアサ、アシばかりが生えていた土地という意味です。

 「江に臨む所」説
 鎌倉中期に作られた「沙石集」という説話集に「武蔵の江所」という記述がある。これこそ中世の江戸であり、江所とは入江のある場所を意味しており、江戸は入江に臨む所とう意味です。

 「江の湊」説
 江戸の「江」は日比谷の入江を指しており江戸の「戸」は船が停泊するところの意味であり、江戸とは入江のある湊という意味です。

 その他、律令制で郷という行政単位を作るときに、郷にまとめることのできなかった余った戸=余戸という説や、アイヌ語の「エツ」で鼻という意味だというユニークな説も載っています。

 この本に取り上げられている説の中で「江の門戸」「江に臨む所」「江の湊」の三つの説は江戸が海に面した土地であるという地理的要因に由来している地名だと思います。
 つまり、江戸とは海と河川が接する特別な場所なのです。古来から、人々はそこが豊かな海の恵みを享受できる場所であり、また交易をするのにも便利な場所であることを知っていたのでしょう。


 では、この江戸に人々が暮らし始めたのはいつ頃からなのでしょうか?
 人々が江戸付近で暮らし始めた古い痕跡を留めているのが、東京都品川区にある「大森貝塚」です。
 大森貝塚は米国の学者モースによって発見されました。明治10年モースは明治政府の招きを承けて来日し、東京大学の動物学教授に就任しました。そして、就任して間もなく大森貝塚を発見したのです。
 大森貝塚縄文時代後期から晩期にかけての遺跡です。貝塚からは多種におよぶ貝のほかに、魚や動物の骨や土器、石器、人骨などが見つかっています。つまり、今からおよそ3500年ほど前から人々は江戸付近で暮らし始め、海の恵みを受けていたのです。
 さらに、大森貝塚と同じ品川区にある「大井鹿島遺跡」からは、古墳時代から奈良、平安時代にかけて断続的に形成された村落の痕跡が見つかっています。人々は江戸の地に定住し暮らしの場所を広げていったのでしょう。
 また、古い時代に人々が暮らしていた痕跡は遺跡だけではなく、お寺や神社の「御由緒」にも残っています。
 浅草の三社祭りで有名な浅草寺の「浅草寺縁起」によれば飛鳥時代推古天皇36年すなわち西暦628年に江戸浦(隅田川)で魚を穫っていた三兄弟の漁師が観音像を引き上げて、そのご尊像をお祀りしたのが浅草寺の始まりだとされています。
 大化元年(645年)には勝海上人がこの地を訪れて観音堂を建立したので、浅草一帯は門前町として栄えるようになったということです。今や海外からの観光客で賑わう浅草のルーツは飛鳥時代にあり、古来から栄えた門前町であるのです。
 さて、前出した「家康はなぜ江戸を選んだか」によると「江戸」という地名が歴史に登場したのは、「吾妻鏡」に書かれたのが最初だということです。
 「吾妻鏡」とは鎌倉時代に書かれた歴史書であり、源頼朝がいかにして平家を倒し、鎌倉幕府を築いたのかが書かれた文書です。
 治承四年(1180年)源頼朝は伊豆において平家打倒の兵を挙げました。しかし、頼朝は石橋山の合戦に敗れ、船に乗って房総半島へ逃れたのです。房総半島で再起を図った頼朝は、東国にいる武将たちに御書を出して味方を募るのです。その時、武蔵国の武将葛西三郎清重に宛てた御書に江戸の地名が出ています。その部分を「現代語訳 吾妻鏡」(五味文彦本郷和人 編)より抜粋します。
 「清重は、源氏に対して忠節をはげんでいる者であるが、その居所は江戸と河越の中間であるので、動きが取りにくいであろう。早く海路を経てやってくるように」
 頼朝が発した御書に多くの坂東武者が従い、頼朝のもとに大軍勢が集結します。この部分の詳しいお話は、小職のブログ「坂東武者の系譜 源頼朝」に書いています。
 吾妻鏡によれば、頼朝は三万騎の軍勢を率いて江戸川と隅田川を渡り武蔵国に入ったそうです。三万騎という数字が真実かどうかは別にしても、石橋山の合戦に敗れてから僅か1ヶ月で、頼朝が大軍勢を集めることができたのは驚きです。
 また、大軍勢をそろえなければいけないほど、下総国から武蔵国への国境を通過するのは非常に危険であったということがわかるのです。つまり、国境に接した江戸は軍事的にも非常に重要な場所であったということです。
 一説によれば、この時頼朝が渡河に使った船は、江戸重長が用意した船だということです。江戸氏は平良文につながる秩父平氏の子孫で、後三年の役では源義家に従い先陣を努めたこともある由緒正しき武将の家柄です。平安時代末より江戸を領地とし地名を名字としたのでしょう。
 江戸重長は浅草一帯をも支配し、浅草にある石浜湊には数多くの西国の船が集まっていたということです。重長は江戸湾の湊に集まっていた船を総動員して頼朝の武蔵国入りを支えたのだと思います。
 そして、このことは、平安時代末までに江戸と西国の間には航路が開かれ、交易が行われていたことを示しているのです。江戸はこの頃から港湾都市として機能していた場所なのです。
 鎌倉時代のころ、江戸には隅田川の河口に位置する石浜湊や目黒川の河口に位置する品川湊が栄えていました。そのことから考えると、江戸という地名は大きな川の河口にある湊という意味が一番ふさわしいのではないでしょうか。
 以前に「徳川家康が来る前の江戸」でも話した通り、家康公が来る以前の江戸は決して寂しい漁村ではなく、中世から港湾都市として栄えていたのです。
 太古の昔から人々は江戸一帯に住み着き始めました。そこは穏やかな海に面した場所であり、豊かな海の恵みを享受できる場所でした。
 やがて、浅草ではありがたい観音様の像が祀られ、お堂が建立されました。その評判はたちまち広まり、浅草には多くの参拝客が訪れるようになったのです。
 中世になると、伊勢との間に航路が開かれ西国の産物が江戸にもたらされるようになりました。この航路を切り開いたのは、熊野権現の信仰を伝える目的で航海に出た人々でした。彼らの一部は江戸にたどり着き、そこで船乗りと商人を兼ねる存在(問丸)になったのです。 
 こうして隅田川や目黒川の河口に生まれた海辺の集落は、仏教の聖地となり、海運・商業の拠点となることで港湾都市に変貌を遂げました。さらに、武士の時代が到来すると江戸は軍事的にも重要な場所になり、室町時代に関東で大戦乱が起きると、太田道灌によって江戸城が築かれたのです。

 今回参考にさせて頂いた文献は下記の通りです。

家康はなぜ江戸を選んだか 岡野友彦

現代語訳 吾妻鏡 五味文彦本郷和人 編

品川歴史館解説シート No2大森貝塚   No21古代の村のくらし

Wikipedia 江戸重長