歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

頼朝の実像  歴史的合戦の勝利はなくとも政治家として武家の世を開いた武将   

◆頼朝の人気は?

 源頼朝平氏を倒して鎌倉幕府を開き、武家政権の礎を築き上げた英雄です。頼朝は日本人の誰もが知っている歴史上の偉大な人物ですが、戦国時代の英雄である織田信長豊臣秀吉に比べると人気の点ではかなり劣っているような気がします。

 頼朝の人気が低いのは、まず第一に歴史上有名な合戦で勝利を挙げたという実績がないからだと思います。織田信長は「桶狭間の合戦」や「長篠の合戦」で勝利し天下人となりました。しかし、明智光秀が起こした謀反「本能寺の変」によって命を落とします。本能寺の変を知った豊臣秀吉は、主君信長の仇を討つため奇跡と呼ばれる「中国大返し」を行いその後の「山崎の合戦」で明智光秀を倒し天下取りへの名乗りを挙げました。そして、徳川家康は、天下分け目の「関ヶ原の合戦」に勝利しその後約260年間続く徳川時代を創り出したのです。このように、歴史上の英雄たちは、彼らの歴史を代表するような合戦において勝利を挙げてきたのです。

 では、源頼朝には誰もが知るような大きな合戦で勝利した実績があるのでしょうか?武士の時代を切り開いた源平合戦の歴史を辿りながら、頼朝の戦績を見ていきましょう。

 

◆頼朝の戦いの歴史

 治承四年(1180)八月十七日、頼朝は打倒平氏の戦いを始め、緒戦において伊豆目代山木兼隆を討ち取ることに成功しました。しかし、その戦いの日は三島神社の祭礼の夜にあたり、多くの家来たちが外出して警備が手薄になっていた目代の館を襲撃したという小規模な戦いでした。その後、頼朝は石橋山の合戦で大庭景親の軍勢に敗れ、絶対絶命の危機に陥りましたが、敵方の梶原景時の「有情之慮」によって命を救われ舟で房総半島へ逃れることができたのです。

 房総半島にたどり着いた頼朝は、上総広常の支援を受けてようやく態勢を整えることができました。房総半島では、上総広常や千葉常胤などの坂東武者が平氏平氏家人から圧迫を受け、彼らがもともと持っていた既得権を失おうとしていました。そのため、上総氏や千葉氏は頼朝が挙兵しなくとも平氏と戦う決意をしていたのです。そこへ、平氏との戦いを始めた頼朝が現れたので、彼らは頼朝を受け入れることにしたのです。

 彼らが頼朝を受け入れた最大の要因は、源頼朝がかつて武家の棟梁として坂東に君臨した源頼信源義家など河内源氏嫡流であり、その血筋が反平氏の象徴としてふさわしい旗印になったからなのです。頼朝は、以仁王の令旨を掲げ東国の武士たちに打倒平氏のため頼朝のもとへ集まるように呼びかけたました。やがて、反平氏の坂東武者たちが次第に頼朝のもとに集結してきました。武蔵国では当初平氏方についていた畠山重忠河越重頼なども、頼朝軍が優勢になってきたのを見て頼朝側へ寝返りしてきました。いつのまにか、頼朝には数万騎の味方がついていました。大軍勢を従えた頼朝は、平氏方を圧倒して鎌倉入りを果たすことができたのです。

 一方、福原にいた平清盛は、頼朝挙兵の知らせを受けるとすぐさま、反乱を鎮圧しようと追討軍を東国へ送り込みます。平氏の軍勢と頼朝の軍勢は、駿河富士川で対峙しました。ところが、富士川にたどりついた平氏の軍勢はわずか4千騎でした。ちょうどそのころ飢饉が発生し兵糧が不足していたため、東海道を進軍する平氏の追討軍に加わる武士が少なかったのです。数で劣る平氏軍は、数万騎の頼朝軍の敵ではありませんでした。さらに、駿河にいた平氏の味方は、追討軍が到着する前に甲斐源氏武田信義の軍勢と戦い、鉢田山の合戦で大敗北を喫していました。そのため、平氏方の軍勢は戦意に乏しかったのです。富士川の合戦は、本格的な合戦が起きることなく、平氏軍が自滅的に潰走して頼朝軍の勝利に終わったのです。また、石橋山の合戦で頼朝を破った大庭景親と伊東佑親は捕えられ処刑されました。

 このように、伊豆での挙兵から鎌倉入りするまでの間、頼朝は自分自身が軍事的なカリスマ性を発揮して戦いに勝利するという機会を得ることができませんでした。大合戦に勝利するという華々しい出来事はありませんでしたが、源頼朝は東国から平氏の勢力を一掃することに成功したのです。頼朝は、平氏から奪った所領を手柄を立てた坂東武者に与えることで、主従関係を結び東国を支配する体制作りに着手したのです。

 

◆ライバルの出現で頼朝の戦績は霞むことに

 富士川合戦で大敗した平清盛は、態勢を挽回すべく陣頭指揮をとり畿内では反乱軍の鎮圧に一定の成果を上げていましたが、治承五年(1181)に病に倒れ急死してしまいました。源頼朝は、ついに宿敵平清盛を武力によって倒す機会を得ることができませんでした。さらに、京都では武家の棟梁としての頼朝の立場を揺るがすような事態が起こりました。

 頼朝の従弟にあたる木曽義仲北陸地方の軍勢を集め平氏との戦いを展開していたのですが、寿永二年(1183)五月倶利伽羅峠の合戦で平氏軍に大勝しその勢いで京都へ攻め込む姿勢を見せたのです。窮地に陥った平氏一門は、京都を捨て西国へ逃げ去りました。世に言う平氏都落ちです。木曽義仲という新たなライバルが出現したことで、頼朝の軍事的な功績は一層霞んでしまいました。

 京都を手中に収めた木曽義仲は、従五位下伊予守に任じらました。伊予守は受領職の最高峰で源氏では源頼義が任官した官職であり、河内源氏にとっては特別な地位なのです。その伊予守に木曽義仲が任官したことは、朝廷が義仲を武家の棟梁であると認めたことになるのです。

 しかし、木曽義仲皇位継承者を巡り後白河法皇と対立し立場を悪化させました。さらに、義仲の率いた軍勢は、食糧確保のため京都やその周辺で乱暴狼藉を働き評判を落としました。義仲は、軍兵たちの略奪行為を制御できなかったので、朝廷からの支持を失ってしまったのです。

 失地回復を目指した木曽義仲は、平氏を討伐するため西国へ出陣しましたが、逆に平氏からの返り討ちを受け、敗北を喫して京都へ戻りました。ちょうどそのころ後白河法皇は、源頼朝に上洛を要請していました。そこで、頼朝は、弟の源義経に軍勢を与え上洛させ、続けて源範頼も援軍として派遣しました。義経軍と範頼軍は木曽義仲の軍勢を挟撃し、木曽義仲は近江の粟津の合戦で討ち死にしました。

 さらに、義経は西国へ進軍しました。戦闘指揮官として優れた才能を持つ源義経は、一の谷の合戦、屋島の合戦で次々に平氏を破り、ついに壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させたのです。

 

源平合戦で英雄になったのは義経

 ここまで、源平合戦の流れを非常に大雑把に急ぎ足で見てきました。治承四年(1180)に平氏打倒のため挙兵したのは源頼朝でしたが、文治元年(1185)に壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させ源平合戦終結させたのは源義経でした。名声を上げた義経後白河法皇の厚い信任を受けました。しかし、そのせいで義経は兄頼朝との関係が悪化しついには頼朝から敵視されて滅ぼされてしまうのです。

 このような歴史の流れを追いかけていくうちに、現代の私たちは源義経を英雄視する一方で、源頼朝義経を死に追いやった冷酷な人物と評するようになったのです。頼朝は、安全な鎌倉で指揮を執り、危険な戦場へは弟たちを赴かせたという印象も持ってしまいます。

 しかし、それは歴史の一面しか見ていないように私には思えます。私たちは源頼朝の実像を見誤っているのではないでしょうか?

 

◆頼朝は優れた統率者

 歴史の舞台に登場したころの源頼朝は、確かに頼りない存在でした。平治の乱に敗れ死刑にされるところを、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願によって命を救われ罪人として伊豆に流されていたのです。そのころの頼朝には、地位も名誉も権力もありませんでした。頼朝にあったのは河内源氏嫡流という貴種としての血筋だけでした。

 ところが、平清盛が進めた政策は平氏だけが繁栄する社会を創り出してしまったので、貴族や平氏とは利害の反する武士たちの間で反平氏の機運がたかまり、頼朝はその血筋のおかげで東国の武士たちに担ぎ上げられ、打倒平氏の戦いに身を投じることになりました。伊豆で挙兵した当初の頼朝は、まだ担がれた御神輿に過ぎなかったと思います。

 しかし、鎌倉入りを果たした頼朝は変貌を遂げていきます。頼朝のもとには数万の大軍勢が集まっていました。ですが、その軍勢はもともと上総広常が率いていた軍勢が中心になっています。言わば、頼朝は他人の軍勢を借りているに過ぎないのです。また、東国武士の多くは打倒平氏という目的だけで集結してきており、同床異夢の武士たちも多数いたのです。

 その寄せ集めとも言うべき大軍勢を、頼朝は巧みに統率していく術を身に着けていくのです。まず、頼朝が行ったことは挙兵当初敵方についた首藤経俊を助命したことです。首藤氏は河内源氏の代々の重臣として仕えてきた武士であり、頼朝が最も信頼している武士でした。ところが、首藤経俊は頼朝の挙兵の呼びかけを拒否し、大庭景親の味方につき石橋山の合戦で頼朝と戦ったのです。

 鎌倉入りを果たした頼朝の前に、首藤経俊は引き出されましたが、頼朝は経俊を処罰することなく許しました。頼朝が裏切り者を許したという寛大な措置は、東国武士たちの心をとらえたのです。これ以降、当初は平氏方についていた武士たちも頼朝のもとへ続々と集まるようになったのです。また、頼朝は武士たちに私心を捨て、打倒平氏のため一致団結するように呼びかけました。自らが私心を捨てた頼朝の言葉は東国武士たちの心に強く響いたのです。

 

◆頼朝は武家政権の基礎を一人で創り上げた 

 源頼朝は、河内源氏にとって聖地とも言うべき鎌倉に本拠地を定めたました。頼朝が鎌倉から動かなかったのは、決して戦場へ出ることを恐れたためではありません。頼朝には鎌倉でなすべきことがあったのです。それは、平氏勢力を一掃しせっかく手に入れた東国を自らが支配する王国とするための土台作りでした。

  頼朝のもとには数万の軍勢が集まっていましたが、それは東国の有力な武士が率いてきた軍勢です。頼朝は、彼らの直接の主人ではありませんでした。頼朝は、東国の王者となるために、大軍勢を直接支配するためのシステムを作る必要があったのです。そのシステムこそが、新恩給与本領安堵です。

 頼朝は、武功を立てた武士に恩賞として所領を与えること(新恩給与)で直接主従関係を結び東国武士の主人となることができたのです。頼朝と主従関係を結んだ武士は頼朝に奉公することで所領を子孫に相続すること(本領安堵)が許されました。頼朝は新恩給与本領安堵をおこなったことで、東国武士団を自らの軍勢とすることに成功したのです。そのことは、永寿二年に頼朝が上総広常を粛清した時に、東国武士団の間に動揺が起きなかったことによっても証明されています。この時、頼朝はもともとは上総広常が率いていた2万の軍勢を直接支配しており、もはや広常を必要としていなかったのです。

 頼朝は、平氏が支配していた所領を奪い取ったのですが、これを私的に分配したのでは略奪者と同じことになってしまいます。そこで、頼朝は朝廷と外交交渉を展開し、東国を支配するシステムの根幹である新恩給与本領安堵を頼朝独自の権利として認めさせることに奔走したのです。

 まず、頼朝は朝廷から寿永二年十月宣旨を出させることに成功しました。頼朝は東海道東山道国衙領と荘園を朝廷に全て返還すると約束したのです。頼朝は、何故せっかく手に入れた土地を全て朝廷に返還したのでしょうか?それは、頼朝が罪人であることを許され地位と名誉を回復するための手段でした。

 しかし、土地を全て返還してしまったままでは、頼朝は打倒平氏のために戦ってくれた東国武士たちに対して恩賞を与えることができません。そこで、頼朝は東国の国衙領や荘園から年貢をとって朝廷へ納める責任は全て頼朝が負うという付帯条項をつけたのです。この付帯条項のおかげで頼朝は、実質的に東国の土地を全て支配する権利を手に入れたのです。頼朝は、この「年貢を徴収する権利」を武士たちに分け与え戦功の恩賞としたのです。

 さらに、頼朝は文治元年(1185)に平氏が滅亡すると文治勅許を朝廷から勝ち取ります。この文治勅許によって頼朝は守護・地頭を任命する権利を獲得したのです。守護は一国一人制で軍事警察を司りました。地頭は荘園や公領ごとに配置され、年貢の徴収や土地の管理などを担う職ですが、頼朝は地頭職に武士を任命することで新恩給与本領安堵を公式な制度として実行することができるようになったのです。

 頼朝と主従関係を結んだ武士は、恩賞として土地の所有権を与えられるのではなく、地頭職を任命されることになったのです。地頭に任命された武士は、土地の所有権は無くとも年貢を徴収できるので、定められた年貢よりも多く収穫された米や農産物、特産品は地頭の所有物=利権となるのです。すなわち、地頭職に任命された武士は、その土地から得られる利権を手に入れることができるようになり、地頭職を子孫に相続することができるようになったのです。それが頼朝と武士が主従関係を結ぶ大きなメリットとなったのです。

 この守護・地頭を任命する権限は征夷大将軍だけが持つ独特の権限であり、その後の歴史において武家政権を支える大きな基礎となる制度となったのです。頼朝はこの制度の根幹を一人で考えだし、一人で朝廷と交渉して作り上げたのです。

 頼朝は、戦場での指揮官として能力を発揮する機会に恵まれることはありませんでしたが、もっとスケールの大きな国家レベルの戦略という分野において優れた能力を発揮した人物でした。頼朝が築いたシステムがあったからこそ、その後の鎌倉幕府室町幕府など武家政権が繁栄を遂げることができたのです。

 

◆頼朝の軍事実績

 源頼朝が、大規模な合戦を指揮し勝利したことが一度だけありありました。あまり一般的には知られていませんが、奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦がその戦いです。

 頼朝は義経を敵視し滅ぼそうとしましたが、義経は逃亡し奥州平泉の藤原秀衡のもとに匿われていました。しかし、秀衡が死去すると奥州藤原氏は内乱状態に陥りました。頼朝は藤原氏の内乱につけこみ藤原泰衡義経を討伐させました。この時点では、頼朝はまだ軍事行動を起こしていません。義経を直接滅ぼしたのは、あくまで藤原泰衡です。しかし、泰衡が頼朝の圧力に屈して義経を滅亡させたのは間違いありません。

 頼朝は、その藤原泰衡を討伐することにしたのです。東国の完全支配を目指す頼朝にとって奥州藤原氏は倒さなければならない存在でした。文治五年(1189)七月頼朝は大軍勢を率いて奥州へ攻め入りました。総勢24万騎の軍勢を三手に分けて進軍する大規模な軍事行動を行い奥州藤原氏を滅亡させたのです。東国の完全制覇を成し遂げた頼朝はその後上洛し、征夷大将軍となったのです。

 

今回参考にさせて頂いた文献

源頼朝 元木康雄 中公新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

新詳日本史 浜島書店

詳説日本史 山川出版