歴史楽者のひとりごと

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太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 中編ー名将道灌

堀越公方の登場

 1458年室町幕府の八代将軍足利義政は、弟の足利政知を関東へ派遣した。室町幕府足利政知を新たな鎌倉公方として就任させ、古河公方足利成氏に対抗させようとしたのだ。しかし、足利政知は鎌倉入りを果たすことができなかった。そのころ、鎌倉のある相模国は扇谷持朝の領国であった。ところが、足利政知が鎌倉に入ることになれば、扇谷持朝は相模国の一部を政知の領地として差し出さねばならなくなる。扇谷持朝はそれを拒否したのである。

 もしも、足利政知が強引に相模国の一部を自分の領地にしようものなら、扇谷持朝は古河公方側へ寝返る可能性さえあった。それでは、上杉方はますます不利な状況に陥ってしまう。そこで、足利政知は扇谷持朝との対立を避けるために鎌倉には入らず、山内上杉家の領国である伊豆の堀越というところにとどまり、そこに腰を落ち着けたのだ。そのため、足利政知堀越公方と呼ばれるようになった。

 堀越公方の登場は上杉方の後押しにはならず、むしろ上杉方の混乱を招くことになった。扇谷家の家宰である太田道真は、この混乱の影響を受けて家督を道灌に譲り隠居している。太田道灌はこの時から扇谷家の家宰となったのだ。

 

◆古河城を巡る攻防

 古河公方は、足利政知の登場など意に介さず、上杉勢の軍事拠点である五十子陣への攻撃を仕掛けていた。しかし、五十子陣の守りは固く、戦線は膠着状態に陥っていた。1471年公が公方は戦線を転じ、千葉、小山、結城の軍勢を伊豆へ差し向け堀越公方を攻撃しようとした。堀越公方のもとには僅かな手勢しかおらず、古河公方勢の急襲を受けた堀越公方は窮地に陥ったが、山内上杉の軍勢が援軍に駆け付けたので難を逃れることができた。山内上杉勢の登場で戦いの形成は逆転し、古河公方の軍勢は敗走した。勢いに乗った上杉勢は古河公方勢を追撃し、敵の本拠地である古河城まで攻め込み、古河城を陥落させたのである。

 享徳の乱が始まって以来、初めて上杉勢が大きな戦果を挙げたのである。しかし、古河公方足利成氏は難を逃れ、千葉輔胤の居城である下総国佐倉城へ逃げ込んでいた。上杉勢は、いったんは古河城を占拠したが、この城は古河公方の勢力圏の中心地にあるので、執拗な敵方の攻撃に耐えることができず、城を手放したのである。そのため翌年古河公方は古河城に帰還し、再び五十子陣を精力的に攻撃するようになったのである。

 

 ◆長尾景春の乱

 1473年山内上杉家の家宰職である長尾景信が死去した。山内上杉家関東管領職を世襲する強大な権力を持った家であり、山内上杉家を支える家宰職もまた大きな権力を握っていた。その地位にあった長尾景信が死去したことで、長尾家内部に家宰職を巡る争いが生じたのである。その混乱のなか、関東管領上杉顕定が家宰として指名したのは、景信の弟である長尾忠景であった。この決定に反発したのが、景信の嫡男である長尾景春である。

 景春の反発には多くの同調者が現れた。長引く戦乱の中で、恩賞や利権にありつくことができず、関東管領に不満をつのらせていた武将たちが長尾景春の味方につきはじめたのである。景春は、関東管領に抗議するため軍勢を引き連れて五十子陣へ迫り圧力をかけたのだ。この事態を重く見た太田道灌は、五十子陣の上杉顕定のもとに参陣し、長尾景春と和解するように進言した。しかし、上杉顕定は道灌の進言に耳を貸さず、むしろ、道灌の行為を不快に思ったようである。

 1476年長尾景春は、武蔵国鉢形城に本拠地を移した。景春は山内上杉家に謀反を企てるため、居城を移して本格的な準備に着手したのである。太田道灌関東管領に対して、長尾景春と和解するか、さもなくば景春を討伐するか選択するように父道真を通して再度進言を試みたが、またしても上杉顕定は道灌の進言を取り上げなかった。

 同年3月道灌は堀越公方に従って駿河へ向かうことになった。駿河では守護の今川義忠が急死し、嫡男龍王丸と義忠の従弟である今川範満との間で家督相続争いが起きていた。堀越公方は軍勢を率いて駿河へ入り、今川家の家督相続争いに介入したのである。道灌は堀越公方の直臣ではない。それにもかかわらず、道灌が堀越公方に従って駿河へ遠征したという事実はどこかしっくりこないところがある。もしかすると、長尾景春の処遇について何かとうるさい道灌のことを疎ましく思った上杉顕定と長尾忠景の二人が裏で手をまわして道灌を堀越公方駿河遠征に同行させるように仕組んだのかもしれない。それはともあれ、堀越公方による介入は成功し、今川家の家督を継いだのは堀越公方が支援した今川範満であった。

 1476年10月太田道灌駿河から江戸へ戻ってきた。戻ってみると、道灌の案じた通り長尾景春は謀反を起こしていた。景春は、道灌が江戸を留守にしている間に鉢形城で蜂起し、三千騎もの軍勢を率いて関東管領に反旗を翻したのである。1476年6月景春軍が五十子陣へ通じる道を封鎖したので、上杉勢は補給路を断たれ窮地に陥っていた。翌年正月に景春の軍勢が五十子陣に総攻撃をかけると、上杉勢は抗しきれず五十子陣は陥落し、上杉顕定らは利根川東岸の上野国那波庄へ逃れていた。道灌があれほど進言したにもかかわらず、関東管領上杉顕定とその取り巻き連中は長尾景春を放置し、今日のていたらくをさらけ出しているのである。道灌は関東管領の無能さにあきれ、しばし江戸城において長尾景春の反乱を静観していたのである。

 

◆豊島氏の挙兵

 五十子陣を陥落させた長尾勢は勢いに乗り、関東管領を支える重臣の中からも長尾方へ寝返る武将が現れだした。まさに、関東管領方は内部崩壊の危機に瀕していたのである。さらに古河公方足利成氏長尾景春に味方する動きを見せており、反乱の動向は道灌にとっても抜き差しならぬ状況になりつつあった。そのような状況のなかで、武蔵国石神井城を本拠地とする豊島勘解由左衛門尉が、長尾景春の味方についたのである。この豊島氏の動きによって、太田道灌はついに立ち上がり、長尾景春を討伐することを決意したのである。

 豊島氏は桓武平氏の流れを汲む秩父平氏の一族であり、平安時代の頃に関東に土着した武士である。源頼朝が平家打倒の兵を挙げると、豊島氏は頼朝のもとに参陣して活躍し、鎌倉時代になると幕府の御家人になっていた。室町時代には、秩父平氏は「平一揆」と呼ばれる軍事勢力を形成し、関東において足利尊氏の軍事力を担う一大勢力となっていたが、豊島氏も「平一揆」の一員に加わっていた。豊島氏は由緒ある坂東武者として武蔵国内で一目置かれる存在であったのだ。

 しかし、室町時代の中頃になると関東では上杉氏が台頭し「平一揆」などかつての坂東武者たちは衰退していったのである。豊島氏も時勢の流れには逆らえず、かつての威勢を失っていた。豊島氏が支配していた領地も、今や新興勢力によって奪われようとしていた。その新興勢力とは、扇谷上杉家であった。扇谷上杉家は1438年に起きた永享の乱をきっかけに勢力を拡大し、相模国から武蔵国南部へ進出し、豊島氏の旧支配地域を侵食し始めたのである。その扇谷上杉家の家宰として武蔵南部の支配を任されていたのが太田道灌であった。

 すなわち、豊島氏にとって太田道灌こそは自分たちの領地を奪い取っていく侵略者にほかならないのだ。だが、道灌は関東管領に従う扇谷家の家臣である。豊島氏が道灌と争うということは、関東管領に弓引くことにつながるのだ。豊島氏という国人が単独で関東管領と敵対することはできない。そんなことをすれば、瞬く間に豊島氏は潰されてしまうだろう。そのため、豊島氏は道灌に対する敵意を腹の中に抑え込んで、今日まで耐えてきたのである。ところが、風向きが変わったのだ。長尾景春関東管領に対して謀反を企てると、多くの同調者が現れ関東管領の本拠地である五十子陣を落としてしまったのだ。豊島氏はこの機に乗じて長尾景春の一味に加わり、太田道灌を倒して武蔵南部の支配権を取り戻そうとしたのである。

 私が思うに、もしも長尾景春が反乱を起こさず、豊島氏が景春の反乱に加担することがなければ、太田道灌という武将が歴史に名を残すことはなかっただろう。長尾景春の乱が起きるまで、道灌に関する歴史的な記録は江戸城を築城したこと以外ほとんど残っていないのである。長尾景春の乱以前の道灌は、関東にいるその他大勢の武将のひとりにすぎず、注目されるような武将ではなかったのかもしれない。

 しかし、歴史の流れは道灌を放っておかなかった。豊島氏が反乱に加担したことで、道灌の運命が大きく変わったのである。景春に五十子陣を落とされたことで、上杉勢の主力はみな利根川の東岸に避難しており、武蔵国には道灌以外に上杉の軍勢を動かせる武将がいなかった。その意味では、豊島氏が挙兵したことで太田道灌が歴史の表舞台に登場するおぜん立てが出来上がったと言っても過言ではないのである。

 

◆江古田・沼袋の戦い

 このころ、豊島氏は石神井城の他に練馬城という城を持っていたが、これらの城が長尾景春の味方につくことで、河越城江戸城の連絡が遮断され、道灌の江戸城は孤立した状況に追い込まれたのである。道灌は事態を打開するために豊島氏の城を落とす必要に迫られたが、豊島氏の本拠地である石神井城は要害に築かれた難攻不落の城であった。

 この城は平城でありながら三宝寺池石神井川に囲まれた場所に築かれていたため容易に攻めることができなかった。特に城の北側に位置する三宝寺池は広大な湿地帯を形成しているので、北側から城を攻撃することは不可能であったと思われる。現在城跡は石神井公園となっているが、公園内には石垣や空堀の跡が点在し、そこかしこにかつての城の痕跡が残っている。道灌は江戸城を守るために、なんとしても石神井城を攻略し、豊島氏を倒さねばならなかったのだ。

 1477年3月太田道灌石神井城と練馬城を攻撃するために、相模から扇谷の軍勢を呼び寄せることにした。しかし、この時関東地方を豪雨が襲い、多摩川が氾濫したのである。そのため、扇谷の軍勢は多摩川を渡河することができなかったのだ。この時の多摩川氾濫の記録は、今も多摩地方の神社に残されている。東京都調布市ある布多天神は今からおよそ1940年も前に創建された歴史ある神社であるが、その御由緒によると、もともとこの神社があったのは古天神と呼ばれる場所で、現在よりも多摩川に近い場所にあったという。ところが1477年(文明九年)の多摩川の洪水で被害を受け現在の甲州街道沿いの場所に移されたのだということだ。多摩川の氾濫は流域に暮らす人々に大きな被害を与えただけではなく、合戦に向かおうとしていた相模や武蔵の軍勢にも大きな影響を与えに違いない。

 このような非常事態において、強いリーダーシップを発揮したのが太田道灌である。突然の災害によって軍事行動が中断され、兵士たちは混乱していたはずである。そのような状況の中で、道灌は素早く作戦を変更し、将兵たちに的確な命令を出していち早く軍勢の立て直しを図ったのである。想定外の災害が起きたことは、道灌が相模・武蔵の軍勢を掌握することにプラスに働いたかもしれない。なぜなら、これまでのところ道灌は父道真の影に隠れて合戦で大きな実績をあげていないのだ。江戸城将兵を除いて相模や河越の将兵たちが道灌の采配通りに動くかどうかは未知数であった。しかし、災害という非常事態の中で道灌が強いリーダーシップを発揮したことで、道灌は将兵たちの信頼を勝ち取ったのである。

 道灌は、弟資忠の軍勢を河越に派遣し河越城の守備を強化する一方、相模勢には溝呂木城、小磯城など相模国内にある景春方の城を攻撃させて攻略に成功し、さらに小沢城の攻撃に向かわせた。また、江戸城の人数が手薄になったので、上杉朝昌、三浦道含、千葉自胤、吉良成高、大森実頼などの軍勢を江戸へ呼び寄せたのである。

 景春方は、小沢城を救援するために小机城から軍勢を出したが、勝原(埼玉県坂戸市)というところで河越城から出撃してきた扇谷軍と合戦し敗れた。道灌は最初の戦いで見事な勝利を挙げたのだ。

 こうして相模の景春勢に打撃を与えた道灌は、いよいよ豊島氏の攻略に向かうのである。1477年4月13日太田道灌の軍勢は江戸城を出撃した。永享記によれば、このとき道灌に従っていた軍勢はわずか50騎の小勢であったという。道灌は豊島平右衛門尉が守っている練馬城へ向かうと、場内に矢を射込み、城の周辺に火を放って立ち去ったのである。道灌が練馬城で行った攻撃は、現代でいうところの威力偵察という作戦である。機動力のある少人数の部隊で敵の出方を窺いつつ攻撃を行ったのだ。

 練馬城からの急報を受けた豊島勘解由左衛門尉は、敵の軍勢が小勢であることを知ると道灌を討ち取る千載一遇の好機到来とばかりに石神井城を出撃し、石神井・練馬の軍勢で道灌を追撃しようとしたのである。しかし、豊島勢は城の外に出たことで道灌の作戦に嵌められてしまったのだ。先に道灌が練馬城で行った威力偵察は、石神井城から豊島勢を誘い出すための囮だったのだ。そうとも知らずに豊島勢は道灌の軍勢を追いかけたのである。

 豊島勢が大勢で追撃してきたので、道灌の部隊はあわてて逃げ出し始めた。しかし、これも道灌の作戦であった。「孫子の兵法」では「戦いの巧者は、敵に利益を見せて誘い出し、裏をかいて敵を倒す」とあるが、道灌はまさにこの戦法を使ったのだ。前述したように豊島氏の石神井城は難攻不落の城である。道灌はその城から敵を誘い出すために、わざと小勢の部隊で練馬城に威力偵察を行い、敵が城から出てくると逃げ惑ったふりをして味方の軍勢が待ち伏せしている江古田原に敵を誘導したのだ。江古田川と妙正寺川の合流点である江古田原には、上杉朝昌と千葉自胤の軍勢が別動隊となって待ち伏せしていたのだ。不意を突かれた豊島勢は江古田原の合戦でさんざんに打ち負かされ150騎が討ち取られたという。

 翌4月14日太田道灌は、豊島氏の本城である石神井城を取り囲んだ。このとき道灌が本陣を置いた場所が、現在の西武新宿線沼袋駅前にある氷川神社の境内である。氷川神社一帯は、高台にあり陣所とするのにふさわしい場所であった。かつて神社の境内には「道灌杉」と呼ばれる巨木があったということだ。この杉の木は、石神井城攻撃を前に太田道灌が戦勝を祈願して献植したもので、なんと昭和17年ころまで残っていたという。当時の記録によれば、高さ30m樹齢数百年の杉の巨木であったということだ。この巨木の根はいまでも残っており、氷川神社に参拝した人は道灌杉の根にもお参りするということだ。

 前日の合戦で大敗北を喫した豊島氏は、道灌の軍勢に城を囲まれるともはや抵抗することができず降伏を申し出たのだ。道灌は石神井城を破却することを条件に豊島氏の降伏を認めたが、豊島氏がいっこうに約束を履行しなかったので、味方に城の総攻撃を命じ石神井城は落城した。しかし、豊島勘解由左衛門尉は落城前夜、夜陰にまぎれて城から逃げ出していたのだ。

 こうして、太田道灌江戸城孤立という危機を脱し、武蔵南部と相模の景春勢を掃討することに成功したのだ。江古田・沼袋の合戦における鮮やかな勝利によって、道灌の武名は関八州に轟いたのだ。道灌は一気に関東大戦乱の主役に躍り出たのである。江古田・沼袋の合戦は、道灌にとっての桶狭間であった。

 

今回参考にした資料は下記の通りです。

 

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光詳出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

 

次回は道灌の最期をお届けします。

太田道灌 戦国時代前夜を鮮やかに駆け抜けた悲運の名将 前編ー江戸城築城

 東京都千代田区丸の内にある東京国際フォーラムは、ガラス張りの外観と船の竜骨をイメージしたデザインが印象的なビルである。この現代的なビルの一角に、古式ゆかしい狩装束に身を包んだ武人の像が置かれている。武人の名は太田道灌徳川家康に先駆けることおよそ130年前、道灌は江戸に城を築いた武将である。この時代の関東は戦乱の真っ只中にあった。道灌は戦乱に終止符を打つべく立ち上がった一代の英雄である。合戦に臨めばことごとく敵を倒し、名将道灌の向かうところ敵はいなかった。その武名は関八州に轟き、将兵たちは道灌を武神のように崇め、風に吹かれる草木のようにこぞって道灌になびいたという。

 しかし、今となっては道灌の武名を知るものなどほとんどいない。道灌の偉業は歴史の片隅に埋もれてしまったのである。かつて栄華を誇った江戸城の傍らで、ひっそりと道灌の銅像が佇んでいるだけである。

 

◆太田家の歴史

 太田道灌は謎多き武将である。その生涯を伝える歴史資料はわずかで、道灌自身が書いたとされる書状「太田道灌状」や室町時代の関東の戦乱を描いた軍記物である「永享記」「鎌倉大草紙」あるいは、道灌と同時時代に活躍し、道灌と深い交流のあった臨済宗の僧である万里集九が著した「梅花無尽蔵」などがその代表例である。太田家の先祖についても不明な点が多く、一説によれば太田家の先祖は丹波の出身で、鎌倉時代の後期に相模に移り住んだと伝わっているが、詳しい事はわかっていない。

 太田家の歴史に光が当たり始めるのは、室町時代の中頃からである。道灌の父太田道真が、関東管領山内上杉家の家宰として活躍していたことが永享記や鎌倉大草紙には書かれている。「永享記」には次のような記述がある。『家老太田備中守入道、智仁勇の三徳を兼ねたりき』つまり、太田道真は、知略に優れ、多くの将兵から信頼され、武勇に優れた類まれなる武将であったということだ。

 さて、ここで室町時代の関東についてその概要を説明せねばなるまい。室町時代の関東は、鎌倉に本拠地を置く鎌倉公方かまくらくぼう)によって支配されていた。鎌倉公方とは、足利尊氏室町幕府を開いた際に、関東を支配する役職として設置したもので、関東における将軍のような存在であった。その初代鎌倉公方に就いたのは、尊氏の三男である足利基氏であった。それ以来、鎌倉公方は基氏の子孫が代々世襲していたのだ。

 また、関東管領とは、鎌倉公方を補佐する役職であり、室町幕府における管領と同じような立場にあった。この関東管領職は上杉家が代々世襲していたが、上杉家は細かく家が分かれており、関東管領世襲する家は山内上杉家と呼ばれていた。山内上杉家は上野、武蔵、相模に広大な領地を所有する大勢力であったが、傍流の扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)家は相模の一部を所有する小勢力でしかなかった。

 太田家は、その小勢力である扇谷家の家宰を務めていたのである。家宰とは聞きなれない言葉であるかもしれないが、他の言葉に言い換えると家老や執事と言うことができる。家宰の役目は、当主の代理として家政を取り仕切る一方、戦場では侍大将を務めたり、所領内での年貢の徴収を行うなど多岐にわたっており大きな権限を握っていた。

 道灌は1462年に父の跡を継いで扇谷家の家宰に就くことになる。それ以前の道灌の記録は1457年に江戸城を築城したこと以外はほとんど残っていない。道灌は1432年の誕生と伝わっているが、子供の頃の記録は皆無と言っていいほどである。(ただし、江戸時代になると道灌びいきの江戸っ子によって神童道灌の伝説が作られている。)おそらく道灌は少年時代を鎌倉の扇谷家の近くで過ごし、鎌倉五山に通って様々な学問を習得していたのではないかと推測される。道灌は、築城術や兵法に長けていただけではなく、京都五山の僧侶たちとも交流を持った文化人であり、漢詩や和歌の才能にも優れていたのだ。

 さて、小勢力である扇谷家に飛躍の機会が訪れた。1438年四代鎌倉公方足利持氏室町幕府に反旗を翻し謀反を起こしたのだ。世に言う「永享の乱」である。このとき関東管領上杉憲実は室町幕府側につき持氏と戦うことになった。関東管領軍のなかで際立った活躍をしたのが扇谷持朝であった。そして、太田道真は扇谷家の家宰として持朝を支えていたのである。

 扇谷持朝らの活躍もあって、足利持氏の反乱は成就せず、敗れた持氏は鎌倉の寺で謹慎していた。しかし、時の将軍足利義教は持氏を許さず、関東管領に命じて持氏の命を奪ったのである。持氏の死によって、およそ100年間続いた鎌倉公方はいったん途絶えてしまった。そして、鎌倉公方家と山内上杉家の間には深い遺恨が残ったのである。

 足利持氏の反乱は鎮圧されたが、その後の関東には不穏な空気が漂っていた。関東武士の中には下総の結城氏や下野の小山氏のように鎌倉公方の復活を望む者たちがいたのだ。1440年彼らは足利持氏の遺児である春王丸と安王丸の兄弟を奉じて下総の結城城に立て籠り、室町幕府に敵対したのである。幕府は直ちに関東管領に命じて討伐軍を編成し、結城城へ向かわせたのである。この戦いが結城合戦である。結城合戦は1年にも及ぶ長い籠城戦であったが、最後には関東管領軍の総攻撃を受けて城は落城し、春王丸と安王丸の兄弟は捕えられ京都に護送される途中で命を奪われたのである。

 この結城合戦においても扇谷家の軍勢は大いに活躍し勢力を拡大した。やがて、扇谷家は相模一国の守護になるまで成長した。主家の勢力拡大によって家宰を務める太田家の力も徐々に大きくなり、太田道真は相模国守護代になっていたと考えられる。

 

◆関東の大戦乱「享徳の乱」始まる

 鎌倉公方を支持する勢力は結城合戦に敗れてしまったが、まだあきらめてはいなかった。彼らは室町幕府重臣に多額の賄賂を贈り、鎌倉公方の復活を嘆願していたのである。長年に渡る彼らの嘆願運動はやがて実を結び、1449年持氏の遺児万寿王丸が足利成氏と改めて鎌倉公方に就任することになったのである。しかし、足利成氏が第五代鎌倉公方に就任したことは、結果として関東に大戦乱をもたらすことになったのだ。

 先にも説明したように、永享の乱の結末で足利持氏は上杉憲実によって自害に追い込まれていた。そして、その憲実の息子である上杉憲忠が、あろうことか関東管領に就任したのである。成氏にとってみれば憲忠は親の仇も同然であり、二人の関係が良好に行くはずはなかった。さらに、成氏は結城合戦で二人の兄を失っているのである。鎌倉公方関東管領の間に対立が生じるのは必然であったのだ。

 

 1454年12月鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を襲撃し、憲忠の命を奪った。この事件をきっかけに享徳の乱が勃発したのである。成氏の軍勢は強く、相模国の島ケ原合戦や武蔵国での分倍河原合戦に勝利した。対する上杉勢は上杉憲顕、上杉顕房など大将格の武将を相次いで失い、常陸国へ敗走し小栗城に立て籠ったのである。

 勢いに乗る足利成氏は上杉勢の追撃に移り、1455年5月小栗城を陥落させた。一方、成氏謀反の知らせを受けた室町幕府は、駿河守護の今川範忠に対して足利成氏追討の命令を下した。東海五か国の軍勢を従えた今川範忠は鎌倉に乱入して焼き討ちを仕掛けたので、源頼朝によって創造された源氏の聖地鎌倉は灰燼に帰したのである。

 しかし、鎌倉を失った足利成氏は全く動じていなかった。鎌倉は相模国にあり、その周辺は上杉氏の勢力下にある土地である。成氏にとって鎌倉は軍事上の重要な土地ではなかったのだ。むしろ、足利成氏は、鎌倉公方の御領所である下総下河辺庄や下総猿島郡などを拠点にしようと考えていた。その周辺には、下総国の結城氏や千葉氏、下野国の小山氏、常陸国の小田氏など成氏の与党が支配する地域であった。こうして足利成氏は下総、下野、常陸の中心に位置する下総下河辺庄の古河城を拠点に定めたので、これ以降足利成氏古河公方と呼ばれたのである。

 

 享徳の乱は、瞬く間に関東一円に広がった。序盤の戦いでつまづいた上杉勢は、劣勢に立ち続け、なかなか態勢を立て直せずにいた。下総国では有力な武家である千葉氏が成氏派と上杉派に分かれて争っていたが成氏派が勝利し、上杉派の千葉胤直と胤宜親子は自害した。また、武蔵国では山内上杉家の家宰である長尾景仲が守る武蔵騎西城が成氏方の武田信長・里見義実の軍勢によって攻撃され、長尾勢は数百人が討ち取られて城は落城した。武田信長は、甲斐武田氏の一族であるが、足利成氏鎌倉公方の座に就くやいち早く拝謁して近臣となっていた武将である。1456年武田信長は、上総国の侵略に成功し真里谷城・長南城を築いて上総国を支配した。また、同じく成氏の近臣である里見義実は、武田信長の動きに連動して安房国の侵略に成功し十村城を拠点にして安房国を支配した。さらに成氏方の攻勢は続き、上杉方の本拠地である上野国の天命・只木山へ攻撃を仕掛けた。成氏の軍勢は、天命・只木山に通じる道を封鎖し兵糧攻めを仕掛けたのである。数か月に渡る攻防の末、天命・只木山の陣は陥落し上杉勢は本拠地を失ってしまったのである。

 こうして、1456年の時点では、関東八か国のうち常陸、下野、上総、下総、安房の五か国が古河公方支配下にあり、関東管領上杉氏の支配する国は相模、武蔵、上野の三か国しかなかったのである。

 

太田道灌は何故江戸に城を築いたのか

 劣勢に立たされた関東管領上杉氏は、古河公方の猛攻を防ぐため、利根川沿いに城を築き防衛線を構築することにしたのである。この時代の利根川は、徳川家康が東遷工事をする以前の利根川であるので、まさに、関東管領の支配する地域(西岸)と古河公方の支配する地域(東岸)との境界を流れ、最終的に江戸湾に注いでいたのである。

 上杉勢は、天命・只木山に代わる新たな本拠地として利根川流域の武蔵国五十子(いかつこ)(現在の埼玉県本庄市)に陣を構築した。五十子陣は「陣」と呼ばれているが、利根川を臨む台地の上に築かれており、土塁や枡形を備えた本格的な城であったと考えられている。上杉勢は、この五十子陣を北の起点として深谷城、松山城河越城利根川西岸を南下しながら城を構築し、利根川の河口部にも城を築くことにしたのである。

 この河口部の城づくりを任されたのが太田道灌であった。道灌が城を築く場所として定めたのが江戸湾を臨む江戸の地であった。当時の江戸湾には伊勢との間に航路がひらかれ遠国から船の往来があった。海路で運ばれてきた積み荷は江戸湊や品川湊で降ろされ、さらに利根川多摩川の水運によって関東の内陸部へ運ばれていったのだ。江戸は商業地や物流拠点として栄え、湊には鈴木、榎本、宇井など「有徳人」と呼ばれる大商人が店を構えていた。また、江戸湊や品川湊には多くの船が出入りしていたが、江戸を支配する者は、それらの船から「帆別銭」という税金を徴収し大きな富を得ることができたのである。太田道灌は、経済・物流の拠点である江戸を支配することで自らの勢力を拡大し、城を築くことで江戸の守りを固め、利根川の対岸に存在する古河公方の勢力に目を光らせていたのである。

 太田道灌の行動は、戦国時代において上杉謙信織田信長が実施した富国強兵策と同じやり方なのである。だからと言って、謙信や信長が道灌をお手本にしたわけではない。群雄割拠する戦国時代において勢力を拡大していくためには、海に面した商業地を支配し、そこから巨万の富を得ることが理にかなっており、頭の良い武将ならば必ず思いつく方策であったということだ。太田道灌はそのような戦国武将の先駆者であったのだ。

 

 最近、徳川家康が来る前の江戸は、寂しい漁村であったという話がTVや本で紹介されているが、私はこの説に賛成できない。たしかに、太田道灌が拠点とした江戸は、京都や堺など当時の大都市と比べたら小規模な都市でしかないが、粗末な小屋が数軒あるだけの辺境の地ではなかったはずだ。徳川家康が江戸に拠点を置いたこと自体が、そのことを証明していると思う。

 家康が豊臣秀吉の命令で関東へ国替えになったのは1590年のことである。当時の家康は秀吉に対して恭順の姿勢を見せてはいるが、腹の底には天下取りの野望を秘めていたはずである。その家康が荒野のような場所を本拠地とするであろうか?家康は関東を手中に収め、一刻も早く西の秀吉に対抗したかったはずである。そのためには、何も無い荒野をいちから開発して城下町を建設するのではなく、既存の城や都市機能を土台にして再構築し、早急に強固な軍事拠点を築く方が理にかなっていたなずである。そして、家康は関東の中でどこでも自由に本拠地を選ぶことができたのだ。

 例えば、北条なきあとの小田原に城を築くこともできたであろうし、家康が源氏の末裔である称するならば、源氏の聖地である鎌倉に城を築くことも効果的であったはずだ。それにもかかわらず、家康は数ある候補地の中から自分の意志で江戸を選んだのだ。家康は非常に慎重な武将であり、リスクを冒すよりも保守的な考え方に従って堅実な方策を選択する武将である。その家康が江戸を選択した理由は、江戸が海と川が接する位置にあって湊が開かれ、商業地や物流拠点として既に機能していたことに加えて道灌が築いた難攻不落の江戸城を使わない手はないと考えたからであろう。

 もっとも、家康は関ヶ原の合戦に勝利して江戸幕府を開いたおりに、江戸城を大改修してしまったので、道灌時代の城の痕跡は全く残っていないのだ。あえて言うならば、現在の皇居東御苑にある梅林坂は、道灌が江戸城内に天満宮を建立した際に植えた梅林のあった場所であると伝わっている。

 

◆道灌の江戸城

 それでは、太田道灌が築いた江戸城について説明しよう。道灌が江戸城を築いた場所は、現在の皇居東御苑本丸跡地付近であると考えられる。この頃、現在のJR新橋駅から日比谷を経て皇居前広場および丸の内一帯は、日比谷入江と呼ばれる海が広がっていた。日比谷入江は、現在のJR山手線の新橋~浜松町間で江戸湾と繋がっていたのだ。道灌はこの日比谷入江に突き出た台地の上に城を築いたのである。台地の東側にある平川濠、大手濠、桔梗濠は日比谷入江に注いでいた川の名残である。つまり、道灌の江戸城は川と海に囲まれた台地の上という天然の要害を利用して築かれた城であったのだ。

 当時の江戸城の様子を伝える貴重な資料がある。1476年に京都五山の僧侶たちが道灌の江戸城を称えるために作った詩文があるのだ。それが「寄題江戸城静勝軒詩序」である。2018年に国立公文書館で開催された企画展「太田道灌と江戸」には、現存する最古の「寄題江戸城静勝軒詩序」を写した文書とその意訳が展示されていたが、ここではその意訳を紹介する。

 

 城の高さは約30メートルで、崖の上にそびえたち、周囲を数十里にわたって垣が囲っている。

 城の外側には堀があって、常に水が湛えられており、堀には橋が架かっている。

 門の表面には鉄板が付けられ門の垣根には石が積まれ、城の本塁に至る通路は石段であり左右に迂回しながら登る構造になっている。

 城の中には、道灌の居館である「軒」と、その背後に「閣」(高い建物)があり、その側には家臣の住居が翼を広げるように建ち並び、その他に、「戌楼」(物見櫓)・「堡障」(防御施設)・「庫痩」(倉庫)・「厩」・廠(武器庫)がある。

 「軒」(道灌の居館)の南には「静勝」、東には「泊船」、西には「含雪」と名付けられた建物がある。

 城の東側には川(平川)が流れ、折れ曲がっていて南方の海(日比谷入江)に注ぐ。海には大小の商船が行き交う様子と漁船の篝火が、生い茂る竹と遠くの雲間から見える。

 商船と漁船は高橋のしたに係留され、そこに集まった人々が毎日市を開いていた。市では安房の米、常陸の茶、信濃の銅、越後の矢竹、相模の旗や指物を持った騎馬武者と歩兵、泉州(中国)の珠、犀角(サイの角、粉末にして薬用にする)・すぐれた香料を始め、塩魚・漆・からむし(織物の原料となる草)・梔(くちなし)・茜・膠・薬など様々な取引がおこなわれている。

 

 これは、道灌と同時代を生きた京都五山の僧侶が、築城から20年後の江戸城と城下の様子を描いた詩文である。道灌の城を褒め称えるために多少の誇張はしてあるかもしれない。それでも、この詩文からは、高さ30メートルの崖の上に築かれ、水を湛えた堀や堅牢な城門や石垣によって守られた城の外観や、道灌の居館や家臣の住居、楼閣、櫓、倉庫、武器庫など数多くの建物が建ち並ぶ場内の様子を窺い知ることができるのである。また、日比谷入江から江戸湾にかけて多数の商船や漁船が行き交う様子は壮観であり、城下の市場の賑わいも目を見張るものがある。これが、徳川家康が来るおよそ130年前の江戸の賑わいなのである。

 一方、1485年に江戸城を訪れた禅僧にして歌人の万里集九も「静勝軒銘詩」を残しているが、その序文では江戸城内で道灌が兵士たちを鍛えていた様子が描かれている。道灌は江戸城内に弓場を造り、数百人の将兵に弓の訓練をさせていた。道灌は、兵士たちの弓の腕前を上中下の三ランクに分けて評価し、訓練を怠っている者からは罰金を取ったという。その罰金を積み立てて、訓練の後に兵士たちが食べる茶菓子を買っていたというのだ。

 この万里集九の文書に従えば、道灌は江戸城で数百人の兵士を養っていたことになる。おそらく、道灌はこの兵士たちに領地を与えるのではなく、金銭を給料として与えていたのだ。道灌は既に室町時代の中期において兵農分離を行い常時軍事行動を行うことができる質の高い軍隊を持っていたことになる。

 ここに、道灌の先進性が現れている。戦国時代になると上杉謙信織田信長は、兵農分離を行い強力な軍事力を持つことになるのだが、道灌は彼らよりも100年も前にそれを実現していたのだ。兵士たちを農村から切り離し、戦いに従事する戦闘集団とするためには、兵士たちを養う経済力が必要になるが、その経済力の源泉が湊と市場を持った江戸という都市の存在なのである。前述した「寄題江戸城静勝軒詩序」に描かれていた江戸城下の市場の賑わいを思い出して欲しい。道灌は江戸の経済力を背景に富を獲得して兵士を養っていたのである。

 すなわち、太田道灌は、戦国時代の代名詞ともいうべき富国強兵を実践していたのだ。道灌が鍛えた兵士たちは足軽と呼ばれている。それが、戦国時代の足軽と同様の意味なのかは不明であるが、戦場の戦いぶりからすると、彼らが機動力に優れた兵士たちであったということが窺い知れるのである。

 中編は、この兵士たちの活躍を紹介します。

 

今回参考にさせていただいた資料は以下の通りです。

図説 太田道灌 黒田基樹 戒光祥出版

関東戦国史(全) 千野原靖方 崙書房出版

武士はなぜ歌を詠むか 小川剛生 角川学芸出版

国立公文書館 展示品 「寄題江戸城静勝軒詩序」

感謝 アクセス数が一万件を突破しました!

 歴史楽者のひとりごとをご覧のみなさまへ

 昨夜当ブログのアクセス数が一万件を突破しました。

 一年九か月前に始めたブログですが、私が考えていたよりもはるかに多くの方々からアクセスを頂き、本当に感謝しております。ありがとうございます。

 今は長い自粛生活が続き日本中の皆さんが疲れている状況です。一日も早くこの状況を抜け出し、また自由に外出して好きなことができる日常が戻ることを願ってやみません。そのためにも、今少しの辛抱だと思います。皆さん一緒に頑張りましょう。

 

 

一杯の日本酒から辿る歴史 佐竹氏

 安倍政権は緊急事態宣言を出しましたが、新型コロナウィルスの猛威は一向に衰える気配をみせません。そのおかげで私たちは不要不急の外出を控え、家にこもる日々が続いています。おかげで、本を読む機会はずいぶん増えましたが、それでも時間はあり余るほどあります。時間を持て余した私は、ついつい家で一人酒を楽しむことになってしまいます。最近では東京の小売店でも全国各地の日本酒が手に入るのですが、そのなかでも私が気に入っているのが秋田の「福小町」というお酒です。純米酒でありながら手ごろな価格で、きりりとした味わいの美味しいお酒です。そのラベルを見ると「創業元和元年 秋田 木村酒造」とあります。

 元和元年(1615年)といえば徳川家康大坂城を攻撃し豊臣家が滅亡した大坂夏の陣が起こった年です。その前年に起きた冬の陣も含めた大坂の陣については司馬遼太郎の「城塞」や津本陽の「乾坤の夢」あるいは池波正太郎の「真田太平記」など歴史小説の名作で取り上げられているので、あえて私が何かを言うことはありません。そこで今回の歴史楽者のひとりごとでは、元和元年に秋田を治めていた大名佐竹氏について語りたいと思います。

 佐竹氏はもともと常陸の大名で、天下分け目の関ヶ原の合戦では東西どちらの陣営にもつかず中立の立場をとっていました。しかし、佐竹氏は裏では石田三成上杉景勝と密約を結んでいたのです。そのことを知った徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利した後に佐竹氏を罰し秋田への国替えを命じたのです。そのため、佐竹氏は常陸54万石の大大名から秋田20万5千800石の大名へとなってしまいました。

 佐竹氏の先祖は、清和源氏源頼義の息子である新羅三郎義光です。義光の子孫には佐竹氏の他にも甲斐の武田氏がおり源氏の名門の家柄であるのです。佐竹氏と名乗るようになったのは平安時代の終わりころで、新羅三郎義光の孫にあたる昌義が常陸国北部の久慈川山田川の合流点近くに位置する久慈郡佐竹郷を本拠地とした時からだといわれています。ちなみに、武田氏もはじめは常陸国那賀郡武田郷を本拠地としていたのですが、故あって甲斐へ移り住んだのです。

 さて、佐竹氏が産声をあげた時代は、源義朝平治の乱に敗れ源氏は衰退し平家の全盛期でした。そのため佐竹氏は清和源氏の子孫でありながらも家運隆盛のために平家に接近し、平家の力を借りて常陸国での勢力を広げる道を選択しました。佐竹昌義の息子たちは、平家政権の下で「常陸介」に任じられ大きな勢力を持つ一族となっていたのです。常陸国平安時代より親王国司に任じられる重要な国でした。基本的に親王常陸国司に任じられても任地に赴くことはなく都に住んだままでしたので、国司の補佐官である「常陸介」は在地の最高位の役職であったのです。

 しかし、治承四年(1180年)源頼朝が打倒平家のため挙兵すると状況は一変しました。頼朝が平家打倒を成し遂げると、平家方についていた佐竹氏は窮地に陥りました。佐竹氏は、やむなく頼朝の軍門に下ることにしました。頼朝が奥羽州藤原氏征伐に向かうと、その軍勢に加わることで佐竹氏はかろうじて滅亡を逃れたのです。その後も佐竹には暗い時代が続きました。

 佐竹氏に転機が訪れたのは鎌倉時代の末でした。佐竹氏は足利尊氏の下につくことで息を吹き返したのです。足利氏も佐竹氏も同じ清和源氏の子孫ですが、足利氏が清和源氏嫡流である八幡太郎義家の子孫であるのに対して、佐竹氏は新羅三郎義光の子孫であるという違いが両者の間に上下関係を生んだのでしょうか。ところが、最近の研究によれば同じ八幡太郎義家の子孫である足利氏と新田氏の間にも上下関係があり新田義貞足利尊氏の配下にいたという説が出ています。そうすると鎌倉幕府を倒したのは新田義貞なのに、その後鎌倉を支配したのは足利尊氏であるということがうまく説明できると思います。

 話を佐竹氏に戻します。佐竹氏は鎌倉幕府打倒の時から観応の擾乱南北朝の争乱という長い戦乱のなかで首尾一貫して足利尊氏に従っていました。そのため尊氏からの信頼を得ることができ常陸国の守護に就くことができたのです。室町時代の関東は足利尊氏が設けた鎌倉府が関東十ヵ国を支配していました。鎌倉府の長官を鎌倉公方かまくらくぼう)といい、初代鎌倉公方の地位に就いたのは尊氏の三男である基氏でした。以来、鎌倉公方は基氏の子孫が世襲していくことになるのです。

 鎌倉公方は軍事力を行使して関東を平定し、安定した支配体制を確立しました。二代鎌倉公方足利氏満の末期には、鎌倉公方を支える関東の有力な武将として関東八家と呼ばれる武家が定められるようになりました。佐竹氏は、その関東八家に名を連ねており、関東の武家のなかでも特別な地位を持つ存在になっていました。

 室町時代前半の関東は、鎌倉公方の支配のもとでおおむね安定した時代でしたが、四代鎌倉公方足利持氏室町幕府と対立し1438年に永享の乱を起こすと、関東は戦乱の時代に突入していきます。さらに、持氏の息子である足利成氏が五代鎌倉公方になると、公方の補佐役である関東管領鎌倉公方が対立し、1454年から1477年にかけて享徳の乱という長い戦乱起きました。少し遅れて京都では応仁の乱が勃発します。この戦乱の中で鎌倉公方は衰退し、関東の秩序は乱れて次第に戦国時代へと移行していくのです。

 関東の戦国時代の歴史は、北条早雲を祖とする小田原北条氏を軸に動いていました。関東の諸将たちは、北条氏の味方につく武将と北条氏の敵方になる武将とに分かれて戦乱に明け暮れることになるのです。北条早雲の孫である北条氏康は名うての戦上手でした。氏康は1546年河越合戦に勝利し勢いを得ると、関東管領上杉憲政に対して激しい攻勢を仕掛けました。1552年北条氏康に敗れた上杉憲政は、関東から脱出し越後の長尾景虎(後の上杉謙信)のもとに逃げ込むのです。北条氏の優勢が続く関東において、佐竹氏は反北条の立場を取り、常陸への進出を狙う北条氏と戦っていました。佐竹氏は北条氏康の強力な軍事力に対抗するため、越後の上杉謙信の力を借りることにしたのです。

 永禄三年(1560年)は、織田信長桶狭間今川義元の首を奪った年ですが、関東では、越後から越山してきた上杉謙信が瞬く間に関東を席捲し、翌年三月には北条氏の小田原城を包囲するまでに至ったのです。この時、佐竹氏は謙信に従って小田原に参陣し、小田原城を包囲する軍勢に加わっていました。しかし、上杉謙信による関東制覇は実現せず、逆に謙信が関東に進出したことで、甲斐の武田信玄も関東に干渉するようになりました。関東の戦国時代は、上杉、武田、北条が三つ巴で争う展開になったのです。戦国時代を代表する武将である謙信や信玄の影に隠れて、佐竹氏の活躍はあまり知られていませんが、佐竹氏は北関東の覇権をかけて筑波を本拠地とし北条の後押しを受けた小田氏と激しい戦いを繰り広げていました。また、関東の北辺を本拠地としていた佐竹氏は、北条氏と手を結んだ奥羽の葦名氏とも抗争を繰り返していたのです。そのころ活躍していたのが、鬼義重と呼ばれた武将佐竹義重です。

 しかし、天正十八年(1590年)に豊臣秀吉が小田原攻めを行い北条氏が滅亡すると、関東の戦乱にも終止符が打たれました。小田原城攻めに参陣し、秀吉の傘下に入った佐竹義重は、常陸54万石の支配権を秀吉に認めてもらうことができたのです。ところが、その後の佐竹氏は、関ヶ原の合戦時における微妙な態度を徳川家康にとがめられ、常陸から秋田へと国替えを命じられたのです。

 鎌倉幕府の成立期や徳川幕府の成立期といった歴史の大転換の時に決まって佐竹氏は窮地に陥るのですが、その難局をどうにか乗り切って滅亡することはありませんでした。鎌倉入りを果たした頼朝がすぐに西へ進軍しなかったのは、平家方についている佐竹氏の存在が気なったからです。また、徳川家康は上杉征伐を中止し大坂の石田三成と決戦することを決断したのですが、なかなか江戸から動こうとしませんでした。家康もまた、佐竹氏の動静を見極めるため江戸を発進することができなかったのです。後に征夷大将軍となる源頼朝徳川家康という二人の英雄をためらわせたのは、新羅三郎義光の子孫である清和源氏の名門佐竹氏の無言の圧力だったのです。頼朝も家康も佐竹氏との決戦を避け、味方につけることを選択したのです。無事これ名馬といいますが、足利氏、今川氏、武田氏といった名だたる源氏の名門が衰退していったなかで、戦国時代を生きのびた佐竹氏は近世大名として幕末まで存続したのです。

 冒頭に紹介した秋田の地酒「福小町」を造っている木村酒造は、豊臣秀吉重臣であった木村重成の一族が興した蔵元だそうです。秀吉と佐竹氏の縁が木村氏の一族を秋田へ招いたのかもしれません。木村重成は、豊臣秀頼からの信頼も厚く、家康の豊臣包囲網が迫ってくるなかで、豊臣方の主戦派として知られていました。大坂冬の陣では後藤又兵衛とともに活躍し、木村重成の武名は全国に知れ渡ったということです。その後、重成は大坂夏の陣において徳川四天王のひとりである井伊直正の軍勢と戦い、その合戦のさなか討ち死にしたと伝えられています。重成の髪には香が焚き染められており、その死の覚悟のほどに井伊方の武将たちも感じ入ったと云われています。

 今宵は、一杯の日本酒から佐竹氏の数奇な歴史を辿ることができました。

 

※今回参考にさせていただいた資料

木村酒造のホームページ

源氏と坂東武士 野口 実  吉川弘文館

関東戦国史(全) 千野原 靖方 崙書房出版

新詳日本史 (株)浜島書店

武家家伝 佐竹氏の項

Wikipedia 木村重成の項

 

 

戦国大名を生み出した足利義満の政策

 室町幕府の3代将軍足利義満室町幕府の全盛期を築き上げましたが、しっかりとした後継者を育てることなく急死してしまいました。義満の跡を継いだ凡庸な息子たちは歴史の大転換点において足利将軍家の繁栄を継続するための未来設計図を持ち合わせておらず、いたずらに時を費やし足利将軍家を衰退させるきっかけを作ってしまいました。しかし、足利義満のとった政策そのものの中にも、のちに戦国大名が出現してくる下地が内在していたと考えられるのです。そこで今回はそのことについてお話します。

 1378年義満は京都の室町に壮麗な邸宅を造営し、ここで政治をおこなったので足利将軍の幕府を室町幕府と呼ぶようなりました。義満は管領や侍所、政所、評定衆などを設置して幕府の政治機構を整えました。「三管領」「四職」と言われるように将軍を補佐する管領には足利氏一門の細川・斯波・畠山の三氏が交代で任命され、京都の内外の警備や裁判を司る侍所の長官には有力守護の赤松・一色・山名・京極の四氏から任命されるのが慣例でした。義満は有力守護大名を京都に集め室町幕府の運営に当たらせていたのです。義満がこうした体制を作ったのは、有力守護大名を京都に住まわせることで、彼らの動きを監視し、足利将軍家に対抗する動きを牽制するためでした。在京した有力守護大名たちは連歌の会などを催し、華やかな都の生活を楽しむようになっていました。

 有力守護大名たちが都の華やかな生活を満喫している陰で、守護大名の領国では新たな勢力が台頭し始めていました。それが、在京守護に代わって領国を統治している守護代や地方の有力な国人たちでした。守護代や有力な国人が勢力を拡大することを可能にしたのは、ただ単に守護が領国を留守にしていたからではなく、室町時代になって経済が大きな発展をとげたからです。

 足利義満は瀬戸内海の海上交通権を手に入れ明との国交を開き日明貿易を推進しました。明国からは大量の銅銭が輸入され日本国内で流通するようになりました。この貨幣経済の発達こそが、地方の守護代や国人衆の勢力を強める大きな原動力となったのです。義満の時代には、日本各地に荘園が存在していました。荘園の所有者は天皇や上級貴族や大きな力を持つ寺社でした。しかし、荘園の所有者は直接領地へいって荘園経営をするのではなく、経営は現地にいる者にまかせていました。この荘園の経営を引き受けていたのが在地の守護代や有力国人であったのです。

 守護代や有力国人は荘園経営を請け負うことで大きな経済的利益を得ることができたのです。それを可能にしたのが、銅銭の大量流通による貨幣経済の発達です。たとえば荘園で生産された米は、米のまま荘園領主に年貢として納められるのではなく、堺など商業の発達した都市にある市場にもちこまれ、高い相場で売ることができれば大きな利益を得ることができたわけです。守護代などは、荘園経営の請負契約を交わした時にとりきめた年貢の金額よりも大きな金額を稼ぎだした場合は、その余剰部分を自分の利益にすることができるわけです。米だけではなく地方の特産物や工芸品など様々な商品が貨幣経済のもとで取引されました。こうして在地の守護代や国人たちは貨幣経済によって大きな力を持つことができるようになったのです。すなわち戦国時代に活躍する戦国大名たちには、現代の企業経営者にもつながるような経済感覚の持ち主がいたということです。彼らはその経済力を背景にして軍備を増強したり、有能な人材を確保したわけです。織田信長は当初、明智光秀を銀七千貫というお金で召し抱えたと言われています。領地を与えなくてもお金によって家臣を召し抱えることができたのです。経済力のある武将は、お金で雇った家臣や兵士たちに、お金で準備した武器を持たせ隣国へ戦いを仕掛けて領地を拡大することができたのです。

 このように足利義満が行った日明貿易の推進は経済的な素養に優れた人物が台頭する機会を作ったのです。油売りであった斎藤道三美濃国の支配者になれたのにはこのような背景があったのです。また尾張国守護代の分家である織田信秀が台頭したのは、津島という商業地を支配し、そこから生まれる経済力をもとにして尾張半国を支配できる力を手に入れたからです。

 経済力を得て勢力を拡大した守護代や有力国人たちが、自分の持っている強大な力に気が付いたのが「応仁の乱」でした。応仁の乱は、京都が主戦場になったのですが、その戦場で必要な兵士、武器、兵糧は全て地方の領国に存在するのです。つまり、戦いの勝敗を左右する人、物、金は在地の有力者が押さえているのです。応仁の乱が膠着状態に陥ると、都で戦っている山名と細川の両陣営は、戦いを有利に進めるために在地の有力武将を自分の陣営に引きこもうとしました。その代表的な例が、越前国守護代である朝倉氏です。朝倉氏がいた越前国は、琵琶湖の水運を利用して都へ兵士や兵糧を運び込める重要な場所に位置していたのです。朝倉氏を味方にした陣営が戦いに勝利できる可能性が断然高くなるわけです。朝倉氏のもとには、山名、細川の両陣営から味方につくようにという誘いがきました。その見返りとして両陣営とも守護職を用意していたのは言うまでもありません。こうして、在地の守護代や有力国人は自分が持つ大きな力に気が付いたのです。「都にいる守護になりかわり自分が領国を直接支配してやる」という下克上が在地の守護代や有力国人を戦国大名へと変貌させるきっかけとなったのです。阿波国守護代であった三好氏は、守護の細川氏を押しのけ天下の支配者までのし上がったのです。

 足利義満室町幕府の全盛期を築き上げたのですが、「三管領」「四職」「日明貿易の推進」といった義満の政策の中に、地方に住む有力者たちが戦国大名へと成長していく種が含まれていたのです。こうしてみると足利義満貨幣経済の発達という新たな歴史の流れを作り出したにもかかわらず、自分が急死したことでその歴史の流れる方向を大きく転換させたといえるのかもしれません。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅すわりしままに食うは徳川」という江戸時代につくられた落首がありますが、その天下餅の原材料であるもち米の苗を植えたのは足利義満であったのです。

 

※今回参考にした資料は下記の通りです。

  

日本社会の歴史(下) 網野義彦 岩波新書

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

詳説 日本史 山川出版社

新詳日本史 (株)浜島書店

室町時代を戦国時代へと向かわせた歴史的大転換点 足利義満の死

1.いまは歴史の大転換点

 日本はいま新型コロナウイルスの猛威にさらされ非常に困難な時代を迎えています。ほんの数か月前まで日本の未来は希望に満ちあふれているような気がしていました。インバウンドによる好景気、平成から令和の改元と新天皇のご即位による祝賀ムード、そして間近に迫っていた2020年東京五輪など安倍政権が作り出したなんとなく明るい未来予想図によって日本人の心は浮き立っていました。しかし、突然襲ってきた新型コロナウィルスの流行によって、日本の未来には暗雲が立ち込めています。私たちはなんとかして新型コロナウィルスに立ち向かい、この危機的状況を乗り越えなければなりません。まさにいま私たちは、歴史の大転換点に立っているのです。現在の私たちの決断と行動がこれからの日本の未来を決めると言っても過言ではありません。私たちはそのこを肝に銘じて生きていかねばなりりません。

 さて、日本の長い歴史の中では何度も現在と同じような歴史の大転換点がありました。その中で、今回は室町時代の大転換点に注目してみたいと思います。室町時代から戦国時代への転換点といえば、みなさんがすぐに思いつくのは「応仁の乱」でしょう。畠山家の家督相続争いに端を発した戦乱は京の都から瞬く間に全国へ広がり、日本は戦国時代へと突入していきました。応仁の乱を契機に戦乱が日本全国に拡大したのには様々な要因があるのですが、今回私が取り上げるのは、足利将軍家の衰退です。大河ドラマ麒麟がくる」においても向井理さん演じ13代将軍足利義輝は全く無力な将軍に落ちぶれています。いったいどうして足利将軍家の力は弱体化したのでしょうか。

 足利将軍家が衰退したきっかけとして私が注目するのは、3代将軍であった足利義満が急死したことです。室町幕府の全盛期を築き上げた足利義満は将軍の座を息子の義持に譲り自らは天皇の准父(名目上の父親)として上皇のように振舞い、義持の異母弟義嗣を皇太子の地位につけることに成功していました。順調にことが進んでいけば義嗣が次の天皇になることは間違いないという矢先、1408年足利義満は急死してしまいました。この青天の霹靂のような出来事によって、永遠の繁栄が続くかと思われていた足利将軍家の未来に暗雲が立ち込めたのです。まさにこの時の状況は、現在の日本の状況に通じるものがあるのです。そこで、室町時代足利将軍家が衰退していった歴史を調べることは、私たちがこれから決断や行動すべき時に何か参考になるものがあると思うのです。

 

2.足利義満の歴史的業績

 まず、室町幕府の全盛期を築いた足利義満の歴史的業績について注目してみましょう。

 ①南北朝の合体(1392年)

 ②朝廷から京都の市政権、段銭・棟別銭の徴収権を吸収

 ③室町に「花の御所」を造営

 ④有力守護大名の勢力削減

 ⑤日明貿易の推進

 ⑥五山・十刹の制の整備

※新詳日本史((株)浜島書店)より引用しました。

 上記に挙げた6つの歴史的な業績によって足利義満足利将軍家の「支配力を強化」し「経済力を向上」させ「強力な軍事力」を持つことによって専制支配体制を確立させたのです。

 室町時代とは戦乱の時代でした。後醍醐天皇足利尊氏新田義貞らは協力して鎌倉幕府を滅亡させましたが、そののち後醍醐天皇新田義貞足利尊氏は対立し激しく争うようになりました。新田義貞を倒した足利尊氏征夷大将軍となり京都に幕府を開き武家政権を樹立しましたが、後醍醐天皇は吉野へ逃れ南朝を開いて尊氏に対抗しました。南北朝の対立は全国に波及し戦いは果てしなく続いていました。

 2代将軍足利義詮は、南朝方との戦いを有利に進めるために西国の山名氏や大内氏など守護大名の協力を得たのですが、その一方でこれら守護大名の地域支配権を認めたので西国の守護大名は大きな勢力を持つようになったのです。こうして、室町幕府は有力守護大名の力を借りて南朝の勢力を弱体化させることに成功しました。ところが、3代将軍義満は、南朝の勢力が衰えてきたところを見計らって、今度は有力守護大名の勢力を弱体化させ足利将軍家の支配力を強化しようとしたのです。

 

3.足利将軍家の支配力強化

 義満のとった守護弱体化策はじつに巧妙でした。美濃、尾張、伊勢に勢力を張っていた土岐氏に対しては家督相続に介入し土岐氏を分裂させ弱体化させました。山名氏に対しても一族の内部対立に介入し山名氏清を挑発して反乱を起こさせました。義満は周防の実力者大内氏を使って山名氏清の反乱(明徳の乱)を抑え込みました。一時は山陰を中心に11か国の守護を独占していた山名氏は、わずか3か国の守護に落ちぶれてしまいました。さらに義満の守護弱体化策は続きます。義満の矛先は、山名氏に代わって西国の太守となった大内氏に向けられました。危機を悟った大内氏は、鎌倉公方足利満兼と手を結び東西で同時に反乱を起こすことを計画しましたが、鎌倉公方の反乱は不発に終わりました。大内氏は単独で反乱(応永の乱)を起こしましたが、義満の直轄軍によって倒され、大内氏の勢力もまた衰えてしまったのです。こうして、足利義満は有力守護大名の勢力を弱体化させる一方、南北朝を合体させることにも成功し敵対する勢力を全て抑え込み強力な支配体制を確立することができたのです。

 

4.経済力の強化

 足利義満大内氏に戦いを仕掛け倒したのは支配力強化のためだけではありませんでした。義満の目的は、大内氏が支配している瀬戸内海の海上交通権を奪い、朝鮮や中国と直接交易をすることでした。明との国交を開いた義満は日明貿易を推進し、足利将軍家の経済力を強化したのです。当時明から日本に輸入された主なものは銅銭でした。銅銭が日本国内に流通することで貨幣経済が発達しました。これは、余剰生産物を富として蓄積することができることを意味しているのです。

 強力な支配力を手にした足利将軍家は全国各地に直轄領(御料所)を所有していましたが、そこで生産される余剰生産物も貨幣に交換され富として蓄積できるのです。また、義満は室町時代の金融業者である土倉や酒屋に対する課税徴収権を朝廷から奪いました。このようにして経済力を強化した足利将軍家は、将軍直轄の軍勢を持つことができたのです。

 

5.足利将軍の直轄軍

 室町時代最後の将軍となった足利義昭は軍事力を持っていなかったので、諸国の戦国大名に声をかけてその力を借りようとしていたわけです。義昭の呼びかけに応じて軍事力を提供したのが織田信長でした。義昭は信長の軍事力によって将軍となったのですがその後両者は対立し、信長は義昭を追放し室町幕府は滅びたのです。

 しかし、3代将軍義満の時代には、足利将軍は自前の軍勢を持っていたので守護大名の軍事力を借りる必要はなかったのです。前述したように、将軍の直轄軍は西国の太守大内義弘の軍勢を倒すほど強力な軍勢でした。この強力な軍事力によって足利義満は敵対する勢力を全て倒し、専制支配体制を確立することができたのです。

 

6.義満の王権奪取計画

 1394年足利義満は将軍の座を息子の義持に譲り自らは太政大臣に就任します。やがて義満は太政大臣も辞任して出家してしまいます。豊かな経済力と強力な軍事力を手にし史上最強の権力者となった足利義満にとって、もはや世俗の肩書など必要なかったのです。そして、その強大な権力によって皇室にも圧力をかけ義満は天皇の准父(名目上の父)となり4代将軍義持の異母弟である足利義嗣を皇太子とすることに成功していました。1402年明国の皇帝から日本に送られてきた国書には、日本国王として義満の名が記載されていたのです。まさに義満の栄華は頂点に達していました。しかし1408年足利義満は急死し義満の王権簒奪計画は成就しなかったのです。

 

7.義満の死後

 希代の英雄足利義満の急死によって栄華を極めていた足利将軍家は突然歴史の転換点に立つことになりました。義満はたった一代で室町幕府の全盛期を築き上げたのですが、ただひとつやり残していたことがありました。それは、自分の後継者を育てていなかったということです。義満は息子の義持に将軍の座を譲り渡していましたが、実権を握っていたのは義満でした。言わば、4代将軍義持は飾り物にすぎなかったのです。義満が溺愛していたのは義持ではなく異母弟の義嗣でした、義満は義嗣を天皇にすべく様々な手を打っていたわけです。しかし、この義嗣も甘やかされて育った凡庸な人物だったようです。義満の死から8年後のこと、足利義嗣は関東の上杉禅秀と手を結び室町幕府を倒す計画を立てるのですが、実際は何もできず逃走してしまいます。義嗣は反乱の加担した罪で幕府に捕らえられ殺されてしましました。

 義満が急死した後、後継者候補となったのは義持と義嗣という二人の凡庸な息子たちでした。室町幕府重臣となっていた守護大名たちは、この機を逃さず自分たちの勢力を挽回しようと考えたのです。おそらく幕府の重臣たちは、義持に対して「自分たちの意に従わなければ義嗣を義満の後継者にするぞ」という脅しをかけたのです。義持は自分の保身だけを考えて、幕府の重臣たちに従ったのでしょう。その結果、義持は将軍の地位にとどまることができたのです。

 実は義満の死後、貴族たちは義満に「太上天皇」の称号を贈ることを正式決定していました。しかし、室町幕府は称号を受けることを断ったのです。天皇と将軍が結びついて足利将軍による専制的な支配が継続することを守護大名は拒否し、義満によって削がれてしまった自分たちの力を取り戻す方向に舵を切ったのです。

 足利義持守護大名たちと安易な妥協を図ったために、足利将軍家が繁栄する道を閉ざしてしまったのです。義持は日本の最高権力者としての基本設計図を描いていなかったがために、歴史の大転換点において何もできずただ傍観していただけでした。この時点で義持が、自分が主導権を握って幕府の政権運営を行っていこうという強い意志と具体的な計画を持ち、義持の考えに同調し協力してくれる守護大名と手を結んでいれば、歴史の流れは変わっていたかもしれません。

 さらに義持の息子で5代将軍となった足利義量(よしかず)は政治を顧みず酒に溺れて体を壊し19歳の若さで他界してしまいます。後継者を失った足利将軍家はますます窮地に陥ていくのですが、まだ健在であった足利義持にその自覚はなかったようです。義持は将軍の跡継ぎを決めることなく無為な日々を過ごしていました。幕府の重臣たちは後継者選びを義持に促したようですが、その際義持は「私が誰を跡継ぎに選んでも、お前たちは私の決定に従わないだろう」と言ったそうです。義持は政治の実権を幕府の重臣たちに握られ、もはやあきらめていたようです。この時点では幕府重臣がしっかりしていたので室町幕府としての支配力はあったのですが、足利将軍家の力はあきらに衰え始めていたのです。

 1428年足利義持も病死しました。将軍の後継者は空白のままでした。室町幕府重臣たちは将軍の後継者を「くじ引き」で選ぶことにしました。前代未聞の事態です。くじ引きで選ばれたのが6代将軍の足利義教です。今日の研究ではこの時の「くじ引き」は幕府重臣による八百長であったと言われています。ただし、義教自身にそのことは知らされていませんでした。義教は「自分は神意によって選ばれた将軍なのだ」と思い込んでいたふしがあります。そのせいなのか、義教は独断で政治を行い暴走しました。この義教による暴走政治が足利将軍家の衰退を加速します。1441年に暴走の果てに恨みを買った義教は赤松満祐に殺害されるのです。世に言う「嘉吉の変」です。義教が殺害されたことで足利将軍家の権威は失墜しました。その後、歴史は応仁の乱を経て戦国時代へと突入していきます。歴史の大転換点で何もできなかった足利義満の息子たちは、足利将軍家衰退の原因を作ってしまったのです。その後足利将軍家の力が復活することはありませんでした。

 

※今回参考にした資料は下記の通りです。

  

日本社会の歴史(下) 網野義彦 岩波新書

応仁の乱 呉座勇一 中公新書

詳説 日本史 山川出版社

新詳日本史 (株)浜島書店

鎌倉公方がNHK大河ドラマの主人公になれない訳

 鎌倉公方とはいったいどんな存在であったのか、私は好奇心に駆られてその実像を調べました。おもしろいことに、鎌倉公方の歴史を調べることは、関東の視点から室町時代を考えるということにつながっていきました。さらに、想定外の非常事態に直面したことが足利将軍家の運命を変えたこともわかってきました。これは現在日本が直面している事態を考える上でもとても参考になることだと思います。

 南北朝の争乱の時代、足利尊氏は関東を支配するために三男基氏を鎌倉公方に配しました。当初の鎌倉公方の任務は、戦闘司令官として新田義興など関東に存在する南朝方と戦うことで、関東に対する政治的な命令は全て京都の将軍から出されていました。関東の南朝勢力は手強く、鎌倉公方が鎌倉を追い出される事態に見舞われることもありました。鎌倉公方南朝方を倒すために、強力な軍事勢力である関東武士たちを味方にする必要があったのです。そのため、鎌倉公方は地域限定ながら将軍と同等の権力を持ち、武士の所領を安堵することで主従関係を結び関東の武士たちを味方に引き入れることができたのです。関東の武士たちにとって将軍のような存在となった鎌倉公方足利基氏は、関東の南朝勢力を倒し東国武士を配下におさめ関東を平定することに成功したのです。基氏の跡を継いだ二代目以降、東国武士団の頂点に立った鎌倉公方の目は西に向きました。足利尊氏の子孫として「自分には将軍になる権利がある」と鎌倉公方は考えたのです。しかし、将軍の座を奪うという鎌倉公方の挑戦は、ことごとく室町将軍によって跳ね返されました。これでは、鎌倉公方NHK大河ドラマの主人公になることはありませんね。室町時代の始まりとともに誕生した室町将軍と鎌倉公方ですが、いったい何が室町将軍と鎌倉公方との間にこんなにも大きな力の差を生じさせてのでしょうか。その答えは、室町幕府が開かれた「京都」と鎌倉府が開かれた「鎌倉」という場所の違いにあると思います。

 室町幕府が開かれた京都は平安時代の昔から都として栄えてきた場所です。桓武天皇平安京に遷都したのは794年ですが、源頼朝征夷大将軍になったのはそれから約400年後のことでした。そして、その400年もの間、京の都に君臨して日本を支配してきたのは天皇藤原氏などの上級貴族でした。また京都の周辺には比叡山延暦寺などの宗教勢力も存在していました。足利尊氏は、このように旧勢力が存在する京都にあえて幕府を開いたのです。尊氏は後醍醐天皇との激しい争いに勝利して武家政権を樹立したのですが、旧勢力を武力だけで封じ込めることはできなかったでしょう。室町幕府の将軍は、京都に存在する旧勢力と渡り合うことで、知略や政治力を身に着けたのだと思います。室町幕府の全盛期を築いた足利義満は、貴族の向こうを張る権謀術策を駆使して日本の国王のような存在となり、自分の息子を天皇の位につけるあと一歩のとこまできていたのです。とても、鎌倉公方が対等に戦えるような相手ではありませんでした。

 一方、鎌倉は1180年(治承四年)に源頼朝武家政権を誕生させて以来およそ100年の間武家政権の中心地として存在していました。頼朝が鎌倉を本拠地に選んだ理由は、三方を山に囲まれ前面は海という鎌倉の地形が天然の要害であったということもあるのですが、この地が清和源氏にとってゆかりのある地であったということが大きく影響していると思います。源頼朝からさかのぼること6代前、八幡太郎と呼ばれた源義家が祖父平直方(たいらのなおかた)から譲りうけたのが鎌倉の地でした。それ以来鎌倉は清和源氏にとって聖地のような場所になったのです。しかし、源実朝が暗殺された後、鎌倉幕府の執権であった北条氏が鎌倉の主になっていたのです

 そこで、足利尊氏鎌倉幕府が滅亡した後、東国武士団を支配し関東を平定するためになんとしても清和源氏の聖地である鎌倉を本拠地とする必要があったのです。そして幸運にも鎌倉は足利氏のものになりました。鎌倉幕府を倒した新田義貞は、鎌倉を占拠せず京都へ向かったのです。こうして足利氏は鎌倉に拠点を置いて関東支配に乗り出しました。しかし、武家政権の中心地として発展してきた鎌倉には武士ばかりが住んでおり、京都のように皇族・貴族や宗教勢力が大勢いるわけではありません。そのため、鎌倉では武士とは異なる文化や価値観を持った人々と接する機会が少なかったでしょう。それが、鎌倉公方を「井の中の蛙」にしてしまったのです。そして、関東の支配者の視野の狭さは、戦国時代の小田原北条氏まで続くのです。

 このように、京都と鎌倉の歴史的な背景が、室町将軍と鎌倉公方に大きな影響を与えたわけですが、さらに、歴史だけではなく二つの土地の地理的な要因もまた大きな影響を与えました。京都は内陸の盆地にありながら人、物、金、情報の集まる集積地です。それを可能にしたのは京都周辺にある水運でした。京都の東には琵琶湖がありその水運によって北陸地方との往来が可能です。さらに敦賀の湊から日本海へ出ることができ、東北地方の日本海沿岸や山陰地方、九州地方はもちろんのこと中国大陸への航海も可能です。また、京都の南には淀川が流れており大阪湾に注いでいます。大阪湾を西へ進めば瀬戸内海に至り、山陽地方四国地方と繋がりさらに九州地方を経て外洋に出れば瀬戸内海ルートでも朝鮮半島や中国大陸とも繋がっていたわけです。すなわち、京都には日本国内の人、物、金、情報だけではなく、海外の文物・情報も容易に入ってきたわけです。この地理的な優位性を存分に利用して強大な力を持ったのが三代将軍の足利義満でした。 

 一方、鎌倉も海に面した都市です。鎌倉時代のころから伊勢と関東の間には航路が開かれていました。鎌倉にある鶴岡八幡宮は全国各地に荘園を所有していたので、その年貢が海路で六浦の湊(現在の金沢八景付近)まで運ばれてきていたのです。ですから鎌倉にも日本国内の文物や情報は容易に入ってきたわけです。しかし、海外の情報が鎌倉に直接入ってくることはそれほどなかったでょう。おそらく室町時代の鎌倉に入ってくる海外の情報は、西国で見聞きしたことを日本人が伝える二次的な情報だったでしょう。つまり、琵琶湖、日本海、瀬戸内海という情報・物流の回廊と繋がっている京都と比較すると、鎌倉に集まる文物や情報は質、量ともに劣っていたのです。ある意味では鎌倉時代から戦国時代を通じて関東地方は海外の情報から最も遠い地域にあったといえるのです。そのため、鎌倉公方は多種多様な文化や価値観に触れる機会が少なかったのです。このこともまた鎌倉公方井の中の蛙にしてしまったのではないでしょうか。

 関東では武士たちの頂点に立ち支配者として君臨することのできた鎌倉公方ですが、鎌倉のおかれた歴史的背景と地理的な要因によって、鎌倉公方は外の世界に触れる機会が少なかったために、現状に満足してしまい変革によって自分の力を発展させることができなかったのです。したがって、鎌倉公方は歴史の表舞台で活躍することがなくNHK大河ドラマの主人公になれるような歴史的業績を残すことができなかったのです。やがて、応仁の乱の13年前に始まった享徳の乱((1454年~1477年)によって関東は戦乱の時代に突入します。この戦乱で鎌倉は焼き討ちに遭遇し、第五代鎌倉公方足利成氏は本拠地を鎌倉から下総国の古河へ移し古河公方と呼ばれるようになりました。長い戦乱の中で古河公方の力は徐々に衰退していきます。そして、新たに台頭してきた小田原北条氏との争いに敗れた古河公方は、戦国時代の波に飲み込まれ、いつの間にか歴史の舞台からひっそりと姿を消していきました。

 鎌倉公方とは異なり、室町幕府の将軍は、京都に幕府を開いたことで強力な力を手にしました。ただし、室町幕府の将軍が強力な力を手にいれることができたのは、京都の歴史的背景と地理的優位性を存分に利用できる能力のあるカリスマ的な人物がいてはじめて可能になるのです。そのカリスマ的人物こそ、室町幕府の三代将軍足利義満でした。ここで、足利義満の業績を箇条書きにしてみましょう。

 1.南北朝の合体(1392年)

 2.朝廷から京都の市政権、段銭、棟別銭の徴収権を吸収

 3.室町に花の御所を造営

 4.有力守護大名の勢力削減

 5.日明貿易の推進

 6.五山・十刹の制の整備

※新詳日本史(浜島書店)から引用しました。

 上記のように、足利義満はわずか一代の間に南北朝の争乱を解決し、室町幕府の財政力を飛躍的に向上させ、専制的な支配体制を確立し、中国大陸の大国である明との外交によって自らを日本国王として認識させることができたのです。まさに、足利義満の時代に室町幕府は全盛期を迎えていました。室町幕府は、このまま永遠の繁栄が続くかと思われましたが、晴天の霹靂のような出来事によって衰退していきます。

 それは、足利義満の急死です。1406年足利義満天皇の准父となり、形式的には上皇の地位にありました。義満の息子義嗣は皇太子となり次の天皇になるはずでした。しかし、その矢先1408年に義満は急死してしまうのです。この想定外の非常事態が室町幕府足利将軍家の運命を変えてしまったのです。足利将軍家は義満が急死した後の対処を誤ったために衰退し、嘉吉の変、応仁の乱を経て戦国大名の台頭を招いたのです。

 この時日本が置かれていた状況は、何か現在の日本の状況と重なるような気がします。日本を訪れる外国人観光客の増加による好景気、2020年東京五輪の招致成功、そして平成から令和への改元と新天皇のご即位という祝賀ムードが漂っていた矢先、新型コロナウイルスの猛威という全く想定外の事態によって今まで日本を覆っていた好景気は一瞬にして吹き飛び、東京五輪は延期になりました。日本はいま非常に困難な局面を迎えています。これからの対処の仕方によって、未来の日本がどうなるかが決まると思います。まさに、今我々は歴史の大きな転換点に直面しているのです。私たちは一人一人がそのことを肝に銘じて生きていかなければならないと思います。