歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 源頼義

 平忠常の乱を鎮圧した源頼信は、その後、美濃、相模、河内の国司を歴任し、晩年を河内国で過ごしました。そのため、頼信の子孫たちは河内源氏と呼ばれるようになったのです。
 頼信の跡を継いだのは長男の頼義です。頼義もまた父親に劣らぬ「つわもの」であり武家の棟梁としての資質を持った武将でした。
今昔物語集には、頼信、頼義親子にまつわる説話も載っているので、今回はそれを紹介します。

 「源頼信朝臣の男頼義、馬盗人を射殺したること」
 この話は、おそらく頼信が引退し都で暮らしている頃の逸話だと思います。
 ある時、頼信は東国に素晴らしい名馬がいることを聞きつけて、その名馬を譲り受けることになりました。馬の持ち主は都の頼信のもとへ無事に馬を送り届けるために、大勢の武士を警護につけました。
 そして、馬の持ち主が心配したとおり、この名馬をつけねらう盗人がいました。しかし、ものものしい警護がついているので、盗人はなかなか馬を盗むことができません。必ず盗んでやろうと機会を窺っているうちに、盗人はとうとう都までついてきてしまったのです。
 馬は無事都に着き、頼信の屋敷の厩に入りました。しかし、盗人はけっして馬をあきらめたわけではありません。頼信の屋敷の近くに潜み夜になるのを待ちました。
 源頼義は父親が東国の名馬を手に入れたことを、人づてに聞きました。その馬が本当に名馬であるならば、是非とも自分の馬にしたいものだと思ったので、さっそく父親の屋敷を訪れました。
 頼信は突然の息子の訪問をいぶかしみましたが、息子の目当てが名馬であることに気がつきました。そこで「今日は東国から馬が届けられたのだが、わしもまだ見ていないのだ。今夜は雨も降っていることだから、明日の朝馬を引き出して見てみよう。もし気に入った馬であればお前にやるぞ」と言ったのです。
 頼義は「父上は俺の考えをお見通しだな」と思いながらも喜んで父親の屋敷に上がり込み、その夜は親子二人でつもる話をしながら酒を酌み交わしたのでした。
 夜も更け、親子は眠りにつきました。外はどしゃ降りの雨です。その雨にまぎれて盗人は頼信の屋敷に忍び込み、厩から名馬を盗み出しました。
 やがて家人が名馬を盗まれたことに気がつき騒ぎ出しました。家人の騒ぐ声で目を覚ました頼信は素早く身支度を整えると、やなぐい(矢を入れる道具)を背負い厩から馬を引き出して、一人で馬にまたがり追跡を始めました。
 頼信は迷うことなく近江との国境にある逢坂山へ向かいました。盗人は馬を盗むために東国からついてきたに違いない。それならば馬を連れて東国へ逃げるはずだ。都から東国へ逃げるなら、盗人は必ず逢坂山を通るにちがいない。それが頼信の判断でした。
 頼信が追跡を始めて間もなく、頼義も目を覚ましました。頼義は着の身着のままで寝ていたので、起きあがるやいなや素早くやなぐいを背負い、馬にまたがり追跡を始めました。
 頼義も迷うことなく逢坂山を目指しました。頼義には、自分より先に父親が逢坂山に向かっているとの確信があったのです。頼義は雨に濡れるのもかまわずに、ひたひたと馬を走らせました。
 やがて雨があがりました。盗人はちょうど逢坂山にさしかかっていました。ここまでくれば一安心と思ったのか、盗人は馬を引いて水たまりの道をびしゃびしゃと音を立てて歩いていました。
 馬上の頼義は、遠くで水の跳ねるかすかな音に気がつきました。あたりは漆黒の暗闇で何も見えません。それでも頼義には、水の跳ねる音だけで盗人と馬がどこにいるのかはっきりとわかっていました。
 「みつけたぞ」そう思った頼義は馬上で矢を弓につがい狙いを定めました。頼義には、何も見えない真っ暗闇でも絶対に矢は盗人に当たるという自信がありました。ましてや、矢が馬に当たる不安など微塵もありませんでした。
 すると、まるで時を図ったかのように「射よ、あれだ」という父親の声が聞こえたのです。その声が聞こえたのと同時に頼義は矢を放ちました。
 「ひょう」と矢音が響き「どすん」という手応えがありました。「からから」というあぶみの音もしました。その音は人を乗せていない馬が走る音です。
 「よし、盗人は射落としたぞ、早く馬を追いかけて連れ戻してこい」そう言うと頼信は頼義を残しその場を離れました。偶然にも、ここで頼義と出会ったことを驚くことはなく、暗闇で見事に矢を盗人に的中させたことを褒めることもありませんでした。頼義自身も、矢を的中させたのは当然だと言わんばかりに無言のまま、逃げる馬を追いかけました。
 途中のぬかるみに盗人が倒れていました。盗人は頼義の放った矢に射抜かれ、息を引き取っていました。それから間もなく馬は見つかりました。頼義は馬を連れて父親の屋敷へ戻りました。その途中で、あとから追いかけてきた郎党たちに出会いました。郎党たちは頼信・頼義親子の素早い動きにまったくついていけなかったのです。
 頼義が屋敷に戻った時、夜明けにはまだ時間がありました。頼義は馬を郎党に任せると何事もなかったかのように寝入りました。先に戻った頼信も同じように寝ていました。
 この親子にとって、どしゃ降りの雨の中で馬盗人を追跡し、暗闇のなかで矢を盗人に的中させ、馬を取り返すことなど、とるに足らないことなのかもしれません。
 翌朝、頼信と頼義は馬を引き出して、あらためて見ました。馬は評判通りの見事な名馬でしたので、約束通り頼義に与えられました。名馬には立派な鞍がつけられていましたが、それは頼信から頼義への褒美でした。

 この話の全てが真実であるとは限りません。かなり誇張された部分もあるでしょう。それでも逸話としてこのような話が伝えられる程、源頼義は武勇にすぐれた武者であったのです。
 以前にも述べましたが、平安時代の武士とは、馬上騎射する能力に優れた人のことでした。その中でも頼義は極めて騎射の能力に抜きんでた武士であったのです。
 同じ時代の武士も頼義の技量を認めていました。平直方もそのうちの一人です。直方は平忠常の乱の時に、最初に追討使として派遣されたのですが、乱の鎮圧に失敗し更迭されたことは、前にお話しした通りです。
 この失敗によって直方は窮地に陥っていたと思います。直方は家運を立て直すために源頼義と血縁関係を結ぶことを望みました。そのとき、直方が頼義に語った言葉が今に伝わっています。
 「自分はいたらぬ者ではあるけれども、いやしくも平国香・貞盛ら名将の子孫であり、武芸を貴んでいる。その自分がいまだかつて、あなたほどの弓の上手な人はみたことがない。どうか私の娘をあなたの妻にしてください。」
 直方の申し出は頼義にとっても魅力のあるものでした。直方は都での威勢は落ちていましたが、相模国に所領を持ち大きな勢力を構えていました。
 源頼義平直方の娘を娶ったことで、相模国に大きな勢力を持つことができたのです。そして、頼義と直方の娘の間に生まれたのが八幡太郎義家なのです。直方は孫の義家に鎌倉の地を譲りました。
 こうして、清和源氏にとって聖地とも言える鎌倉は、八幡太郎義家の代に本拠地となったのです。