歴史楽者のひとりごと

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坂東武者の系譜 貴族から武士へ

 古代の英雄ヤマトタケルは東方遠征を果たした後、足柄峠(あるいは碓氷峠)の頂に立ち、東方を眺めて、亡き妻オトタチバナヒメへの想いを込めて三度嘆き「あづまはや」とつぶやいたそうです。
 この故事にちなみ、足柄峠(あるいは碓氷峠)の坂より東の国々を坂東と呼ぶようになりました。
 坂東では、都から国司として赴任した貴族が任期を終えた後も、この地に留まり土着するようになりました。それは9世紀末から10世紀にかけての頃だと言われています。
 彼等は何故都での雅な生活を捨て、坂東の大地で生きることを選択したのでしょうか?
それには大きく二つの要因があったと考えられます。
 まず一つ目の要因は、9世紀末頃に朝廷が軍制改革を行い、国司に強力な軍事権・警察権を与えたことがあげられます。
 この頃全国各地で地方豪族や有力な農民が武装し勢力の維持・拡大のために紛争を繰り返していました。朝廷は紛争を鎮圧するために、押領使や追捕使を国ごとに設置しました。行政官である国司はその役目を兼務することで、警察権を手に入れました。さらに朝廷は、軍勢を動員する権限も国司に与えたのです。こうして国司は強力な軍事力を行使できるようになったのです。
 二つ目の要因は、年貢の徴収を国司に請け負わせたことです。奈良時代の頃、朝廷は班田収授法を定め、土地と人民を直接支配して徴税を行っていました。しかし、9世紀頃には班田収授法はすっかりすたれてしまいました。
 そこで、朝廷は安定した徴税を実施するために、地方の情勢を把握している国司に徴税を委任したのです。これによって国司は広大な領域を勢力圏に置き、経済的な基盤を得ることもできたのです。
 武士とは、もともと平安時代の神事において馬上騎射する能力に優れた芸能者でした。このような人々が坂東に下向し、水を得た魚のようになったのです。彼らは軍事権、警察権、徴税権を手にして地方の有力な豪族となりました。
 そして、広大な牧で放牧された馬にまたがり坂東の大地を疾走しました。武士たちは、馬上騎射する得意の武芸で紛争を鎮圧するために活躍しました。さらに同族同士で勢力争いを繰り返すうちに強力な軍事集団に成長したのです。
 これが坂東武者のルーツとなりました。坂東武者の代表的な存在といえば、桓武平氏清和源氏があげられます。
 この両者はもともと皇族でした。ところが9世紀頃になると、皇族の数が増えすぎ天皇家の財政を圧迫し出したのです。そこで天皇は、皇后や妃などの正式の地位をもつ女性および特定の上級貴族出身の女性から生まれたものを除き、他のすべての子孫に平朝臣や源朝臣の姓を与え臣籍降下させたのです。
 皇族であった桓武平氏清和源氏がどのようにして荒々しい坂東武者に変貌を遂げていったのでしょうか。このシリーズでは歴史に名を残した坂東武者の系譜をたどり、その全貌に迫っていきたいと思います。

 このシリーズで参考にさせて頂いた文献はシリーズ終了時に記載させて頂きます。