歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

太田道灌番外編3 道灌死後の関東

 文明十八年七月二十六日(1486年)太田道灌相模国糟屋にある扇谷館で暗殺されました。暗殺の首謀者である扇谷定正は、人望を失い扇谷家から離反する者も数多くいたそうです。
 関東管領山内上杉顕定の描いた謀略は見事に成功しました。顕定は自らの手を汚すことなく、扇谷定正をそそのかして太田道灌を排除し、扇谷家の勢力を弱めることができたのです。
 そこで、山内顕定は扇谷家を倒すべく一気に攻勢にでました。長亨二年(1488年)顕定は一千騎の軍勢を率いて、扇谷定正に攻撃を仕掛けたのです。これを皮切りに山内・扇谷両上杉の抗争が始まりました。この争いを長亨の乱と言います。
 劣勢に立たされた扇谷定正ですが、古河公方足利政氏足利成氏の嫡男)の支援を受け合戦では善戦したので、両上杉の抗争は長期に渡りました。
 しかし、明応三年十月(1494年)武蔵高見原の合戦の時、定正は落馬して急死しました。定正の死後、古河公方が山内家の味方に寝返り、扇谷家の勢いは弱まりました。
 永正二年(1505年)山内家優勢のうちに両上杉は和睦し、長亨の乱は終結しました。17年もの戦いで、山内・扇谷両上杉ともに疲弊し、その勢力は弱体化したのです。

 両上杉が関東で激しく争っている頃、隣国伊豆でも大事件がおきました。
 文明十四年(1482年)に室町幕府古河公方足利成氏の和睦が成立したとき、伊豆一国は堀越公方足利政知支配下に置かれました。足利政知は、延徳二年(1490年)に亡くなりました。長禄元年(1457年)関東に下向してきた政知ですが、さしたる事績を残すことはできませんでした。
 その後、堀越公方家の家督を継いだのは政知の嫡男足利茶々丸でした。茶々丸とは幼名ですが、元服した後の名前は伝わっていないのです。15歳で堀越公方になった茶々丸は、佞臣の告げ口を信じて、功臣の外山豊前守、秋山蔵人を惨殺しました。この事件で、伊豆国内が混乱します。
 その混乱に乗じた伊勢宗瑞(後の北条早雲)が、明応二年(1493年)に伊豆を急襲し堀越公方を滅ぼしました。
 伊豆国を奪取した伊勢宗瑞は、伊豆韮山を足がかりにして関東への進出をもくろむのです。宗瑞は今川家の一武将にすぎなかったのですが、大胆にも堀越公方を滅ぼし、伊豆一国を手に入れたのです。
 太田道灌にも宗瑞のような大胆さがあれば、必ず戦国大名になれたでしょう。しかし、道灌には、どこか杓子定規なところがありました。下剋上ではなく、きちんと手順を踏んで、扇谷上杉から独立し戦国大名になろうと考えていたのでしょうが、ことは道灌の思い通りには進みませんでした。
 しかし、道灌が清濁併せ呑むようなタイプの人物であれば、現在のように数多くの太田道灌ファンが生まれることはなかったのかもしれません。実に複雑です。

 話を元に戻しましょう。太田道灌の死後、関東の情勢は大きく変化しました。両上杉は長亨の乱によって弱体化しました。そこへ伊豆国を奪取した伊勢宗瑞が登場します。宗瑞は文亀元年(1501年)に小田原城を奪い、本格的に関東へ進出してきました。
 伊勢宗瑞は生涯をかけて相模の三浦氏と戦いついに相模国を平定しました。宗瑞の跡継いだ北条氏綱は、関東での勢力を拡大しました。氏綱の嫡子である北条氏康は天文十五年(1546年)河越夜戦で両上杉・古河公方連合軍を打ち破りました。
 関東古戦録が伝える河越夜戦では、北条氏康の軍勢八千に対して、上杉憲政・扇谷朝定の率いる軍勢は六万五千、それに古河公方足利晴氏の軍勢二万が加わりました。
 北条氏康は実に十倍以上の敵を相手にして、見事な戦略を練り勝利したのです。この戦い以降、上杉憲政の勢力は衰えました。
 天文二十年(1551年)北条氏康上杉憲政の居城である上野平井城を攻撃すると、上杉憲政は越後の長尾景虎を頼って逃げたのです。
 こうして、長尾景虎関東管領上杉の姓を受け継ぎ、関東へ侵攻するようになったのです。そして、関東の覇権を争う主役は、北条氏康上杉謙信武田信玄へと変わっていきました。

 足利晴氏は成氏の曾孫ですが、古河公方に往時の権勢はありません。やがて足利氏の子孫は没落していきますが、豊臣秀吉によって下野国喜連川に五千石の所領を与えられます。秀吉はかつての名門を庇護することを好みました。その後、足利氏は喜連川藩として明治まで存続したのです。
 太田道灌の子孫は、江戸城を居城にしていましたが、上杉、北条と常に大名の支配下にある一武将にすぎませんでした。やがて、徳川家康が江戸に入ると、徳川家の家臣になったということです。

太田道灌番外編2 和歌で城を取り返した武将

 亨徳三年十二月(1454年)鎌倉公方足利成氏は、関東管領上杉憲忠を謀殺しました。これより、関東全域を巻き込んだ大戦乱である亨徳の乱が始まります。
 亨徳の乱は太田道灌の活躍で終結しますが、およそ30年に渡る戦乱の中では、太田道灌の他にも様々な武将が活躍しました。その武将の中で今回取り上げるのは、東常縁(とう つねより)です。この東常縁は「和歌で城を取り返した武将」なのです。いったいどういうことなのでしょうか?
 東常縁は美濃国郡上に城を持つ武将でした。和歌の才能に優れた東常縁は、室町将軍足利義政の近臣として京都に出仕していました。その東常縁が何故関東へ下向し、亨徳の乱に関わったのか、まずはその経緯からお話ししていきましょう。
 亨徳の乱が勃発すると、下総の千葉氏一族は、古河公方派と関東管領派に分かれて激しく争い始めました。その争いの中で、千葉氏の分家である馬加陸奥守(まくわりむつのかみ)は、古河公方の支援を受け、千葉氏本家を倒し乗っ取ってしまったのです。
 千葉氏本家の祖である千葉常胤は、治承四年(1180年)源頼朝が伊豆で蜂起し、石橋山の戦いに敗れた後、房総半島へ船で逃れてきたときに、真っ先に手を差し伸べた武将です。千葉常胤は頼朝の協力者として粉骨砕身の働きをし、源平合戦の勝利に大きく貢献しました。以来、千葉氏は源頼朝に忠節を尽くした名族として、関東に確固たる地位を築いてきたのです。
 その名族である千葉氏本家が倒されたことは、室町幕府に衝撃を与えました。幕府は千葉氏本家を再興させるため、武将を派遣することにしました。その時、白羽の矢が立ったのが東常縁でした。
 東常縁は千葉常胤の血を引く武将で、下総国東の庄に所領がありました。そこで、関東へ下向し、馬加陸奥守の討伐を命じられたのです。
 東常縁は和歌の名人でしたが、武将としての才能も優れていました。関東へ下向した東常縁は下総の一族や国人をを率いて、馬加陸奥守の軍勢を打ち破ることに成功したのです。
 ところが、東常縁が関東で馬加陸奥守と戦っているころ、京都では応仁の乱が起こりました。応仁二年(1468年)東常縁の本拠地である美濃国郡上城は山名方に攻められ、斉藤持是に城を奪われてしまったのです。
 この知らせを聞いた東常縁は、関東で戦っている間に、留守にしていた先祖代々の城を奪われたことを無念に思い、和歌を詠んだのです。
 「あるかうちに かかる世をしもみたり 剣人の昔の 猶も恋しき」
 東常縁と共に関東へ下向していた浜式部少輔は、この和歌を聞いて哀れに思ったので、京都の兄へ手紙を出すときに、この和歌を添えました。
 京都では、この和歌が評判になり、あの斉藤持是にも伝わったのです。斉藤持是もこの和歌を知って、いたたまれなくなったのでしょうか、東常縁に城を返したのです。その後二人の武将の間では、和歌のやり取りがあったということです。

 「武士はなぜ歌を詠むのか」という本の中で著者の小川剛生さんは次のように書かれています。『近年、日本史学では「武士」像の見直しが進んでいる。「武士」とは単に殺人や戦闘の術を専らにした武装集団の謂いではなく、騎射の藝に代表される「武藝」を伝える者であるという。そして「武藝」は宮廷文化に属する芸能の一つであり、西国に滅んだ平家武者こそ実は「武士」の名にふさわしい。頼朝はこの頃しきりに京都の文物を取り入れているが、それは粗暴な東国の領主たちを教育し「武士」へ引き上げる必要に迫られていたためである』
 すなわち『武士にとって、和歌を詠むことは洗練された文化的な振る舞いを身につけることであった。』のであり、鎌倉・室町期の武士にとって和歌の才能は身を立てるための、重要なアイテムのひとつだったのです。 
 それにしても、和歌で城を取り返せるとは、なんとも優雅な話です。現代の日本人にとっては理解し難いことですが、その中には、私たちが失ってしまった日本の大切な心があるような気がします。
 グローバル化が進む現代において、古い日本の伝統文化の中に留まることは困難なことかもしれませんが、温故知新という言葉があるように、日本の伝統文化の中にも、混迷の時代を切り開くヒントがあるのかもしれません。
 歴史を学ぶということは、過去の事象に光を当てて、未来を創造するための知恵を得ることなのです。

太田道灌番外編1 江戸城はパワースポットで守れ

 太田道灌は、徳川家康江戸幕府を開くよりも百五十年も前に、江戸城を築いた武将です。前回までは、道灌が何故江戸城を築いたのか、その背景を知るために道灌の生涯を追ってきました。
 その説明の中では、歴史の流れに沿って主だった出来事を取り上げてきましたが、その周辺には興味深い逸話がたくさんあります。今回からは、番外編として逸話の幾つかを紹介したいと思います。
 まず、第一回目は、太田道灌が数多くのパワースポットを江戸城の内外に配置していたというお話です。いったいどういうことでしょうか。
 本編でも説明しましたが、道灌が築いた江戸城は日比谷入江に突き出た高さ30メートルの台地の上にありました。城は三つの曲輪に分かれており、それぞれの曲輪は飛橋でつながっていましたが、いざという時に、橋は落とせるようになっていました。城門は鉄板を取り付けた頑丈なもので、周囲には石垣が築かれていました。
 すなわち、道灌が築いた江戸城は、台地という要害の地にあり、強固な防御施設を備えた難攻不落の城でした。その堅牢な備えに加えて、道灌は江戸城内外にパワースポットを配置し城の守りを固めていたのです。
 永亨記によれば、道灌は文明十年(1478年)に仙波山王、三芳天神、津久戸明神、牛頭天王、須崎大明神など沢山の神社を江戸城内外に建立しています。
 しかし、ここに一つの疑問が生じます。道灌が江戸城を築城したのは長禄元年(1457年)のことです。何故それから21年後になって、突然まるで何かに憑かれたかのように、短期間に数多くの神社を建立したのでしょうか?
 それには、何か深い理由があると思います。今回は、その理由を探りたいと思います。
 まず、道灌が建立した神社に注目してみましょう。特に注目したいのは、津久戸明神と三芳天神です。
 津久戸明神の御由緒によると、天慶三年(940年)に京都で獄門にさらされた平将門公の首を首桶に入れて密かに持ち去り、これを武蔵国豊島郡平河村津久戸の観音堂に祀って、津久戸明神と称したのが始まりだということです。文明十年六月、道灌は江戸城の乾(北西)に津久戸明神を建立し日本三大怨霊の一人である平将門公を守護神として祀ったのです。津久戸明神は、現在では筑土神社と名称を変えて九段下にあります。
 一方、三芳天神に祀られているのは菅原道真公です。現在は学問の神様として親しまれていますが、道真公もまた日本三大怨霊のうちのお一人です。ちなみに、あともうひとかたは崇徳上皇です。
 三芳天神は、現在では平河天満宮と名称を変えて、皇居半蔵門のそばにありますが、道灌が建立したのは江戸城内でした。道灌は道真公にちなんで、三芳天神の周辺に沢山の梅の木を植えたそうです。ところが、徳川家康江戸城を築城するときに城の領域を拡張したので、三芳天神は平川門外に移され、さらに、徳川秀忠の時代に現在の平河天満宮の場所に移りました。今では、皇居東御苑の梅林坂という地名に、三芳天神の痕跡が残っているのみです。
 平河天満宮の御由緒によると、文明十年のある日、道灌が菅原道真公の夢を見たそうです。夢を見た翌朝、道真公直筆の画像を贈られた道灌は、その夢を霊夢だと思い天満宮を建立したと記されています。
 三芳天神があった梅林坂は江戸城の東北すなわち「うしとら」の方角です。道灌は江戸城の鬼門に菅原道真公を祀りました。
 文明十年、太田道灌江戸城の要所要所に怨霊のパワーを持つ強力な守護神を配置しました。いったい道灌は何を恐れていたのでしょうか?
 そのころの状況を振り返ってみましょう。文明十年正月には、古河公方関東管領の間で和議が成立していました。道灌は軍勢を率いて、和議に応じない長尾景春の掃討戦を行っていた頃です。戦乱の趨勢は道灌に傾いている頃ですから、とくに恐れるものはないでしょう。
 そこで、私が注目したいのは文明九年(1477年)のある事件です。それは、豊島泰経を倒した時におこりました。道灌は江古田・沼袋の合戦で豊島勢を破り、その後、豊島泰経が逃げ込んだ石神井城を破壊しました。
 城が破壊される時、思わぬ悲劇が起きました。豊島泰経の妹照姫が逃げ遅れたのです。敵に辱めを受けることを拒んだ照姫は、城に面した三宝寺池に入水し命を絶ったのです。
 この事件が、道灌の心を悩ませていたのではないでしょうか。それだけではなく、長い戦乱の中で多くの人の命を奪ってきたことが道灌を苦しめていたのかもしれません。
 恐らく、道灌は照姫や命を奪われた武将たちの亡霊に悩まされていたのでしょう。そのため、平将門公や菅原道真公などの怨霊のパワーに頼って、亡霊を追い払っていたのではないでしょうか。

 平将門公は怨霊から転じて江戸の守護神となりました。現在でも大手町の一角には、将門塚があり、地元の人々によって大切に祀られています。そこに設置されている案内板には、将門公の首塚に関する大変興味深い話が記されていますので、以下に引用させて頂きます。

 「天慶の乱に敗れた将門の首級は京都に送られ獄門に架けられたが、三日後に白光を放って東方に飛去り武蔵国豊島郡芝崎村に落ちた。大地は鳴動し太陽も光を失って暗夜のようになったという。村人は恐怖して塚を築いて埋葬した。これ即ちこの場所であり将門の首塚と伝えられている。
 その後もしばしば、将門の怨霊が祟りをなすため徳治二年(1307年)時宗二祖教真上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を追贈し塚前に板石卒塔婆を建て日輪寺に供養し、さらに傍の神田明神に合わせ祀ったので、漸く将門の霊魂も鎮まり、この地の守護神になった。」

 太田道灌をはじめ、北条氏康徳川家康
江戸の守護神として平将門公の祀られた神田明神を大切に崇めたそうです。元和二年(1616年神田明神は現在の場所に移されました。これ以降、神田明神は江戸総鎮守として、江戸庶民にも崇められるようになったということです。

 ところで、将門公の首が江戸にもたらされた経緯について、津久戸明神に伝わる話と、将門塚に伝わる話では、全く違っていますね。これは、大変興味深いことだと思います。
 私の考えでは、津久戸明神に伝わる話が真実に近い話だと思います。恐らく、将門公に非常に近い味方の人々が、京都から将門公の首を密かに盗んできたのだと思います。
 一方、首を盗まれた朝廷からすれば、将門公の首を盗まれたことは大失態であり、朝廷の権威を落とすことになるので、公にはできないでしょう。
 そこで、朝廷は首が勝手に飛去って行ったという話を、でっちあげたのではないでしょうか。いつの時代も、権力者は自分の失敗を隠し、都合の良い言い訳をするものです。
 将門公の首が飛去ったという話が江戸に伝わった時点で、将門公を支持する人々は安心して首塚を築き、将門公を供養することができたのです。もはや、将門公は恐ろしい怨霊になってしまいました。朝廷は自らがついた嘘に従わざるを得なくなり、将門公の首に手出し出来なっかたでしょう。

太田道灌は何故暗殺されたのか

 前回説明したように、太田道灌が暗殺されたのは、扇谷家の台頭を懸念した関東管領上杉顕定が、扇谷家の勢力を弱体化させるために、扇谷家の要である太田道灌を排除しようとした陰謀によるものでした。
 しかし、顕定が道灌暗殺を企てた動機は他にもあると考えられます。それは、顕定と道灌の人間関係です。顕定と道灌の間には確執がありました。その二人の確執を知る手がかりとして重要なのが「太田道灌状」という文書です。
 「太田道灌状」は、道灌が上杉顕定の被官である高瀬民部少輔に宛てて書いた書状です。この文書の中で、道灌は上杉顕定に対する苦言、諫言を数多く述べています。
 たとえば、長尾景春の乱が長引いたのは、顕定が道灌の進言をことごとく退けたことが原因だと訴えています。
 道灌いわく、関東管領は大乱を終結させるための最高責任者であるから、大所高所から戦略を定めるべきであるのに、顕定の周辺にいる凡庸な輩の策ばかりを用いるので、失敗を繰り返すのだと諫言しています。
 もし、顕定が道灌の作戦を用いていれば簡単に勝ちをおさめ、乱を終わらせるこのができたのに、実際はそうでは無かったと、苦言を呈しているのです。
 太田道灌関東管領に仕える一武将でしかありません。その一武将が苦言を呈することとは、大企業の社長に向かって一従業員が苦言を呈することと同じ事です。
 風通しの良い会社であるならば、このような事があるかもしれないですが、通常は考えられないことです。
 道灌は何故、顕定に対してこのような諫言、苦言を呈することができたのでしょうか?それは二人の年齢差にあると思います。
 上杉顕定関東管領に就任したのは13歳の時でした。この時道灌は35歳です。おりしも、上杉勢の長老が相次いで亡くなり、少年である顕定が関東管領の座に就かざるを得ない状況でした。
 恐らく、道灌は顕定の後見人であり、教育者であるという立場にいたのでしょう。しかし、それは顕定が少年の間のことです。
 ところが、道灌は顕定が大人になってからも、その態度を崩さずにいました。道灌からみると、顕定はまだ頼りない存在なのです。
 一方、顕定にしてみれば、道灌から指図を受けなくとも、自分は関東管領の職務をきちんと遂行できると思っていたはずです。逆に、いつまでも子供扱いをする道灌を嫌悪していたでしょう。
 極めつけは、「太田道灌状」の最後の文章で、次の通りです。
「古人に云う、国に三不詳有り、賢人有るを知らざるを一不詳、知って用いらざるを二不詳、用うるも任せざるを三不詳、然らば徳失を准ずれば、任と不任これ有るべく候か、此等の趣き御意を得せしめ給う、謹言恐々」
 この書状は、上杉顕定に向かって「お前は三不詳だ」と言っているようなものです。ここまで言われれば、顕定でなくとも、道灌を排除しようと思うのではないでしょうか。
 もうひとつ、上杉顕定が道灌を暗殺しようとした動機があります。それは、太田道灌の野心です。
 道灌には若い頃から野心があった、と私は考えています。わずかな所領しかない扇谷家の被管から抜け出し、一国一城の主になることを道灌は、目指していたはずです。
 道灌が江戸城を築いた時から、道灌の未来は徐々に開けてきました。品川湊に関わることで得る利益や、荘園に介入して得る利益で、傭兵部隊を組織しました。
 長尾景春の乱における活躍で一躍名を轟かせ、関東の武将たちをなびかせました。さらに、古河公方と接近することもできました。
 都鄙の合体後、文明十七年(1485年)には道灌の嫡子資康が元服し、古河公方に仕えるようになっています。道灌のこの行動は、古河公方を後ろ盾にして、扇谷家から独立しようという意図があったと思わざるを得ません。
 このような道灌の行動を見て、上杉顕定は道灌の野心を見抜いたのです。道灌は軍事の天才で、関東の多くの武将から一目置かれた存在です。ここで、道灌が古河公方の支援を受けて、上杉氏から独立すれば、関東の多くの武将が道灌の味方となるでしょう。そうなると、武蔵国南部に強力な軍事力を持ち、経済的にも豊かな独立勢力が、存在することになるのです。それは、上杉顕定にとって大いなる脅威です。
 顕定は道灌が思っているほど未熟ではなく、冷静で抜け目ない武将であり、幾分陰湿さを持った人物です。自分にとって危険な存在である道灌を、なんとしても今のうちに始末したいと考えたでしょう。
 その顕定を見くびったところに、道灌の落ち度があったのです。
 もしかすると、道灌は顕定の敵意を感じていたかもしれません。ただし、道灌は顕定に対して謀反を起こすことはできなかったでしょう。もし、道灌が謀反を起こしたとしたら、それは長尾景春と同じ事をすることになるからです。
 室町幕府に反旗を翻し、朝敵の汚名を受けるかもしれません。なにより、自分が戦って勝ち取った平和な関東を、再び戦乱の世に戻すことになるのです。道灌は、それだけはできなかったでしょう。道灌の理性的な考え方や、清廉さが最後に死を招いたのだと思います。
 歴史にもしもはありませんが、太田道灌が扇谷家から独立し、江戸城を中心とした武蔵国南部を支配していたら、その後の関東の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
 もしかしたら、北条早雲太田道灌が雌雄決して合戦したかもしれないなどと、楽しい空想ができるのです。
 
 徳川家康がくる前の江戸はどんなところだったのか?という素朴な疑問から始まったのが、この太田道灌シリーズでした。
 家康公入府以前の江戸は、決してわびしい漁村ではなく、江戸城があり、品川湊や江戸湊が繁栄した活気ある都市でした。そこでは、関東全域を巻き込む大戦乱が起こり、江古田・沼袋という現在の東京23区内でも合戦が行われていたのです。そこには、知られざる関東の歴史が刻まれていたのです。
 その関東大戦乱の時代を、鮮やかに駆け抜けたのが、名将太田道灌でした。道灌の生涯を追った、このシリーズも、今回で最終回となりました。これまでお付き合い頂いた読者の方ありがとうございます。
 最後にこのシリーズを書くに当たって、参考にさせて頂いた文献を記載させて頂きます。

「関東古戦録」 槙島昭武 著 久保田順一 訳
関東公方 足利氏四代」 田辺久子 著
「武士はなぜ歌を詠むか」 小川剛生 著
「扇谷上杉氏と太田道灌」 黒田基樹 著
「図説 太田道灌」    黒田基樹 著
「関東戦国史(全)」   千野原靖万 著
「鎌倉大草紙」
太田道灌状」
「永亨記」
 以上

太田道灌の最期 当方滅亡

 文明十七年十月(1485年)太田道灌は美濃の歌人万里集九を江戸城に招き歌会を催しました。長い戦乱が終結し、道灌はひとときの平和を楽しんでいました。
 しかし、その裏では暗い陰謀が巡らされていました。関東管領上杉顕定上杉定正をそそのかして道灌を暗殺しようとしていたのです。
 顕定は、扇谷上杉家が勢力を拡大してきたことを懸念していました。もともと上杉家の傍流である扇谷家は、小さな勢力にすぎませんでした。
 ところが、扇谷家は上杉持朝のころから徐々に勢力を伸ばし、今では山内家と肩を並べるほどになっています。古河公方との勢力争いに決着がついた後、顕定は次の敵として扇谷家をとらえていたのです。
 扇谷家の勢力拡大の原動力は、太田道灌です。長尾景春の乱における道灌の活躍は際だったものであり、多くの武将が道灌を武神のごとく崇めていました。
 顕定は扇谷定正と争いを始める前に道灌を暗殺し、扇谷家の戦力を弱体化させようと考えたのです。そこで顕定は、「道灌に謀反の意あり」という偽の情報を定正に流したのです。
 思慮の浅い定正は、この情報を真に受けました。定正自身も、道灌の台頭に恐れを抱いていたのだと思います。また、定正が密かに家中の者に意見を求めると、多くの者が道灌暗殺に同意したのです。道灌の活躍は、同僚である扇谷家の家臣に妬まれていたのです。こうして、道灌暗殺は実行に移されたのです。
 文明十八年七月二十六日(1486年)上杉定正太田道灌相模国糟屋(神奈川県伊勢原市)の扇谷館へ招き暗殺しました。道灌は風呂に入るところで、定正の家臣に切られたのです。死ぬ間際に道灌は「当方滅亡」と叫んだと伝えられています。その叫びは「私を殺してしまえば、扇谷家もお終いだ、滅亡するぞ」という意味でした。
 戦国時代前夜、関東を駆け抜けた名将太田道灌の無惨な最後でした。品川湊の恩恵を受け江戸城を築き、傭兵部隊を鍛え上げ、亨徳の乱を終結させた英雄は、志半ばにして命を落としたのです。享年五十五歳でした。

 太田道灌墓所は終焉の地である神奈川県伊勢原市にあります。墓は二カ所に分かれており、洞昌寺には胴塚があり、大慈寺には首塚があります。

長尾景春の乱ー4 終焉

 江古田・沼袋の合戦に勝利した後、戦いの主導権を握ったのは太田道灌です。道灌は関東管領の軍勢を率いて、次々と長尾景春の軍勢を撃ち破りました。
 まさに、関東管領勢の運命は、道灌が一身に背負っていたのです。道灌の活躍によって文明九年五月(1477年)関東管領上杉顕定上杉定正は避難していた上州から五十子陣へ戻ることができたのです。
 態勢を立て直した関東管領勢は、長尾景春鉢形城へ押し寄せ城を囲みました。ところが、文明九年七月、古河公方足利成氏が突如として長尾景春に援軍を出してきたのです。
 それまで、古河公方関東管領勢の内乱を静観していました。古河公方は、敵方が内部分裂し弱体化したところで、攻撃に出て漁夫の利を得ようとしていたのです。しかし、太田道灌の活躍によって、景春方が敗色濃厚になり、古河公方の思惑ははずれてしまいました。
 そこで、古河公方は、景春に援軍を出し、共闘して関東管領勢を倒そうと考えたのです。古河公方は、数千騎の軍勢を率いて出陣してきました。
 このとき、関東管領勢は古河公方の大軍を見て恐れをなし、鉢形城の囲みを解き上州白井城へ退きました。その後、両軍はそれぞれ陣地を移動しながら、決戦の時を探っていました。
 文明九年十二月、古河公方長尾景春連合軍八千騎と関東管領勢五千騎が上州広馬場において対峙しました。ついに大軍勢による一大決戦が始まるかと思われましたが、両軍とも動きませんでした。一説によれば、広馬場に大雪が降り、両軍とも戦意を喪失したそうです。
 文明十年正月、関東管領より古河公方に対して和議の申し入れがありました。古河公方は和議を受け入れ広馬場から軍勢を引き上げました。
 しかし、長尾景春は和議に納得できず、依然として関東管領に反旗を翻していました。太田道灌関東管領勢の軍勢を率いて、景春軍の掃討戦を行いました。戦う度に景春は負けますが、しぶとく逃げ続けます。
 道灌と景春のいたちごっこが続きましたが、文明十二年六月(1480年)太田道灌はついに長尾景春日野城秩父市)に追いつめました。景春にとって最後の拠点である日野城が落城し、長尾景春の乱は終結しました。敗れた長尾景春は、命だけは助かり古河公方に保護されました。
 さらに、文明十四年十二月(1482年)室町幕府古河公方との間で和議が成立しました。これによって、古河公方には関東十カ国のうち九カ国の支配が認められ、堀越公方には伊豆一国の支配が認められたのです。
 亨徳三年に始まった亨徳の乱は、ようやく終結したのです。ちなみに室町幕府古河公方との和議成立を「都鄙の合体」(とひのがったい)と呼ぶそうです。

長尾景春の乱ー3 江古田・沼袋の合戦

 文明九年四月十三日(1477年)太田道灌江戸城を出撃しました。目指すのは、豊島泰明がこもる練馬城です。道灌に従うのは、わずか五十騎の騎馬隊。道灌が江戸城内で鍛え抜いたあの精鋭部隊です。
 道灌の軍勢は練馬城の前に陣取ると、豊島方を挑発しました。しかし、泰明は城門を堅く閉ざし応戦しません。そこで、道灌は練馬城の周辺に火を放ち、江戸城へ引き返し始めました。
 その間、泰明は道灌軍の襲撃を、石神井城の泰経へ通報していました。道灌が小勢で出撃している、との急報を受けた豊島泰経は小躍りしました。道灌を討ち取る千載一遇の機会が訪れたのです。すぐさま、泰経は石神井城の軍勢を率いて出撃しました。また、練馬城の泰明にも道灌軍の追跡を命じました。
 練馬城の軍勢と合流した豊島泰経は、二百騎を従えて道灌軍を追跡します。豊島勢の追跡に気が付いた道灌軍は驚き、慌てて逃げ出しました。
 しかし、これこそが道灌の作戦でした。道灌が率いた五十騎は、豊島泰経を石神井城から誘い出すためのおとりでした。道灌は逃げるふりをして、豊島勢をまんまと江古田原に誘い込んだのです。
 豊島泰経が道灌軍を追いつめたと思ったその時、江古田原に待ち伏せていた道灌の別働隊、上杉朝昌の軍勢、千葉自胤の軍勢が一斉に豊島勢に襲いかかりました。
 江古田原は、江古田川と妙正寺川の合流点です。二つの川はここで合流し、湾曲して南へ流れていきます。気が付くと、豊島勢はこの湾曲部に誘い込まれ、川を背にしていたのです。
 道灌の軍勢は豊島勢を川岸へ追い込み、次々と討ち取りました。豊島勢は泰明が討ち死にしたほか、百五十騎を失ったのです。かろうじて生き残った泰経は、石神井城へ逃げ込みました。
 翌日、道灌の軍勢は石神井城を取り囲みました。前日の合戦で戦力を失った豊島泰経は降参し、恭順の証として石神井城を破却することを誓いました。
 ところが、泰経が一向に約束を履行しなかったので、道灌は石神井城を攻撃し、城を破壊しました。しかし、卑怯な泰経は夜陰に紛れ城を脱出したのです。
 豊島泰経を取り逃がしたとは言え、江古田・沼袋の合戦で太田道灌は鮮やかに勝利をあげました。豊島勢を殲滅し、江戸城河越城の連絡を復活したのです。道灌の名は一躍関東に鳴り響きました。

 東京都中野区にある江古田川と妙正寺川の合流点には、江古田・沼袋合戦の石碑があり太田道灌の勝利を今に伝えています。
 ここから江古田川沿いに南下していくと、西武新宿線沼袋駅に行き当たります。駅前にある氷川神社は、この合戦の時に太田道灌が本陣をおいた場所と云われています。
 かつて氷川神社の境内には、道灌が戦勝を祈願して植えた二本の杉の大木がありました。道灌杉と呼ばれていた二本の大木は枯れてしまいましたが、名将太田道灌の活躍は、朽ち果てることなく現代に伝わっているのです。