歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 平忠常の乱

 前回は今昔物語集のなかから「源頼信朝臣、平忠恒を責むること」という話を紹介しましたが、ここでいくつか補足しておきます。
 まず「平忠恒」という表記は今昔物語集の表記です。高校日本史の教科書である「山川出版社」の「詳説 日本史」では「平忠常」と表記されているので、今後はその表記に従います。
 また、今昔物語集のなかでは、源頼信が「常陸守」として任国に赴いたと書かれていますが、常陸国天皇の御子である親王国司となる国と定められているので、頼信の官途名は正確には「常陸介」となります。
 通常は、常陸守に任じられた親王が任地に赴くことはなく、国司の次官である常陸介が在地のトップとして任務にあたるのです。
 常陸介として任国に赴いた源頼信は上総・下総で横暴な振る舞いを続ける平忠常を討伐しようとしました。このとき、平維基が頼信に援軍を申し出ました。維基の一族と忠常の一族は長年に渡って対立していたので、維基は忠常を倒す機会を窺っていたのだと思います。
 維基は対等な立場で援軍を申し出たのではなく、頼信の下に付き従う形をとりました。今昔物語集では「維基が馬からおりて頼信の馬の口をとった」とあります。
 維基がこのような態度をとったことは、頼信が常陸介であることにもよるのでしょうが、頼信が発する武将としてのオーラに参ってしまったのだと思います。
 忠常の館へ攻め寄せる際、頼信は源家に伝わる浅瀬の道を使って海を進軍しました。祖父経基、父満仲の代から常陸介に任じられてきた源家にはこの秘密の道のことが代々伝わっていたのです。
 忠常は自分の館は海に守られているので、簡単に攻め寄せられることはないと安心していました。ところが、頼信が浅瀬の道を通って一気に攻め寄せてきたので、忠常は無抵抗で降参し謝罪文と名簿状を差し出しました。これに対し、頼信は武力を行使せず、忠常を許しました。このような頼信の寛大な態度が坂東武者の心を掴んだのです。
 ところで、忠常が差し出した「名簿状」(みょうぶじょう)とは降参し家来として仕えますという証拠であるそうです。
 このようにして、源頼信は平維基と平忠常
という二人の有力な武将を戦わずして配下におくことができました。
 平維基は平将門を倒した平貞盛の養子で常陸平氏を束ねる豪族の長でした。一方、平忠常は上総・下総を支配する房総平氏の長でした。このようにして源頼信は坂東における平氏の二大勢力を傘下におさめることができたのです。

 源頼信は長和五年(1016年)より前に二期(おそらく8年)に渡って常陸介を勤めたのち都へ戻りました。頼信がいなくなると、平忠常は再び勢力を拡大しその威勢は上総・下総に加え安房にもおよび房総半島一帯を支配下におきました。
 長元元年(1028年)安房守平惟忠と対立した平忠常安房守を焼き殺し反乱を起こしました。世に言う平忠常の乱です。
 反乱鎮圧の為に追討使として派遣されたのは平直方です。直方の父平維時は藤原摂関家に取り入って直方を追討使に任命してもらったのです。それは平忠常を亡きものにして上総・下総を我がものにしようとする維時・直方親子の私的な陰謀でした。
 これを知った忠常は激しく抵抗しました。そのため戦いは長期化し房総半島の民は疲弊しました。直方の討伐が不振続きであることを重視した朝廷は、追討使を更迭することにしました。
 新しく選ばれた追討使は源頼信です。追討使が頼信に替わったことは、忠常にとっても渡りに船でした。直方との長い戦いで忠常も消耗しきっていたのです。かつて主従の誓いを交わした頼信に対して、忠常は素直に降参しましたが、その直後病を得て死にました。こうして長元四年(1031年)平忠常の乱は終わりました。
 忠常が降参したとき、頼信はまだ任国の甲斐にいて坂東下向の準備をしているときでした。またしても頼信は戦わずして勝利を得たのです。
 忠常が死んだことで朝廷の面目は保たれました。また、頼信が朝廷に働きかけてくれたおかげで、平忠常の遺族は罪に問われることはありませんでした。忠常の子孫はその後も房総で繁栄し千葉氏や上総氏へとつながりました。
 源頼信は武勇に優れた武将であると同時に、戦わずして勝つという知略の持ち主であり、敗者を思いやることのできる度量の持ち主でもあったのです。
 平忠常の乱を鎮圧した源頼信は、その褒美として都に近い丹波国国司になることを最初は希望したのですが、後に考えを変えて美濃国国司になることを望み、そこに着任しました。美濃国は京都と坂東の中間に位置する国です。都での摂関家との関係、坂東での大きな影響力、この二点を考慮した頼信の選択であったのです。
 頼信が築いた坂東での基盤は、その後頼義、義家へと受け継がれていくのです。