歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 桓武平氏

 898年桓武天皇の曾孫にあたる高望王が平朝臣の姓を賜り臣籍降下し、関東へ下向しました。これが桓武平氏の始まりです。
 日本史の教科書に記載されている桓武平氏系図では、高望王の息子として三人の名前が載ってる例が多いと思います。その三人とは国香、良将、良文のことです。
 三人のうち国香と良将は父である高望王とともに坂東へ下向しました。国香自身は平将門との勢力争いの中で将門に殺されてしまいます。しかし、その子孫は将門を倒し、やがて伊勢平氏となり、平清盛を輩出する血筋となります。
 良将の息子が平将門です。平将門については歴史好きの方なら十分知識もおありでしょうから、ここでは敢えて詳しい説明はいたしません。
 さて三人目の平良文こそ、今回注目する人物です。良文は高望王の側室の子供でした。高望王が坂東に下向した時には、良文は都に留まっていたようですが、後に相模国の賊を討伐するために坂東に下向したのです。
 良文は武勇の誉れ高い武将でした。良文が坂東に下向した時の逸話として「今昔物語」には「源宛(みなもとあつる)と平良文(たいらのよしふみ)と合い戦うこと」という話が載っています。
 昔、東国に源宛と平良文という二人の武者がいました。二人は互いに武の道を競っていましたが、あるとき仲が悪くなってしまいました。お互いの家来どもが相手を中傷するようになり、どちらが強いか決戦をして決着をつけようということになりました。
 双方は果たし状を取り交わし、決戦をする日取りと場所を決めました。決戦の当日、両軍はそれぞれ五、六百の軍勢を率いて広野に対峙しました。
 いよいよ決戦の火ぶたが切られるという時に、良文の陣から使者が出てきて、今日の合戦は大将同士の一騎打ちで決着をつけようと申し出ました。源宛はこの申し出を受けました。
 そこで、両軍の兵士が見守る中、源宛と平良文がそれぞれ馬にまたがり進み出ました。互いに弓を引き絞り馬を走らせ矢を放つこと数度。両者とも的をはずさぬ矢を放ちましたが、互いに巧みに身をかわし矢を逃れたのです。
 結局、源宛と平良文はお互いの技量を認めあい、戦いは引き分けで終わりました。この後、両者は心を通わせて末永く交わったということです。
 この逸話のなかに、坂東武者の姿がありありと見えるではありませんか。果たし状を交わして決戦の日取りを決める。互いのプライドを賭けての一騎打ちを行う。そして相手が優れた武勇の持ち主であれば素直にそれを認める。
 このような坂東武者独特のしきたりが、戦いを通じて培われ「兵の道」と呼ばれるようになりました。
 この逸話に登場する源宛は、嵯峨天皇の流れをくむ嵯峨源氏の子孫です。この嵯峨源氏は早から坂東に定着していたようすが、後に坂東へ下向してきた清和源氏と融合し、清和源氏がその勢力を引き継ぐことになるのです。
 一方、平良文の子孫は坂東各地に広がり坂東八平氏と呼ばれるようになります。千葉氏、上総氏、秩父氏、畠山氏、三浦氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏などです。
 興味深いことに、いま記載した坂東八平氏の多くが、治承四年(1180年)平家打倒のために挙兵した源頼朝につき従うようになるのです。私は源平合戦という言葉の響きから、全国の源氏と全国の平氏がそれぞれの旗のもとに結集し、戦っていたのかと思っていました。
 しかし、実際は坂東平氏の多くが頼朝に味方していたのです。しかも、ほぼ頼朝の主力軍と言っても過言ではないでしょう。
 つまり、坂東武者のメインメンバーは桓武平氏ですが、それを率いた大将は清和源氏ということになります。どうしてこのような力関係が生まれたのでしょうか?今後はこの謎について考えて行きたいと思います。