歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

江ノ島合戦

 宝徳元年(1449年)、足利成氏は五代鎌倉公方に就任しました。鎌倉公方を補佐する関東管領には、山内上杉家家督を継いだ上杉憲忠が就きます。しかし、これは誰がみても危険な人事です。成氏にとって、憲忠は親の敵の息子です。両者の関係が険悪になるのは当然の成り行きでした。
 このような人事が行われた背景には、室町幕府の中に山内上杉家を押す力が強力に働いたのでしょうが、誤った人事だと云わざるを得ません。現代でも自民党の派閥争いや数合わせの論理で、全く不適格な人物を大臣にすることがありますが、それと同じようなことなのでしょう。
 室町幕府は当初、上杉憲実を関東管領に復帰さようと考えていました。しかし、憲実は幕府の要請に応えませんでした。憲実は、成氏の父親である足利持氏を死に追いつめた張本人です。成氏が憲実に対して、深い恨みを抱いていることは十分承知していました。そのため憲実は関東管領に就くことを固辞し、伊豆で隠棲したのです。
 憲実は、息子の憲忠が関東管領に就くことにも反対しました。しかし、憲忠が聞き入れなかったので、親子の縁を切り、憲実は西国へ落ちて行きました。憲実は周防国に至り、大内氏の庇護を受けました。
 一方、鎌倉では更に事態が悪化していました。成氏は結城成朝や里見義実などを鎌倉へ呼び寄せ、領地を安堵し側近として仕えさせたのです。成朝や義実らは結城合戦で親兄弟を関東管領方に殺されていました。彼らもまた上杉氏に対して、深い恨みを抱いていました。
 彼らは上杉憲忠と顔を合わせる度に、平静を装いながらも心中穏やかではなかったでしょう。まさに、鎌倉には一触即発の空気が漂っていたのです。
 上杉憲忠はまだ十代の若者でした。憲忠を陰で支えていたのが、扇谷家の上杉持朝です。持朝は娘を憲忠に嫁入りさせることで、関東管領の舅となり、権力を強めていたのです。
 持朝は、守護として相模一国を領有し、武蔵国南部も支配していました。陰の支配者は扇谷家宰の太田道真と山内家宰の長尾景仲に命じ、先手を打って成氏を襲撃しようと計画しました。
 宝徳二年四月(1450年)、道真と景仲は、成氏を討つため鎌倉を急襲しました。しかし、この襲撃は事前に成氏方に漏れていました。成氏は鎌倉から江ノ島へ避難し、守りを固めていたのです。成氏は戦況が悪くなれば船で房総へ逃れようとまで考えていました。
 太田・長尾は五百騎の軍勢を率いて腰越に進出してきました。そこへ成氏方の小山下野守が攻撃をしかけます。しかし小山勢は寡兵であったので撃退されました。勢いに乗った太田・長尾勢は由比ヶ浜へ押し寄せました。
 これを迎撃したのが、成氏方の千葉・小田・宇都宮の四百騎です。成氏方は猛攻を仕掛け敵方を蹴散らしました。太田・長尾勢は120人が討ち取られ、相州糟屋へ敗走したのです。関東管領方の先制攻撃は失敗に終わりました。これを江ノ島合戦といいます。
 江ノ島合戦の後、両陣営のにらみ合いは続きましたが、幕府の仲裁によって和睦しました。しかし、これは一時的な休戦にすぎませんでした。

鎌倉公方の不在

 前回までは、永亨の乱と結城合戦について話してきました。やや長い説明になりましたが、亨徳の乱を理解するためには省略することのできない出来事でした。
 結城合戦の後、関東では鎌倉公方が不在になりました。そのため、関東には不穏な空気が漂います。坂東武者にとって、源氏の棟梁は必要不可欠な存在なのです。源氏の棟梁から所領安堵を受けないことには安心できないのでしょう。
 また鎌倉公方が不在である間は、関東管領が代行して政務を執っていましたが、その政治に不満を持つ坂東武者は数多くいたはずです。彼らの気持ちは「何故我らが京都の回し者の下知に従わねばならぬのか」というものだったでしょう。
 さらに、結城合戦では多くの武将が討ち死にしました。敗れた持氏派の残党は、そのことで一層関東管領を憎んだと思われます。このように、鎌倉公方の不在が原因で坂東武者の不満が高まり、関東は非常に不安定な状況であったのです。
 そのため、越後守護の上杉房定や関東の主立った武将によって、鎌倉公方を復活させる嘆願運動が起きたのです。彼らの望みは持氏の息子の生き残りである万寿王丸を主君として鎌倉に迎えることでした。
 万寿王丸は永亨の乱の折りに、信濃国の大井持光のもとに逃れ、大切に育てられていました。これを知った関東の武将たちは室町幕府の有力者に、何年もの間多額の賄賂を送り鎌倉公方復活の嘆願を続けたのです。
 文安四年(1447年)万寿王丸はついに室町幕府より許されて鎌倉公方に就任することが決まりました。宝徳元年(1449年)に元服し、八代将軍足利義成(後に義政に改名)の一字を頂き成氏と名を改め、意気揚々と鎌倉に入ったのです。
 しかし、五代鎌倉公方足利成氏の登場は関東の大乱「亨徳の乱」を呼び起こすことになりました。亨徳三年(1454年)に始まった乱は実に30年以上続きます。この戦乱の中で関東の武将は次第に戦国大名へと変貌していくのです。
 亨徳の乱が始まったことで室町幕府が関東に定めた秩序は崩壊しました。なにしろ秩序を守るべき鎌倉府のナンバー1とナンバー2が関東中を巻き込んで争っているのです。
 もはや所領を守るシステムは有りません。武将は自分の所領を実力で守るしかなくなりました。そのためには経済力を上げ武力を増強するしかないのです。所領内に独自の掟を定めて秩序を安定させることも必要でしょう。弱者は強者に従うか、滅びるか二者択一を迫られるのです。
 その意味では亨徳の乱は関東が戦国時代へ移行する期間であったと言えるのかもしれません。

鎌倉公方家の悲劇(結城合戦)

 永亨の乱は足利持氏の自害で終わりました。しかし、持氏の子供たちにはさらなる悲劇が待っていたのです。持氏の嫡男義久は持氏と時を同じくして自害していましたが、窮地を脱した子供たちがいたのです。春王丸と安王丸の兄弟は常陸国へ逃れました。また後に五代鎌倉公方となる万寿王丸は信濃国の大井氏のもとへ匿われました。
 常陸国に逃れていた春王丸、安王丸のもとには永亨の乱に敗れた持氏派の残党が集まっていました。永亨十二年(1440年)彼らは春王丸と安王丸を担ぎ出して結城城に籠城し、室町幕府に反旗を翻しました。世に言う結城合戦です。
 室町幕府は直ちにこの反乱に対応し、討伐軍を結城城に向かわせました。討伐軍の大将は上杉清方です。この頃、上杉憲実は乱れた世を疎んで伊豆に引き籠もっていました。憲実に替わって鎌倉府の政務を執っていたのが弟の清方です。清方は越後上杉家にいたのですが、関東に呼ばれ山内上杉家督を継ぎ関東管領職を代行していたのです。
 上杉清方は総勢数万という軍勢を率いて結城城を囲みました。しかし、結城城は容易には落城しませんでした。結城城は要害の地に築かれた難攻不落の城でした。城内には兵糧も豊富備蓄されており、籠城した軍勢は戦意旺盛でした。
 一方の討伐軍は、大軍ではあるものの戦意は乏しかったと思われます。何故なら、結城城に籠もっている軍勢は、先の永亨の乱で敗れ領地を失った者の集まりです。討伐軍がこの戦で勝っても新たな領地が増える訳ではないのです。必然的に討伐軍の攻撃は精彩を欠いたものとなりました。
 そのため、城攻めは数ヶ月に及びましたが、なかなか落城しませんでした。討伐軍の不甲斐ない戦い方に業を煮やした清方は、全軍に向けて檄を飛ばします。「鎌倉大草紙」が伝えるところでは「日本半国が向かって一城を攻めかねて当地にて数ヶ月合戦に及び、いたずらに里民を煩わす事は不本意である。また室町将軍も定めて遺憾なことであろう。そして我々にとっては末代までの恥である」
 この清方の檄に奮起した討伐軍は総攻撃を仕掛けました。城方は城門を開き打って出ました。これまで手ぬるい攻撃を繰り返きた討伐軍も今度ばかりは必死です。両軍が死力を尽くして戦ううちに、数に勝る討伐軍が優勢になり、城方を城内に押し込みました。そして、討伐軍の放った火が城へ燃え移ったのです。。折からの強風にあおられ火は勢いよく燃え広がりました。城に押し込まれた軍勢は火と煙に追われ逃げ出しましたが、その先は川でした。籠城勢の多くは、その川に追い込まれ溺死したのです。
 こうして結城城に籠もった反乱軍は敗れました。春王丸と安王丸の兄弟は捕らわれて京都へ連行されていたのですが、その途中、美濃国で殺されてしまいました。二人ともまだ12歳~14歳の少年でした。結城合戦は幼い兄弟の死という悲劇で終わりました。そして、この戦が鎌倉公方に味方したものと、関東管領に味方したものの間に深い遺恨を残したのです。
 結城城の落城は嘉吉元年(1441年)のことでした。同じ年に起きた嘉吉の乱で、室町将軍足利義教は赤松満佑に謀殺されました。

 余談ですが、足利義教織田信長には共通点があります。どちらも強権的なリーダーでした。どちらも絶頂期に富士山を遊覧しています。どちらも比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。そして最期は謀反によって滅んだのです。
 なにも信長が義教を模範とした訳ではないと思いますが、滅び行く運命の人は同じような道を辿るのかもしれません。世のリーダーの方々、くれぐれもご用心を。

足利持氏の反乱(永亨の乱)

 正長二年(1429年)足利義教が六代室町将軍に就任しました。将軍になるという足利持氏の野望はついえたのです。しかし、室町幕府から徹底的に無視された持氏の怒りは収まるはずがありません。次第に持氏は室町幕府に敵対するようになってきました。
 持氏の暴発をなんとかくい止めているのが関東管領の上杉憲実でした。憲実は持氏が何か事を起こそうとするたびに諫言してきたのです。憲実の行動は鎌倉府を守るためのものでしたが、皮肉なことに、その行動が持氏の怒りをかうようになってしまったのです。
 持氏にとって憲実は疎ましい存在でした。「俺が何かをしようとすると、ふたこと目には京都の意向が、と言って反対する。そもそも俺が将軍になれなかったのは、あいつのせいではないのか」心の中で持氏は憲実のことをこう思っていたでしょう。徐々に持氏の敵意は憲実に向けられていったのです。いずれ憲実は持氏に討たれるであろうという空気が鎌倉府の中に醸成されていきました。
 永亨十年(1438年)、身の危険を感じた憲実は鎌倉を脱出し領国である上野国に逃れました。これを察知した持氏は憲実を討つため軍勢を上野国へ出撃させました。世に言う「永亨の乱」の始まりです。
 室町幕府は持氏の軍事行動を謀反とみなしました。なぜなら関東管領を任命するのは室町幕府です。つまり憲実は幕府から派遣された役人のようなものです。その幕府方の憲実を攻撃することは、幕府に対する反逆でした。
 六代将軍足利義教にとって、持氏の謀反は好機到来でした。「くじ引き将軍」と揶揄されていた義教は、将軍として自分の力を世に示す機会を狙っていました。しかも、相手は足利持氏です。持氏は、義教が将軍に就いて以来、何かと反発してきました。義教は常々生意気な持氏を成敗してやろうと手ぐすね引いて待ちかまえていたのです。
 持氏謀反の知らせを聞いた義教はすぐさま動きます。後花園天皇から持氏追討の綸旨を得た義教は、軍勢を関東に向かわせました。幕府の大軍が関東に押し寄せると、持氏の味方のなかに動揺する武将があらわれました。
 彼らは朝敵とみなされることを恐れたのでしょう。持氏の軍勢からは幕府方へ寝返るものが続出し、持氏は進退きわまりました。敗北した持氏は鎌倉へ連行され軟禁されてしまったのです。
 室町幕府の中には、持氏の助命を考える者もいましたが、義教は持氏を断固許さず、憲実に殺害を命じました。さすがに、自ら手を下すことを恐れた憲実は千葉胤直らを派遣して持氏に自害を強要させたのです。永亨十一年(1439年)四代鎌倉公方足利持氏は自害し果てました。

足利持氏とくじ引き将軍

 鎌倉公方関東管領の対立が激化したのは四代鎌倉公方足利持氏の時でした。応永十七年(1410年)足利持氏が四代鎌倉公方に就きました。この人は大変な自信家でした。「いつか室町将軍になり天下に号令するのだ」という野望を抱いていたのです。
 しかし、現実には室町将軍になれるのは足利尊氏の嫡男である義詮の血筋を引く者だけでした。鎌倉公方は尊氏の六男である基氏の血筋です。持氏が室町将軍になるのは、どだい無理な話でした。
 関東管領の上杉憲実は、そんな持氏の考えをいつもたしなめていました。彼は持氏が無謀なことを起こして室町幕府から詮議されることを恐れていたのです。
 ところが、その無理な話が通りそうな事件が起きたのです。応永三十二年(1425年)五代将軍足利義量が19歳の若さで死んだのです。義量には子がいなかったので将軍の跡継ぎが空白になったのです。
 この事態で俄に色めきたったのが鎌倉公方足利持氏でした。将軍の跡継ぎになるべく盛んに活動を始めたのです。義量の父、四代室町将軍足利義持は健在でした。持氏は自分が義持の猶子になって将軍位に就くことを望み義持宛の嘆願書を送り出したのです。
 しかし、持氏の嘆願書が義持に届くことはありませんでした。持氏が出した嘆願書は全て幕府の側近によって握り潰されていたのです。もっとも、義持のもとに届いていたとしても相手にされなかったでしょう。義持自身も後継者を誰にするか考えている様子はありませんでした。義持はこの時40歳代でまだこれから子供ができ、その子を将軍に就けようと考えていたようです。
 ところが、義持もまた急死してしまいました。当然、将軍を誰にするか遺言など残していません。困ったのは幕府の側近たちです。仕方なく、義量の兄弟で僧籍に入っている4人のなから、くじ引きをして将軍後継者を決めることにしたのです。
 こうして選ばれたのが、「くじ引き将軍」と呼ばれた六代将軍足利義教です。この事態の成り行きを、はらわたが煮えくり返る思いでみていたのが持氏です。

 ところで、六代将軍足利義教が選ばれた「くじ引き」は八百長であったという説があります。その顛末は、現在日経新聞で毎週土曜日に掲載されている「日本史ひと模様」という記事に載っています。この記事を執筆されているのは、本郷和人先生です。
 非常に面白い話ですので、興味のある方は是非お読み下さい。平成30年7月7日~7月28日の日経に掲載されています。

鎌倉公方と関東管領の対立

 前回までは、品川湊の風景と題して三回に渡って現代に残る品川湊の痕跡を点描してきました。みなさんも機会があれば是非一度訪ねてみて下さい。
 さて、ここらで再び太田道灌の時代に戻ります。長禄元年(1457年)道灌は江戸城を築きました。徳川家康江戸幕府を開く約150年前のことです。
 江戸は海と大河が接する場所です。そこは物流拠点であり、経済拠点であり、軍事拠点でもありました。道灌がこの重要な場所に城を築いたのは関東の大乱である「亨徳の乱」が勃発したからです。
 そこで、ここからは亨徳の乱について詳しくみていきたいと思います。亨徳の乱が何故起きたのか?そのことを知るためには、室町時代における関東の支配体制を理解する必要があります。
 以前にも簡単に説明しましたが、関東支配体制のナンバー1は鎌倉公方です。足利尊氏の六男である基氏が初代鎌倉公方に就任しその嫡男が代々鎌倉公方になりました。
 一方、関東管領は初代鎌倉公方の基氏が9歳で公方になったことから公方を補佐する役職として設けられたのです。関東管領はやがて上杉氏が代々受け継いでいくことになります。
 室町幕府を会社に例えるならば、本社が京都の室町幕府です。鎌倉公方は関東支社の支社長で関東管領は関東支社の専務です。ところが関東管領の人事権は京都の室町幕府が握っています。従って関東管領は京都の意向を第一に考える立場なのです。
 鎌倉公方関東管領といういびつな関係は、両者の間に対立を生みます。長年に渡る両者の確執がやがて大乱に至る要因を醸成していくのです。

品川湊の風景ー3 海にまつわる伝説の地

 品川湊一帯は古来から人々の暮らしがあったところです。人々は海とともに生きてきました。そこには海にまつわる伝説が伝えられています。太田道灌の時代からは、かなり離れますが、この地に伝わる悲しい伝説を紹介します。
 八ッ山通りよりひとつ東側の路地に小さな神社があります。ここは前回説明した砂嘴の付け根部分にあたります。神社の名前は寄木神社といいます。ひっそりとした境内に石碑が置かれ、神社の由来が記されています。
 それはヤマトタケルノミコトにまつわる伝説です。ヤマトタケルは父である景行天皇の命を受けて東征に出ます。大和を出て三浦半島までたどりついたヤマトタケル浦賀水道を渡って房総半島へ向かおうとします。
 海を渡り始める時にヤマトタケルは「こんな小さな海一っ飛びだ」と叫びました。不用意なこの一言が海神の耳に届きます。海神は大いに怒り、海は大荒れになってヤマトタケルの一行は房総半島へ進むことができなくなりました。
 ヤマトタケルにとって東征を果たすことは宿願でした。愛する夫の宿願を果たす為に妻のオトタチバナヒメは自分の命を犠牲にする決心をしました。
 彼女は自分の命を捧げる代わりに怒りを鎮めて欲しいと海神に申し出ました。そしてすぐさま荒れ狂う海に飛び込んだのです。姫の体が海中深く沈んでいくと大荒れの海は穏やかな海に戻りました。妻の死を悲しみつつも、ヤマトタケルは海を渡り房総半島へ辿りつきました。
 このときオトタチバナヒメの乗っていた船はバラバラに壊れその木材が品川の浜に流れついたのです。姫の死を哀れんだ浜の人たちは流れついた木材を寄せ集めて神社を作り姫の冥福をいのったのです。それが寄木神社のはじまだと云われています。
 東征を果たしたヤマトタケルは死後に白鳥となって江戸の地に舞い戻りました。ヤマトタケルは自分の為に命を犠牲にしてくれた妻のことを決して忘れてはいなかったのです。