歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

坂東武者の系譜 武家の棟梁の資質を持った男 源頼信

 
「歴史楽者のひとりごと」をご覧の皆様、あけましておめでとうございます。
 旧年中は数多くのアクセスを頂きありがとうございました。今年も歴史を楽しめるブログを作っていきたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

 今回のシリーズでは、「坂東武者の系譜」と題して、武士の黎明期について調べてきました。ここで、これまでにわかったことを整理してみます。
 9世紀末から10世紀の初頭にかけて、地方を治める行政官であった国司の権力に大きな変化がありました。
 この頃地方では賊徒の反乱が頻発しました。朝廷は反乱を押さえる為に、国司に警察権を与えました。桓武平氏清和源氏など都の軍事貴族国司になって任国に赴くと、彼らは賊徒を鎮圧するために軍事力を強化しました。
 また、国が土地と人民を直接支配する体制にもほころびが生じてきました。班田収授法が実施されなくなり、朝廷は適正な徴税することが困難になってきました。そこで、朝廷は地方の情勢を熟知している国司に、徴税業務を請け負わせることにしたのです。
 こうして、国司は地方に対する大きな影響力を持つようになったのです。地方の豪族は強大な権力を持った国司と血縁関係を結び、自家の勢力を拡大しようとしました。
 しかし、都からやってきた桓武平氏などの軍事貴族が、土豪の娘を娶りその土地に定着することは、彼らの持っていた貴種性を失わせることになりました。
 坂東において、彼らは平氏姓を捨て千葉氏や三浦氏など自分たちが定着した土地の名前を姓として名乗るようになったのです。
 もちろん、全ての平氏が地方に土着したわけではなく、都において貴族としての地位を保った者もいますし、源氏のなかにも地方に土着する者がいました。ただし、坂東に限って言えば、坂東八平氏が生まれたことからもわかるように、より多くの桓武平氏が土着した傾向があるように思われます。
 このようにして、坂東武者の源流が誕生したのです。地方豪族となった彼らは国司としての権力は失ったのですが、一定の勢力を保持しており、武力によってさらに勢力を拡大しようとして、互いに争いあうようになりました。
 土着した武士同士の争いの中からは、戦いにおける坂東武者独特のしきたりや気風が生まれました。それはいつしか「兵の道」(つわもののみち)と呼ばれるようになったのです。
 「兵の道」を目指した坂東武者の姿は今昔物語集の中に生き生きと描写されています。彼らの戦いは馬上騎射することが基本でした。疾走する馬の上で弓弦に矢をつがい、弓を引き絞り矢を放ち敵を射る、これこそが本来の武士の姿だったのです。それが時代の流れともに消え去ってしまいました。
 さて、前述したように坂東に赴いた国司の中には、地方に土着することなく軍事貴族として都との関係を残す者もいました。清和源氏源満仲は「安和の変」を通じて摂関家との関係を強め都での地位を確立しました。
 さらに、源満仲は坂東への進出を試みました。摂関家の後押しを得た満仲は、国司になって地方へ赴任する際に、自分が行きたい任国を自由に選ぶことができたのです。
 満仲とその子息たちは武蔵国常陸国国司を歴任しました。満仲の一族はとりわけ武蔵国に執心し、国司を重任したようです。武蔵国は坂東でも有数の馬の産地であったので、武家にとっては重要な場所だったのです。
 そして、満仲の子息のなかから武家の棟梁としての資質を備えた武将が現れます。その武将は源頼信といいます。頼信は大江山の鬼退治で有名な源頼光の弟です。兄の頼光は都で軍事貴族としての立場を維持しましたが、弟の頼信は坂東へ赴きカリスマ的な武将となりました。
 源頼信がどのような武将であったのか、このシリーズではもうおなじみになった今昔物語の説話を通して見ていきます。

 「源頼信朝臣、平忠恒を責むること」
 昔、源満仲の三男で源頼信という武士がいました。この人は大変武勇に優れた武士で朝廷からも厚い信頼を得ていました。あるとき、頼信は常陸守となって任国に赴きました。
 ちょうどその頃、下総国に平忠恒という武士がいました。忠恒は桓武平氏の回に説明した平良文の孫で坂東八平氏のひとつである千葉氏の始祖となる武将です。
 忠恒は上総・下総に大きな勢力を誇り、実質的な支配者となっていたので、国司の命令に背き税を納めていませんでした。また、常陸守である頼信の命令も無視していました。
 このような忠恒の横暴なふるまいに業を煮やした頼信は、下総に攻め入り忠恒を討伐しようと決意しました。
 頼信が忠恒を攻めるという話が常陸国の中で広まると、頼信に援軍を申し出る者が出てきました。それが平維基です。維基は前回紹介した「今昔物語集」に登場した平維茂の弟です。維基も兄と同様に平貞盛の養子になり、常陸国の中で貞盛の領地を受け継いだ有力な武将でした。
 源頼信は二千の軍勢を率いて忠恒の討伐に向かいました。そこへ平維基が三千の軍勢を率いて頼信に合流してきました。頼信は五千の大軍勢を率いて鹿島の浜まで進軍しました。
 平維基は常陸の有力な豪族でしたが、源頼信に対して家来のように振る舞ったので、常陸の兵士たちは皆頼信に忠実に従いました。
 この頃常陸国下総国の間には香取海という内海が広がっていました。ちょうど現在の利根川下流域のあたりです。忠恒の館は鹿島の浜から内海を挟んだ対岸にありました。
 そこから船で内海を渡れば、すぐに忠恒を攻めることができましたが、頼信の軍勢が来ることを察知した忠恒は鹿島の浜の船を隠していました。
 船を使わずに陸地を迂回すれば、頼信の軍勢が忠恒の館に着くのは7日後になってしまいます。その間に忠恒は味方の軍勢を集めるつもりでした。
 しかし、頼信には秘策がありました。頼信の家には香取海の浅瀬を通る道のことが伝わっていたのです。この浅瀬の道のことは地元の兵士でさえ誰も知らないことでした。
 頼信はこの浅瀬の道を伝って堂々と海を渡って行きます。その姿を見て兵士たちは頼信を武神のように崇めました。
 驚いたのは平忠恒も同じです。誰も知らないはずの浅瀬を渡り、瞬く間に攻め寄せてきた頼信の軍勢を見て、忠恒は度肝を抜かれました。
 もはや為す術の無い忠恒は、頼信に謝罪状を差し出し、頼信の忠実な家来となることを誓いました。
 そこで頼信は降伏した忠恒を許しました。これ以降、常陸や下総の武士たちは源頼信を武神のように崇め畏れ敬ったということです。
 こうして清和源氏の大将のもとに桓武平氏の武士たちが従うという図式の原形が誕生しました。