歴史楽者のひとりごと

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長尾景春の乱ー1 数多くの同調者

 山内上杉家の家宰を相続できなかった長尾景春は、上杉顕定に逆心を抱き、謀反を企みます。景春は従兄弟である太田道灌を謀反の仲間に引き込もうとしました。
 景春から謀反の企みを打ち明けられた道灌は、一大事と思い、速やかに上杉顕定に事の次第を報告したのです。道灌は顕定に景春の処分を提案しました。それは、景春の面目を立てて武蔵国守護代に任じておくことでした。
 しかし、顕定や上杉の重臣たちは、道灌の献策を受け入れませんでした。道灌は、「もし、景春の面目を立てる気が無いのなら、今すぐ景春に軍勢を差し向け成敗しなければなりません、そうしないと後々禍根を残すことになるでしょう」と顕定に進言しました。
 このとき、上杉顕定が道灌の進言の実行していれば長尾景春の謀反は未然に防ぐことができたでしょう。しかし、ことはそのようには進みませんでした。
 文明八年(1476)、太田道灌堀越公方足利政知に従い駿河へ遠征していました。駿河の今川家で家督相続争いが起き、足利政知はその争いに介入したのです。
 道灌が不在の間に、長尾景春武州鉢形城に入り謀反を起こしました。景春が挙兵すると大勢の武蔵、相模の国人や地侍が呼応しました。文明九年(1477)正月、長尾景春は軍勢を率いて五十子陣を急襲しました。不意を付かれた上杉顕定は五十子陣を脱出し利根川を渡って上野の那波庄へ逃れました。
 景春の謀反に対して大勢の同調者が出たのは何故でしょうか?
 前回、説明したように山内上杉家の家宰職には多くの利権がありました。景春が家宰を継げば、その利権を手にすることができたのです。景春の周囲にはその利権目当ての輩が大勢いたのです。そういう輩が景春に同調し反乱に加わったのです。
 一方で、長引く戦乱の中で、関東管領の政策に不満を持つ者も大勢いました。自分の手柄が正当に評価されていない者や恩賞に不満のある者がいたのです。このような国人や地侍は、関東管領に従っているよりも、長尾景春と共に闘って領地を奪おうと考えたのです。
 上杉顕定は味方の中に、これほど多くの不満分子がいることに気が付いていなかったのです。道灌の進言を無視した関東管領は窮地に陥りました。
 さて、関東管領と争っていた古河公方足利成氏は、この時どうしていたのでしょうか?成氏は敵方の内乱に喜んだでしょうが、特に手出しをすることはなく、しばらく静観していました。この間に兵を休め、内部分裂で弱った敵を討てばいいと思っていたのかもしれません。
 

長尾景春の逆心

  文明三年三月(1471年)古河公方足利成氏足利政知を攻撃するため、伊豆に軍勢を派遣しました。堀越公方の危機に際し、関東管領上杉顕定は援軍を出し、古河公方の派遣軍を三島で破りました。
 三島での大勝に勢いづいた上杉顕定は、長尾景信に大軍を授け、古河城を攻撃しました。関東管領の大軍に攻め寄せられた古河城は防戦一方になり、ついに陥落しました。
 足利成氏は城を脱出し、佐倉へ逃れました。成氏にとっては初の大敗ですが、動揺しませんでした。成氏の周囲には依然として、味方になる武将が数多くいたのです。結城氏をはじめ、安房の里見氏、上総の武田氏、松戸の原氏、古河の野田氏、関宿の梁田氏、騎西の佐々木などが成氏のもとに結集し、古河城を奪還しました。
 文明四年春(1472年)足利成氏は古河城の仕返しとばかりに、関東管領の本拠地である五十子陣を攻撃します。五十子陣では両軍の激しい攻防が繰り返されました。その激戦の最中、文明五年十一月(1473年)扇谷家の大将である上杉政真が討ち死にしました。
 政真の死後、扇谷家の家督を継いだのは上杉定政です。この上杉定政こそは、後々太田道灌の運命を大きく左右人物なのですが、そのようなことは露とも知らない道灌は扇谷家の家宰として定政を支えていくのです。
 同じ頃、山内上杉家の家宰である長尾景信も亡くなりました。家宰は山内上杉家の家政を取り仕切るのはもちろんの事、時には関東管領の職務を代行することもあり、非常に大きな権力を握っていました。それだけに、景信の後、誰が家宰の地位に就くのかが注目されました。
 これまでは、景仲、景信と二代続けて白井長尾家が家宰の地位に就いていました。このため、景信の嫡男である長尾景春は、当然自分が家宰になるものだと思い込んでいました。
 しかし、上杉顕定が家宰に指名したのは惣社長尾家の長尾忠景でした。顕定は白井長尾家に権力が集中し、強くなりすぎることを恐れたのです。13歳で関東管領に就いた上杉顕定はこの年で二十歳になっていました。戦乱のなかで成長した顕定は、他人を信用せず冷徹な判断を下す武将になっていたのです。
 山内家の家宰になれなかった長尾景春は、大いに不満をつのらせました。家宰職には数多くの利権が付いています。その利権を手にすることができなかった景春は、上杉顕定に逆心を抱きました。
 長尾景春の中に生まれた上杉顕定への恨みは、亨徳の乱の流れを大きく変える事態に発展するのです。

戦乱の長期化と太田道灌の台頭

 長禄二年(1458年)足利政知が伊豆に居を定め堀越公方となりましたが、亨徳の乱はいっこうに終わりが見えませんでした。
 関東各地では戦乱が繰り広げられていました。その多くは、武将同士の領地争いや家督相続争いでした。争っている一方が古河公方の支援を受ければ、他方は関東管領に助勢を頼むという展開です。つまり、「敵の敵は味方」という発想で古河公方勢と関東管領勢に分かれて戦っていたのです。
 また、寝返りや裏切りも横行しました。両陣営とも、領地を与えることを餌にして敵方の有力者を引き抜こうとしました。
 「古河公方に味方するのが俺の信念だ」とか「関東管領にこそ大儀がある」などという発想で戦っている武将はほとんどいなかったと思われます。この様相は、京都で起きる「応仁の乱」と同じですね。
 しがって、戦いを終わらせる着地点がなかなか見えず、戦乱は長期化するのです。
 長引く戦乱のなかで、上杉勢の首脳陣に死者が相次ぎます。寛正四年(1463年)山内上杉家の家宰である長尾景仲が死にました。
 寛正七年(1466年)には、関東管領上杉房顕が急死しました。32歳の若さでした。関東管領の跡を継いだのは、上杉顕定ですが、まだ13歳の少年でした。
 さらに、応仁元年(1467年)関東副管領に就いていた上杉持朝も52歳で死亡します。これまで、陰の実力者として関東管領勢を支えてきた持朝の死は大きな痛手でした。持朝の死後、扇谷上杉家家督を継いだのは、16歳の上杉政真でした。
 相次ぐ重鎮の死で、その存在に重みを増してきたのが太田道灌です。優れた戦略眼を持つ道灌が、この後、関東管領勢のリーダーとして活躍するようになるのです。
 そのころ、京都では畠山氏の家督相続争いが発端となり「応仁の乱」が起こりました。ついに日本の東西で大戦乱が起きたのです。

堀越公方 足利ブランドの凋落

 太田道灌江戸城を完成させた長禄元年(1457年)室町幕府は新たな手を打ってきます。将軍足利義政の弟を還俗させて新たな鎌倉公方とし、関東に送り込もうというのです。
 新たな鎌倉公方となったのは、義政の弟で天龍寺の僧籍に入っている香厳院殿でした。香厳院は足利政知と名を改め関東へ下向しました。
 しかし、室町幕府が下したこの政策は全くの愚策でした。足利義政は時勢を読めていないのです。関東に於いては、もはや足利ブランドは凋落しているのです。足利ブランドにひれ伏す武将は誰もいません。足利成氏が関東の武将に支持されているのは、合戦に勝利する実力者であるからです。
 それに対して、昨日まで僧侶をしていた足利政知は、領地もなければ軍勢もいません。手ぶらで戦乱吹き荒れる関東にきて、いったい何をしようと言うのでしょうか?
 たとえば、領地を叔父に奪われた武将がいたとしましょう。その武将が足利政知に助けを求めたとします。政知は、その武将の言い分を認めお墨付きを出してくれるでしょう。
領地を奪われた武将は、そのお墨付きを持って叔父のところへ行き、領地を返せと云うでしょう。
 足利政知の書いた「権威ある」お墨付きを見て、叔父は領地を返してくれるでしょうか?答えはもちろん否です。「ここは俺の領地だ、悔しかったら実力で取り返してみろ」そう言うでしょう。
 しかし、武力を持たない足利政知は何もしてくれません。領地を奪われた武将は、自分の為に武力を行使して領地を取り返してくれる主君を探さなければならないのです。
 これが、この時代の関東の実状です。もはや、足利氏の権威は失墜しています。関東では武力を有して領地を守れる者だけが生き残れる世界へ移行しつつあるのです。
 やがて、この潮流が日本全国に広がり、戦国時代になるのです。武力と統治力を持つ者が台頭し、その中から信長、秀吉、家康という英雄が勝ち残っていくです。
 足利政知は関東へ向かったものの、上杉氏からも支持されず、伊豆の堀越というところに留まりました。そのため、足利政知堀越公方と呼ばれるのです。
 この堀越公方のように、何の実力も無いのに、組織から与えられた地位に居座っている人が、あなたの周りにはいませんか?
 本当に、そういう人って迷惑ですよね。

古河公方の誕生と江戸城完成

 亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏関東管領上杉憲忠を鎌倉で謀殺、ついに亨徳の乱が始まりました。島ヶ原の合戦、分倍河原の合戦で敗れた上杉勢は、上杉憲顕、上杉顕房など大将格の武将を失い、常陸国へ敗走し小栗城へたてこもりました。
 序盤の勝利に勢いを得た足利成氏は、上杉勢を殲滅すべく追撃に移りました。成氏は下総の結城城に着陣し、小栗城への攻撃を開始します。成氏の快進撃は止まらず、亨徳四年五月(1455年)に小栗城は落城しました。
 関東管領謀殺の知らせを受けた室町幕府は直ちに駿河守護の今川範忠に足利成氏の追討を命じました。亨徳四年四月(1455)、範忠は京都を出陣しました。錦の御旗を掲げた範忠は東海五カ国の軍勢を従えて鎌倉へ進軍。同年六月に鎌倉へ乱入しました。
 この時、足利成氏は結城城に布陣しており、鎌倉にはわずかな軍勢しか残っていませんでした。
 今川の軍勢はやすやすと鎌倉を陥れ、鎌倉御所や寺社に火を放ちました。源頼朝公に始まる鎌倉の繁栄はここに潰えました。
 しかし、鎌倉を失った成氏は動じませんでした。成氏方の武将の多くは、下野、常陸、下総の武将です。成氏は自軍の勢力圏内に、新たな本拠地を定めることにし、下総古河城に入りました。これ以降、足利成氏古河公方と呼ばれるようになります。
 一方、上杉勢は、亡くなった上杉憲忠の弟である上杉房顕が山内上杉家督を継ぎ、関東管領に就任しました。上杉勢は五十子(埼玉県本庄市)の砦を強固に補修し、ここを本拠地としました。戦いの序盤で古河公方の軍勢に圧倒された上杉勢は態勢の立て直しが急務でした。
 そこで、太田道真、道灌の親子に命じて、河越、岩付、江戸に城を築かせたのです。長禄元年(1457年)に三つの城が完成し、利根川沿いに上野、武蔵、相模という勢力圏を守る防衛ラインを構築することができたのです。特に、江戸城はわずか一年で完成しました。
 まさに、太田道灌江戸城を築城した理由はここにあったのです。それは、攻勢をかけてくる古河公方の勢いを止め、利根川の水運を確保し、関東内陸部へ物資を運ぶ為の軍事拠点であったのです。短期間で強固な城を築く為に、道灌は秘術の限りを尽くしたと云われています。
 こうして、利根川を挟んで東に古河公方勢、西に関東管領勢が対峙する構図ができあがったのです。両陣営が防衛ラインを構築したことで戦いは膠着状態に陥りました。

亨徳の乱勃発 分倍河原の合戦

 江ノ島合戦の後、鎌倉公方関東管領の和議は成立しましたが、両陣営の対立は深まるばかりでした。領地を失った武将の中には、勝手に他人の領地を奪う者が続出し、関東では領地争いが絶えませんでした。。
 鎌倉公方足利成氏室町幕府から権力の制限を受けていたので、関東の所領争いを的確に裁くことができませんでした。また、本来ならば鎌倉公方を補佐する立場にある関東管領上杉憲忠は、成氏と対立していたので、成氏の指示に従いませんでした。
 このまま事態を放置していれば、関東は無法地帯と化し、鎌倉公方の権威は失墜してしまいます。この危機的状況を打開するために、成氏は憲忠を排除することを決意したのです。
 折しも、上杉方が足利成氏を討つために上野国で軍勢を集めているとの知らせが、成氏のもとにもたらされました。これを聞いた成氏は、素早く反応しました。
 足利成氏は、非常に勝負勘の鋭い武将であると思います。勝機と見ればすかさず軍勢を動かすことができるのです。
 この時もそうでした。鎌倉の憲忠のもとには上杉の軍勢がいませんでした。上杉勢は領国の上野や相模で、成氏を討つべく軍勢を集めている時でした。鎌倉の憲忠のもとには二十人ほどの手勢がいるだけでした。
 亨徳三年十二月二十七日(1454年)関東管領方の守りが手薄であることに気がついた成氏は、三百騎の軍勢で憲忠を急襲しました。不意をつかれた憲忠方は、なすすべもなく全員が討ち取られました。
 これが亨徳の乱の始まりです。これ以降、関東は三十年もの間戦乱が続くのです。
 上杉憲忠を討った足利成氏は、すぐさま次の行動にでます。
 関東管領方の上杉持朝、長尾景仲、太田道真は相模の軍勢一千騎を集め、相州島ヶ原(神奈川県平塚市)に陣取っていました。
 亨徳四年正月六日(1455)成氏は武田信長、一色宮内大輔に三百騎を与え島ヶ原の上杉勢を襲撃させました。上杉勢は敵が小勢であるので、よもや攻めてくることはあるまいと油断していました。そこへ武田・一色勢の急襲を受けたので、上杉勢は大混乱に陥りました。武田・一色勢が一気呵成に攻め立てたので、上杉勢は戦況を挽回できず、上野と河越へ敗走していきました。
 同年正月五日、成氏自身は一千騎を率いて鎌倉を出立し上野の軍勢を迎撃すべく、府中の高安寺に布陣しました。上杉勢は憲忠の弟の上杉房顕を大将とし、上野勢に加えて越後上杉の援軍を得て二千騎で府中の分倍河原へ進軍してきました。
 これを見た成氏は精鋭五百騎を率いて分倍河原へ出撃しました。成氏の電光石火の攻撃を受け、上杉勢は浮き足立ち、大将格の上杉憲顕が深手を負い自害しました。
 翌日の合戦でも、成氏軍の勢いは止まらず
結城、小山、武田、村上といった成氏軍の精鋭部隊が次々と波状攻撃を仕掛け、上杉軍は総崩れとなりました。上杉の軍兵は敵に背を向け我先にと逃げ出しました。これを見た上杉顕房は「きたなしかえせ」と馬上で叫びましたが、誰も戦場に留まる者はいませんでした。敵に囲まれた顕房は深手を負い自害しました。
 分倍河原の合戦で、複数の大将格を失い大敗した上杉勢は、常陸国へ敗走し小栗城に立てこもりました。

 この分倍河原とは、云うまでもなくJR南部線の分倍河原駅付近のことです。駅前には新田義貞公の銅像があることをご存じの方も多いでしょう。
 ここは、建武新政の時に新田義貞の軍勢が北条軍を破った合戦場でもあります。分倍河原は、武蔵国から鎌倉へ至る鎌倉街道の途上で、多摩川の渡河地点にあたるので軍勢がぶつかりやすい場所でした。また、河原が広がっているので戦場となりやすかったのです。

江ノ島合戦

 宝徳元年(1449年)、足利成氏は五代鎌倉公方に就任しました。鎌倉公方を補佐する関東管領には、山内上杉家家督を継いだ上杉憲忠が就きます。しかし、これは誰がみても危険な人事です。成氏にとって、憲忠は親の敵の息子です。両者の関係が険悪になるのは当然の成り行きでした。
 このような人事が行われた背景には、室町幕府の中に山内上杉家を押す力が強力に働いたのでしょうが、誤った人事だと云わざるを得ません。現代でも自民党の派閥争いや数合わせの論理で、全く不適格な人物を大臣にすることがありますが、それと同じようなことなのでしょう。
 室町幕府は当初、上杉憲実を関東管領に復帰さようと考えていました。しかし、憲実は幕府の要請に応えませんでした。憲実は、成氏の父親である足利持氏を死に追いつめた張本人です。成氏が憲実に対して、深い恨みを抱いていることは十分承知していました。そのため憲実は関東管領に就くことを固辞し、伊豆で隠棲したのです。
 憲実は、息子の憲忠が関東管領に就くことにも反対しました。しかし、憲忠が聞き入れなかったので、親子の縁を切り、憲実は西国へ落ちて行きました。憲実は周防国に至り、大内氏の庇護を受けました。
 一方、鎌倉では更に事態が悪化していました。成氏は結城成朝や里見義実などを鎌倉へ呼び寄せ、領地を安堵し側近として仕えさせたのです。成朝や義実らは結城合戦で親兄弟を関東管領方に殺されていました。彼らもまた上杉氏に対して、深い恨みを抱いていました。
 彼らは上杉憲忠と顔を合わせる度に、平静を装いながらも心中穏やかではなかったでしょう。まさに、鎌倉には一触即発の空気が漂っていたのです。
 上杉憲忠はまだ十代の若者でした。憲忠を陰で支えていたのが、扇谷家の上杉持朝です。持朝は娘を憲忠に嫁入りさせることで、関東管領の舅となり、権力を強めていたのです。
 持朝は、守護として相模一国を領有し、武蔵国南部も支配していました。陰の支配者は扇谷家宰の太田道真と山内家宰の長尾景仲に命じ、先手を打って成氏を襲撃しようと計画しました。
 宝徳二年四月(1450年)、道真と景仲は、成氏を討つため鎌倉を急襲しました。しかし、この襲撃は事前に成氏方に漏れていました。成氏は鎌倉から江ノ島へ避難し、守りを固めていたのです。成氏は戦況が悪くなれば船で房総へ逃れようとまで考えていました。
 太田・長尾は五百騎の軍勢を率いて腰越に進出してきました。そこへ成氏方の小山下野守が攻撃をしかけます。しかし小山勢は寡兵であったので撃退されました。勢いに乗った太田・長尾勢は由比ヶ浜へ押し寄せました。
 これを迎撃したのが、成氏方の千葉・小田・宇都宮の四百騎です。成氏方は猛攻を仕掛け敵方を蹴散らしました。太田・長尾勢は120人が討ち取られ、相州糟屋へ敗走したのです。関東管領方の先制攻撃は失敗に終わりました。これを江ノ島合戦といいます。
 江ノ島合戦の後、両陣営のにらみ合いは続きましたが、幕府の仲裁によって和睦しました。しかし、これは一時的な休戦にすぎませんでした。