歴史楽者のひとりごと

こんにちは、歴史を楽しむ者のブログです。

桃配山の伝説と壬申の乱

 慶長五年(1600)9月15日の早朝、天下分け目の合戦に臨んだ徳川家康は、関ヶ原の東端に位置する「桃配山」に本陣を置きました。そこは、関ヶ原を一望のもとに見渡すことができる高台で、家康が東軍の指揮を執るのに絶好の場所であったのです。さらに桃配山は地理的・軍事的に重要な場所であったことに加え、古代の英雄伝説の舞台となった場所でもありました。

 その伝説とは、古代における天下分け目の戦い「壬申の乱」に勝利したのち天武天皇となった大海人皇子(おおあまのみこ)にまつわるのもでした。家康が関ヶ原の合戦の際に桃配山に本陣を置いた理由は、古代の英雄に自分自身をなぞらえて、東西両軍合わせて15万もの軍勢が戦う一大決戦に勝利し、天下を手に入れようという強い意志の表れだったのです。

 家康がこだわった桃配山の伝説とはどのようなものであったのでしょうか、今回は壬申の乱の展開を辿りながら古代の英雄伝説について迫っていきたいと思います。

 

乙巳の変(いっしのへん)から天智天皇の死まで

 まず、壬申の乱が始まる前の歴史についてお話します。

 大化元年(645)中大兄皇子は、中臣鎌足の協力を得て蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼしました。世に言う「乙巳の変」が起きたのです。その後、皇位に就いたのは孝徳天皇で、中大兄皇子は皇太子となり新政権を樹立させました。新政権のもとで中大兄皇子は権力を拡大し中央集権化をすすめました。この時行われた諸改革が歴史の教科書に載っている「大化改新」です。

 このころ朝鮮半島では唐と結んだ新羅が勢力を拡大していました。孝徳天皇の次に皇位に就いた斉明天皇は、唐と新羅によって滅ぼされた百済の復興を支援するため倭国から朝鮮半島に大軍を派遣しました。しかし、倭国の軍勢は663年に起きた白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しました。その後、西日本の各地には、朝鮮半島からの脅威に備えるため多くの山城が築かれたのです。

 667年、中大兄皇子は都を近江大津宮に移し、668年に即位して天智天皇となりました。乙巳の変から22年後に中大兄皇子はようやく天皇の座についたのです。これから本格的に天皇として政権運営を進めていこうとした矢先の671年9月、天智天皇は病に倒れます。天智天皇の病状は重く回復の見込みはありませんでした。

 このとき、皇位継承者として候補に挙がっていたのが、天智天皇の息子である大友皇子天智天皇の弟である大海人皇子でした。死期を悟った天智天皇は、宮殿に大海人皇子を招き皇位継承を打診しました。

 しかし、天智天皇の本心は、息子である大友皇子皇位を継承することでした。そこで、天智天皇大海人皇子の返答次第では、宮殿内で大海人皇子の命を奪おうと考えていたのです。ところが、大海人皇子は、天智天皇の企みを察知していたのです。そのため、天皇の病床に呼ばれた大海人皇子は、皇位継承を丁重に断り天皇の許しを得て出家したいと願い出たのです。

 天智天皇が許しを与えたので、大海人皇子はその日のうちに出家し法衣を身に着けました。さらに、大海人皇子は謀反を起こす意志が無いことを示すために武器を返納しました。この時の大海人皇子の行為は、すべて天智天皇が企んだ暗殺計画から逃れるための手段でした。窮地を脱した大海人皇子は、近江大津宮を去り吉野へ向かいました。大海人皇子が吉野へ向かった表向きの理由は「仏教の修行に打ち込むため」というものでした。

 しかし、この時大海人皇子の胸中には、大きな野心が膨らんでいたのです。そのことに気が付いていた天智政権の群臣たちは、吉野へ去っていく大海人皇子の後ろ姿を見送りながら、「これでは、虎に翼をつけて野に放ったようなものだ」とつぶやいたということです。

 天智天皇皇位継承争いの火種を消すことができないまま、671年12月3日に近江大津宮において死去しました。

 

◆決死の逃避行

 年が明けた672年、大友皇子は亡くなった天智天皇の葬礼に忙殺されていました。それは、大友皇子天智天皇の正式な後継者であることを広く世に知らしめるための儀式でもありました。

 大友皇子は、天皇の陵墓を造営するためと称して多くの民衆を集めていました。しかし、その実態は集めた民衆に武器を持たせ兵士として動員していたのでした。大友皇子は、大海人皇子が吉野に潜伏している間に、先手をとって戦うための準備を始めていたのです。

 大友皇子大海人皇子にダメージを与えるため、あえて大海人皇子の領地である美濃・尾張の民衆を兵士として動員することを思いつきました。672年5月大海人皇子は、舎人(私的な従者)の一人を美濃へ使いに出しました。そこで舎人が目撃したのは、大友皇子の命令を受けた役人が美濃の成年男子を徴発している様子でした。舎人は大急ぎで吉野へ戻り、美濃で目撃したことを大海人皇子に報告しました。

 さらに、大海人皇子のもとには、大友皇子側の動きが次々に報告されてきました。大友皇子は、近江から吉野へ至る道の要所要所に監視所を設け、宇治橋橋守に命じて吉野へ運び込まれる物資の輸送を遮断しているというのです。

 再び窮地に追い込まれた大海人皇子は、怒りに震え「このまま黙って滅ぼされてたまるか」と言ったということです。この時、大海人皇子は何としても大友皇子を倒し自分が天皇になると決意したのです。大海人皇子大友皇子に対抗するための策を練り実行に移しました。672年6月、大海人皇子の密命を受けた3名の舎人が美濃へ急行しました。彼らの使命は、美濃の有力者に面会し協力を仰いで兵士を動員し、その兵力ですみやかに不破道を封鎖することでした。

 不破は後の時代に不破の関が設けられたことからもわかるように交通の要衝です。この地を軍事力で押さえることがでれば、大友皇子の拠点である近江と美濃・尾張の連絡を遮断することができ、大友皇子は東国で動員した兵力を用いることができなくなるのです。まさに、この策が成功するかどうかが、大海人皇子の運命を決めると言っても過言ではありませんでした。

 大海人皇子は、三人の使者に美濃での工作を命じた一方で、自らは吉野を脱出し美濃へ向かうことにしました。672年6月24日大海人皇子は妻子とわずかな従者を連れて吉野を出発しました。険しい山道を辿る決死の逃避行でした。

 ところが、この決死の逃避行の最中、大海人皇子はいくつかの幸運に恵まれることになるのです。大海人皇子の一行は山中で20人余りの猟師の一団と遭遇しましたが、猟師たちは大海人皇子の一行に加わることになりました。さらのその先の村では50頭の馬を手に入れることができ、大海人皇子の一行は徒歩ではなく馬で進むことができるようになったのです。

 そして大海人皇子の一行は、いよいよ伊賀の地へ入っていきました。伊賀は大友皇子の母親の故郷であり大海人皇子にとっては敵地です。敵の目を逃れるため、大海人皇子の一行は夜の闇に紛れ決死の伊賀越えを敢行したのです。

 実は、この時からおよそ900年後に大海人皇子と同じように決死の伊賀越えをした人物がいます。それが徳川家康です。家康は、本能寺の変が起きた時に信長に招かれて摂津国の堺を見物しているところでした。信長が明智光秀の謀反で死んだとの知らせはすぐさま家康にも伝わりました。そこから、家康の決死の伊賀越えが始まったのです。信長の死が伝わると各地で一揆が蜂起していました。家康はわずかな手勢と共に数々の危機を乗り越え三河へたどり着くことができたのです。

 命からがら三河へたどり着くことのできた家康は、つくづく自分の運の良さを実感したことでしょう。おそらく、この時家康は自分と同じように決死の伊賀越えを敢行した大海人皇子のことを知ったのではないでしょうか?その後家康は大海人皇子に関する歴史を学び、自分には「天下取り」の天命があるのかもしれないと思ったのかもしれません。

 

大友皇子、判断を誤る

 大海人皇子が吉野を脱出したとの情報は、その日のうちに大友皇子にもたらされました。6月24日の夜、大友皇子は群臣を集めて対応策を協議しました。その会議の席上では、騎兵の精鋭部隊を派遣し大海人皇子の一行を追撃するという作戦が提案されたのです。しかし、大友皇子はこの案を却下しました。

 もしも、この時大友皇子が追撃作戦を実行していれば、日本の歴史は変わっていたかもしれません。何故、大友皇子は追撃作戦を採用しなかったのでしょうか?歴史家の中には、大友皇子は追撃するのが遅すぎる判断したと考えている方もいらっしゃれば、大友皇子は王者として堂々と戦う道を選んだと考えている方もいっらしゃいます。

 仮に大友皇子の判断が「王者の戦い」に基づくものであったとすれば、私は大友皇子石田三成には類似性があるのだなと思ってしまいます。やはり、天下を取れない人物は肝心な時に的確な判断ができないのだなと思います。あるいは、勝負に負ける者は好機が訪れているのにもかかわらず、その好機を掴むことができなのではないかと思います。歴史とは、時にそのような教訓を冷酷に伝えるものなのです。

 24日の会議の結果、大友皇子はさらに兵力の増強をはかるため、各地へ使者を派遣し兵士の動員をうながしたのでした。

 

大海人皇子、兵力を手に入れる

 6月25日朝、大海人皇子の一行は無事に伊賀越えを終えていました。思いもかけぬことに、昨夜伊賀の豪族が数百人の兵士を従えて大海人皇子の軍勢に加わってきました。敵地である伊賀の豪族の中にも、大海人皇子に心を寄せる者がいたのです。次第に勢力が増していく大海人皇子のもとへ、近江から脱出してきた高市皇子が合流しました。高市皇子大海人皇子の息子ですが、大津近江宮で大友皇子に仕えていたのです。24日夜に父親が吉野を脱出したとの知らせを受けた高市皇子は、部下を連れて密かに大見を脱出したのでした。高市皇子が引き連れてきたのは、いずれも馬にまたがった屈強な男たちばかりでした。

 翌26日には、大海人皇子に朗報がもたらされました。美濃へ派遣していた使者が大海人皇子のもとに現れ、美濃で三千人の兵士を動員し、不破道を封鎖したことを報告したのです。絶対絶命の危機に陥っていた大海人皇子ですが、あきらめずに起死回生の策を実行し、今や大友皇子大海人皇子の形勢は逆転しそうな勢いでした。大いに士気の上がった大海人皇子の一行は、その日のうちに桑名へ到着しました。不破まではもう少しです。大海人皇子は桑名に留まり、息子の高市皇子を不破へ先行させました。

 その翌日、高市皇子大海人皇子に対して不破と桑名では距離が離れすぎており連絡が取りづらいので、不破まで進出してきてほしいと要請しました。この要請に応え、大海人皇子は直ちに桑名を出発しました。

 不破へ向かう大海人皇子に大きな知らせが届きました。なんと2万の兵士が大海人皇子の軍勢に加わったというのです。その兵士たちは、もともと大友皇子が美濃・尾張で徴発したものでした。しかし、美濃・尾張の有力者たちは、権威を振りかざして横暴にふるまう大友皇子の家来や役人たちに嫌気がさしていたのです。ちょうどそこへ、大海人皇子が派遣した舎人たちが、美濃の有力者に対して寝返りを要請してきたのです。美濃・尾張の有力者たちはその要請に応じ、大海人皇子は大きな戦力を手に入れることができたのです。

 

◆桃配山伝説

 大海人皇子は不破へ到着し、味方についてくれた美濃・尾張の長老たちの労をねぎらいました。その場には不破の民衆たちも集まっていました。民衆の中の代表者がおずぞずと大海人皇子に近づき収穫したばかりの山桃を献上したところ、大海人皇子はたいそうお喜びになりました。

 古来から山桃は魔除けになると信じられていました。大海人皇子は、兵士たちにも山桃を配りたいと言って、不破一帯の山桃を全て買い上げることにしました。この話は不破一帯に伝わる伝説であり、日本書紀や天武記には記載されていません。あくまで民衆の間で口伝に語られてきた伝説なのです。

 日本書紀に書かれているのは、大海人皇子が不破の地で全軍を指揮する権限を高市皇子にゆだねると宣言したことです。指揮権を得た高市皇子は、後に「関ヶ原」と呼ばれるようになる平地に兵士を集め軍事訓練を行いました。大海人皇子は6月28日と29日に関ヶ原を訪れ兵士たちを閲兵しました。想像の翼を広げるならば、大海人皇子が兵士たちに山桃を配ったのはこの時ではなかったかということです。

 大海人皇子は後に「桃配山」と呼ばれるようになる山のふもとで兵士たちを閲兵したのです。数万もの兵士たちが整然と並び、精鋭部隊の兵士たちには魔除けの山桃が配られました。また、兵士たち全員には赤い布が配られました。これは敵味方を区別するための目印です。大海人皇子の兵士たちは赤い軍勢となったのです。赤布を受け取った兵士たちは皆戦いに臨む覚悟をきめたことでしょう。法衣を身に着けた大海人皇子は、兵士たちに檄を飛ばし出撃の日が近いことを告げました。兵士たちは手にした武器を突き上げこれに応えたことでしょう。

 徳川家康は、このような桃配山の民間伝承を丁寧に拾い集め自らの天下取りの縁起担ぎとしたのです。壬申の乱に勝利し天皇となった大海人皇子が歩んだ道である「決死の伊賀越え」「近江を目指しての東国からの進軍」「敵方の兵力を寝返らせたこと」これら一つ一つの出来事を自分の人生と重ね合わせた時、徳川家康は自分はまさに大海人皇子と同じ道を辿り天下取りへ進んでいるのだと信じ、心を奮い立たせたのではないでしょうか。だからこそ、家康は関ヶ原の合戦において桃配山に本陣を置いたのです。

 

壬申の乱が日本の礎を造った

 672年7月2日大海人皇子関ヶ原に集結した全軍に進撃命令を下しました。ついに壬申の乱が始まったのです。大海人皇子の軍勢は近江を目指す軍勢と大和を目指す軍勢の二手に分かれ進軍を開始しました。これからおよそ一か月に渡り古代史上最大の戦いが繰り広げられたのです。その結果、大海人皇子は勝利し天武天皇となったのです。

 天武天皇は、律令制度の確立、国史の編纂、貨幣の鋳造、藤原京の造営などに着手しましたが、その完成前に亡くなりました。天武天皇の意志は皇后から天皇となった持統へ引き継がれたのです。天武・持統天皇が推し進めた政策は、現代へと続く日本という国の礎を築くことになったのです。

    壬申の乱は、時の権力者を決める天下分け目の戦いであっただけでなく、その後の日本の歴史を決定づける大きな分岐点でもあったのです。 

 

今回参考にした文献

壬申の乱 遠山美都男 中公新書

詳説日本史 山川出版

 

 

 

 

 

 

関ヶ原の合戦で家康が桃配山に本陣を置いたのは何故か?

 慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原で天下分け目の大合戦が起こりました。この時、東軍を率いる徳川家康が本陣を置いたのは、桃配山と呼ばれる山の中腹でした。桃配山は関ヶ原の東端に位置し、眺望がきく高台で関ヶ原での戦況をつぶさに見ることができる場所でした。また、桃配山は、毛利秀元吉川広家の軍勢が陣取る南宮山と小早川秀秋の軍勢が陣取る松尾山の中間に位置し尾根伝いに両方の陣地に連絡の取れる場所でした。家康が関ヶ原の合戦で勝利を得るためには、毛利や小早川が東軍に寝返ることが何としても必要でした。家康は毛利や小早川の動きに睨みをきかすためにも、この場所に本陣を置く必要があったのです。まさに、桃配山は天下分け目の一大決戦において東軍を指揮する家康にとって絶好の場所であったのです。

 しかし、家康が天下分け目の大合戦において、桃配山に本陣を置いたのは、そのほかにも大切な理由があったのです。この桃配山という一風変わった名前の山には、古代の英雄「大海人皇子」にまつわる伝説が残っていました。大海人皇子は672年に起こった古代における天下分け目の戦い「壬申の乱」に勝利したのち、天武天皇となって日本で初めて天皇を中心とした中央集権体制を築いた人物です。大海人皇子は、戦いの前に美濃国不破の関に近い桃配山に東国で動員した兵士を集め、全員に桃を配って勝利を祈願したという伝説が残っていたのです。古代、桃は神聖な果物で邪気をはらうと信じらていました。関ヶ原一帯では、人々のあいだでこの伝説が語り継がれ、桃配山という山の名前の由来になっていました。家康はこの伝説にあやかり、自分自身を大海人皇子になぞらえて天下分け目の合戦に勝利するのだという強い決意を持っていたのです。

 

 関ヶ原の合戦のきっかけを作ったのは、石田三成でした。三成は家康が上杉景勝を征伐するために会津へ遠征している隙をついて大坂で挙兵しました。家康は三成が挙兵したとの報告を受けると会津への進軍を停止し下野国の小山で軍議を開きました。

 この軍議において、家康は会津遠征軍に参加している大名たちに、このまま会津征伐を続けるべきか、または大坂へ向かい石田三成を征伐すべきかを問いかけました。この問いかけに対し、福島正則黒田長政細川忠興など豊臣恩顧の諸大名は、石田三成を討伐することを選択しました。三成は同じ豊臣恩顧の大名でありながらも、福島正則たちから嫌われ敵とみなされていたのです。

 三成を討伐することとなった東軍の諸大名は、家康に先行して西へ向かいました。家康は江戸に留まり、福島正則など豊臣恩顧の諸大名たちの動向を注視していました。家康は、正則など上方の武将たちが間違いなく石田三成と対決するという確信を得るまでは江戸を動くつもりがなかったのです。そして、江戸から西軍の諸将たちに書状を送り寝返り工作を行っていたのです。

 小山で軍議が開かれてからおよそ一月後の八月二十三日、東軍は織田秀信が籠城する岐阜城を攻撃しました。この織田秀信織田信長の孫であり、かつて清須会議羽柴秀吉に抱かれていた三法師です。織田秀信石田三成から美濃、尾張二か国を領国として差し出すとの誘いを受けて西軍に味方していたのですが、岐阜城は東軍の猛攻を受け落城しました。東軍に降伏した秀信は、城を出て剃髪し仏門に入ったということです。岐阜城陥落の知らせを受けた家康は、ようやく上方諸大名を信用するに至り、九月一日に三万二千の軍勢を率いて江戸を発進しました。

 一方、石田三成らの西軍は、豊臣秀頼を擁した毛利輝元が大将となって大坂城に陣取りました。石田三成宇喜多秀家などの主力部隊は大垣城に入り、西上してくる東軍を美濃で迎撃する体制を整えていました。

 岐阜城を撃破し意気上がる東軍は、大垣城を攻めるため美濃国赤坂に集結し家康の到着を待っていました。実は、この間に西軍が東軍を攻撃するチャンスがあったのですが、戦場の経験が乏しく軍事司令官としの才能に劣った石田三成は、戦機を読むことができずいたずらに時を過ごしていたのです。

 九月十四日、家康はついに美濃赤坂に到着しました。家康は岡山という所に陣所を構え軍議を開きました。この軍議の席上で家康は、西軍主力を大垣城から野戦へ誘い出すため、三成の居城である佐和山城へ攻撃仕掛けるように見せかける陽動作戦を取ることを決定しました。

 三成は、まんまと家康の陽動作戦に乗せられ、西軍主力を関ヶ原へ進出させたのです。実は、この時にも西軍が勝利を得るチャンスがありました。薩摩勢を率いる島津義弘は、三成に九月十四日の夜に家康本陣を襲撃することを提案したのです。この時、三成が勇猛果敢な島津勢に夜襲を任せていれば、家康の運命は変わっていたかもしれません。

 しかし、この時も三成は大軍勢による決戦を主張し、島津の提案を退けたのです島津義弘は、朝鮮の役でも数々の武功を挙げ、明・朝鮮軍からも「鬼島津」として恐れられていた当代きっての名将でした。こともあろうに、石田三成はその名将の提案を断ってしまったのです。島津義弘は誇りを傷つけられ、西軍として戦うことを止め戦場から離脱することを決意しました。三成は、島津の提案を退けたことで、家康を討つ機会を逃すと同時に島津勢という百選錬磨の味方を失ってしまったのです。

 九月十五日早朝、家康は満を持して関ヶ原へ軍を進め桃配山に本陣を置きました。両軍合わせて十五万の軍勢が関ヶ原で決戦の火蓋を切ろうとしていました。三成と異なり、家康は思いつく限りの手を打って決戦に備えていました。それでも満足できずに、英雄伝説にあやかり勝利を目指していたのです。

 

 一見すると、家康の行動は、縁起担ぎをしているだけかのように思えます。しかし、家康の行動は、歴史を深く学んだ者が人生最大の舞台で歴史から得た知識を活用する姿なのです。

 古来、歴史上の英雄たちは、歴史を学んで勝利の道を切り開いてきたのです。古代中国において秦の始皇帝が亡くなった後に争ったのは項羽と劉邦です。軍事力では項羽の楚軍が圧倒的に優れていましたが、項羽は垓下の戦いで敗れ、勝者となった劉邦漢王朝を開いたのです。項羽の軍師范増は、「項羽は歴史を学ばないのが欠点だ」と彼の弱点を見抜いていました。

 どんなに力が優れていても、その力を活かす知恵・知識がなければ最終的な勝者にはなれないのです。桃配山に本陣を置いた家康は、歴史を学び人事を尽くして天命を待っていたのです。

 

 次回は、古代の天下分け目の戦い「壬申の乱」についてお話します。

 

 今回参考にした文献は下記の通りです。

「戦国軍師の合戦術」 大和田 哲男 新潮文庫

「乾坤の夢」 津本 陽 文芸春秋

「楚漢名臣列伝」 宮城谷 昌光 文春文庫

 

 

 

 

 

 

 

日本の歴史を変えた武士 梶原景時

 治承四年(1180)八月十七日、源頼朝は打倒平氏を掲げ伊豆で挙兵しました。頼朝の軍勢は伊豆国目代である山木兼隆の館を襲撃し首尾よく兼隆を討ち取りました。その後、頼朝は伊豆・相模の軍勢三百騎を率いて相模国土肥郷へ向かい、石橋山に陣を構えて衣笠城から出陣してくる三浦一族の軍勢と合流するつもりでした。

 しかし、折からの豪雨で三浦一族は足止めされ石橋山へ向かうことはできませんでした。ちょうどそのころ、大庭景親が率いる軍勢が石橋山に迫っていました。景親は平清盛から東国の反乱者を討伐することを命じられ「東国御後見」という特別な権限を与えられていました。そのため景親の軍勢は、相模国平氏家人を中心に三千騎にも及んでいたのです。

 頼朝が石橋山に陣取っていることを知った景親は、既に夕闇が迫っていましたが、この時を逃せば頼朝勢を倒す機会は失われてしまうと考え、数千の軍勢に頼朝の陣を襲撃させました。ところが、大庭勢の中には頼朝に心を寄せる武士が混じっていたのです。その中の一人である飯田家義は、頼朝を逃れさせるために自分の家来のうち六人を大庭勢と戦わせ、その隙に頼朝は戦場を離れ杉山の洞窟に隠れました。

 大庭景親は、杉山に潜んでいる頼朝を捕らえるため捜索隊を放ちました。この捜索隊に加わっていたのが、梶原景時です。景時は洞窟に隠れている頼朝の存在に気が付いていたのですが、どういう訳か頼朝に情けをかけ、見て見ぬふりをして手勢と共にその場を離れたのです。

 梶原景時のこの不可思議な行動によって、源頼朝九死に一生を得たのです。そして、頼朝が奇跡的に生きのびたことで、日本の歴史は大きく変わったのです。

 もしもこの時、梶原景時が頼朝を発見し捕えていたら日本の歴史はどうなっていたでしょうか?歴史学では「たられば」は禁物かもしれませんが、歴史を楽しむ者としては想像力を膨らませ空想の歴史を考えたいと思います。

 

 捕らえられた頼朝は、大庭景親の前に引き出されその場で首を切られたでしょう。頼朝の首は、福原にいる平清盛のもとへ送られ、東国の反乱は一気に鎮圧されたでしょう。頼朝の挙兵に加担した北条氏も滅亡し、北条氏が日本の歴史に名を残すことはなかったかもしれません。

 頼朝の挙兵が失敗したことは、各地で反乱を起こした源氏にも悪影響を及ぼしたはずです。反乱の機運は盛り上がらず、北陸の木曽義仲の軍勢にも勢いはつかず、平氏都落ちせずに済んだでしょう。各地の反乱は下火になり、平氏政権は揺らぐことなく盤石の体制を保つことができたはずです。

 日本の歴史に「鎌倉時代」はなく代わりに平氏が日本の支配者になった「福原時代」があったのかもしれません。福原時代は、平氏による海外交易が盛んになった時代で、日本はアジアの国々と交流し国際的な貿易国家になっていたかもしれません。日本は、やがて世界を席捲してくるモンゴル帝国とも平和裏に外交関係を築くことができ、現在の歴史とは全く異なる道を進んだたかもしれないのです。また、海外貿易が盛んになると造船技術や航海術が発達し、日本人がコロンブスより先にアメリカ大陸に到達したかもしれません。

 国内では、荘園制度が依然として存在し、平氏平氏と関係の深い上級貴族だけが荘園領主となる社会となっていたでしょう。頼朝は武士と主従関係を結ぶために、荘園の地頭職の任命権を独占し、合戦で活躍した武士に恩賞として地頭職を与えました。これによって武士には「一所懸命」という概念が生まれたのです。

 しかし、頼朝がいない世界では、武士は土地と結びつく機会を得られず、戦国時代のような強力な武士集団は生まれなかったかもしれません。その代わりに、地方では国内外の交易で財力を蓄えた商人や海運業者が経済力を足場にして力を持ち、楠木正成名和長年のような「悪党」と呼ばれる人たちが平氏政権に対抗する勢力として登場したのかもしれません。はたして、「悪党」は戦国時代のような群雄割拠の時代を創出することができたでしょうか?

 

 このように、源頼朝が挙兵に失敗し命を落としてしまうと日本の歴史は大きく変わってしまうのです。その日本史の流れを今日の歴史へ向かわせたのが、梶原景時の「有情の慮り」でした。つまり、景時が洞窟に隠れていた頼朝を見つけたにもかかわらず、何らかの思惑があって頼朝を助けたことが日本の歴史を変えたと言っても過言ではないのです。

 この出来事は、明智光秀が起こした本能寺の変に匹敵するような歴史的事件だと私は思います。光秀は主君織田信長の命を奪ったことで、その後の日本の歴史に大きな影響を与えました。信長による天下統一の夢は消え去り、戦国時代の末期は豊臣と徳川が覇権を争う時代となったのです。

 一方、梶原景時源頼朝の命を救ったことで平氏滅亡のきっかけを作りました。その後の日本は頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、武家が政権を担う時代が始まったのです。鎌倉、室町、戦国、江戸とおよそ700年もの間、日本では武家政治の時代が続くのですが、その最初の小さな羽ばたきは、梶原景時が杉山の洞窟でとった行動だったのです。

 

 

 

創業は江戸時代 多摩の酒蔵で癒される

 ふと思いついて、蔵元を訪ねてみることにしました。蔵元と言えば、秋田や山形や新潟など北国の米どころにあると思いがちですが、実は、東京近郊にも歴史ある蔵元がいくつもあるのです。

 今回、私が訪れたのは福生にある蔵元で、多摩の銘酒「多摩自慢」を製造販売している石川酒造です。最寄駅は、JR青梅線拝島駅で新宿からの所要時間は約40分です。ここまでくると、もはや都会の喧騒はありません。奥多摩の山並みが間近に迫ってきます。さりとて鄙びた場所と言う訳ではなく、郊外のベッドタウンという感じのする場所です。

 拝島駅から歩くこと約15分、静かな住宅街の中に異質な空間が現れました。長く続く白壁の土蔵に、ひっそりと木立の影が落ちています。まるで、江戸時代にタイムスリップしたかのようなたたずまいをしている建物が石川酒造です。

 がっしりとした趣の門をくぐると、正面の奥まった場所に白壁の酒蔵が鎮座しています。入って左手には大きな二本の巨木がそびえており、その根元には弁天様と大黒様を祀った小さな祠があります。蔵元では弁天様と大黒様を夫婦の神様として祀ってあり、この祠は縁結びのパワースポットでもあるそうです。そして、祠の脇からは酒造りには欠かせない清らかな水が、深さ150メートルの地下から汲み上げられています。この場所に立っただけで、何かこの酒蔵に宿る不思議なパワーを全身に浴びているような気がしてきます。

 

 さて、私が石川酒造を訪れたのは毎月第四土曜日に開催されている「感謝デー」でした。この日は特別に酒蔵見学ができるのです。ただし、参加するには事前予約が必要ですので詳しくは石川酒造にお問い合わせください。

 酒蔵を案内してくれるのは、石川酒造で働いていらっしゃる素敵なお嬢さん。普段は日本酒のラベルをデザインする仕事をされているそうです。予定の時間になると酒蔵の扉が開かれて見学ツアーの始まりです。

 酒蔵の内部はほの暗く、気温は年間を通じて約15度に保たれひんやりとしています。酒蔵は2階建てになっており1階には緑色のタンクが林立しています。このタンクの中に、できたての日本酒が満たされ熟成され出荷の時を待っているのです。2階にはお酒を発酵させるための麹室があるそうです。私たち見学者は、1階で案内役のお嬢さんから日本酒造りにまつわる興味深い話をたくさん聞かせていただきました。もちろんお酒の試飲もあります。美味しいですよ。

 

 ところで、歴史を楽しむ者としては、お酒を楽しむばかりではなく歴史にまつわる話をしなければなりません。石川酒造の創業は文久三年(1863)ということですから時代は幕末です。何故、多摩地方での酒造りが幕末に始まったのでしょうか?その理由は、多摩地方が武蔵野台地の上にあるという地理的要因があるのです。

 ご存知の通り、台地の上は水が乏しく稲作には向いていません。江戸は武蔵野台地が海に突き出た先端に築かれた江戸城を中心に作られた城下町であり、やはり飲み水に適した水源に乏しい場所でした。徳川家康は江戸に城下町を造るに当たり、まず飲料水を確保するための用水を通すことを命じました。その玉川上水が完成したのが、承応二年(1653)のことです。

 玉川上水を流れる水は江戸城下で暮らす人々の飲料水にすることが主目的でしたが、武蔵野台地で暮らす人々の生活を潤す水でもありました。玉川上水は、多摩地方の村々に分水され徐々に乾いた台地を潤していきました。やがて、農民たちは稲作を始め人々はお米のご飯をたべることができるようになったのです。時が進むにつれて、稲作は盛んになりました。そして、余剰になったお米で日本酒が造られるようになったのが幕末の頃であったというわけです。

 すると、新たな疑問がわいてきました。幕末になるまで江戸市中の人々は一体どこで造られたお酒を飲んでいたのでしょうか?調べてみると、江戸で飲まれていた日本酒は関西から運ばれてきたものでした。江戸初期から中期にかけては、京都や伏見で造られた上質の日本酒「下り酒」が人気を博していたのです。

 その後、江戸は大都市となり日本酒の需要も一層増えたのです。大量に消費される日本酒を関西方面から江戸へ運ぶには、酒樽を船に乗せて海上輸送する必要がありました。そこで地の利を活かしたのが灘の酒、すなわち現在の神戸港付近で造られた日本酒です。こうして、江戸中期以降は「灘の酒」が江戸市中で好まれる日本酒になったのです。

 

 さて、次は日本の歴史全体に目を向けてみましょう。石川酒造が創業を始めた文久三年(1863)は、幕末の歴史に大きな影響を与える出来事が起きた年でもあります。この年より3年前(1860)に「桜田門外の変」が起きました。江戸城の目と鼻の先で大老井伊直弼が水戸浪士によって謀殺されたのです。この事件は、徳川幕府の力が弱体化したことを日本中に知らしめました。

 窮地に陥った幕府は、朝廷との連携を取る「公武合体策」によって局面を打開しようと模索しました。そして、文久三年に十四代将軍徳川家茂が上洛したのです。幕府は将軍を警固するため浪士を募集し浪士組を結成しました。浪士組は将軍に先立って上洛し「新選組」と名を改めたのです。

 新選組の局長近藤勇や副長土方歳三は多摩地方で生まれ育った若者でした。彼らは、幕末の激動の中に身を投じていったのです。新選組の活躍は、幕府と尊王攘夷派の対立を激化させ、やがてその流れが倒幕運動へと発展し、日本は明治維新を迎えることになったのです。

 

 それにしても、激動の時代にあっても人々は酒を飲んだのですね。いや、むしろ激動の時代であったからこそ、人は一杯の酒に安らぎを求めたのかもしれせん。時代は変わっても、それは同じことです。コロナ禍、ロシアによるウクライナ侵攻など私たちが生きている現代は混迷の時代であり、いつまでたっても明るい兆しは見えてきません。そのような時代であればこそ、私たちもまたひと時の安らぎや癒しを必要としているのです。

 お酒が苦手という方でも、長い歴史と自然が育んできた酒蔵を訪れてみれば、きっと癒しを感じることでしょう。併設されたイタリアンレストランでは美味しい食事を楽しむこともできます。レストランも予約制ですので、事前の確認をお願いします。皆さんも、都心からほど近い多摩の酒蔵を訪ねてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

  

江戸の行楽地「深川」を散歩する

 知り合いの人に誘われて阪急交通社が企画した「深川史跡巡り」に参加しました。江戸時代の面影が残る深川の町をガイドさんの案内で散策する街歩きです。

 案内役は、自称「江戸町人」の素敵な女性ガイドさんです。ガイドさんの豊富な知識とわかりやすい説明を聞きながら、深川の町に残る江戸の痕跡を探して歩く旅は楽しいひと時となりました。当然のことながらコロナ感染防止対策を万全に整えての企画です。

 さて、ガイドさんからお聞きした説明をもとにして、江戸時代の深川の様子を思い描いてみましょう。

 江戸時代の初期、深川一帯は江戸湾に接しており中洲や小島が点在する場所だったそうです。そのような深川が発展するきっかけとなった場所が永代島と呼ばれていた小島でした。寛永四年(1627)に菅原道真の末裔といわれる長盛法印が神託を受け、この島に八幡神を祀ったのです。

 やがて、深川一帯は干拓や埋め立てによって開発が進み永代島も陸地となりました。八幡神を祀った社は、富岡八幡宮別当寺(神社を管理する寺院)の永代寺へと発展しその門前には茶店や商店はもちろんのこと非公認の遊郭である「岡場所」が建ち並ぶようになりました。その賑やかさを目当てにして、江戸市中から大勢の人々が深川を訪れるようになり、深川は江戸の一大行楽地となったということです。

 深川が、発展した理由は行楽地だけではありません。もともと海辺だった深川の町中には縦横無尽に水路や運河が通っていました。それらは、江戸湾と江戸市中をつなぐ重要な交通網だったのです。そのため、深川は江戸の物流拠点となりました。特に栄えたのが材木問屋でした。当時の江戸は、建設ラッシュの真っ最中であったので材木の需要は無尽蔵にあり多くの材木問屋が深川に軒を並べたのです。その中には豪商として有名な紀伊国屋文左衛門もいたということです。

 また、深川には数多くの寺院が集まりました。そのきっかけとなったのが明暦三年(1657)に江戸を襲った「明暦の大火」です。この大火の後、「霊巌寺」などの大寺院が深川へ移転してきたのです。現在も、深川には江戸時代から続く歴史ある寺院が数多く残っています。今回の街歩きでは、そのようなお寺を訪れ閻魔大王や巨大なお地蔵さまに出会うことができました。

 深川は、行楽地、物流拠点、寺院など様々な表情を持った町でした。さらに、深川は江戸時代の文化人たちを生み出した町でもありました。「南総里見八犬伝」の作者である滝沢馬琴は深川の生まれです。また、松尾芭蕉は、奥の細道へ旅立つ前に深川へ移り住んでいました。

 元禄時代芭蕉は江戸日本橋に居を構え俳句の世界で隆盛を極めていました。その当時の江戸では俳句の愛好者が集まり句会を催すことが流行していました。参加した人々は芭蕉のような師匠から自作の俳句に点数をつけてもらい、中にはその点数の優劣にお金を賭ける不届き者をいたのです。

 芭蕉は句会に参加する顧客から謝礼を受け取っていました。江戸で屈指の俳句師である芭蕉ですから多額の謝礼を貰うことが可能でした。もしも、芭蕉がその生活に満足していれば、「奥の細道」は誕生しなかったでしょう。

 しかし、芭蕉は当時の江戸の俳句に危機感を抱いていたのです。「このままでは、俳句は単なる庶民の道楽で終わってしまう。しかし、自分はそれを見過ごすことはできない。ここは、なんとしてでも俳句を芸術の域に高めるため自分が俳句の道を究めるしかない。」このような思いが、芭蕉の胸の内にはあったのです。

 そこで、芭蕉は富も名誉も捨て、俳句の道を究めるために奥の細道へ旅立ったのです。その旅の出発点となったのが深川でした。今回の街歩きで私が最も心を惹かれたのは、このような芭蕉の生き様でした。なんと高尚な生き様でしょう。人間かくありたいものです。

 さて、最後に現在の深川にも触れておきましょう。江戸時代に繁栄を極めた材木問屋はすっかり影をひそめ、お洒落なカフェへと変貌を遂げていました。なんでも、材木倉庫は天井が高くコーヒーを焙煎するのに都合がよく、ゆったりとした空間でコーヒーを楽しむのに最適だそうです。最近では、深川でカフェ巡りをする人たちも増えているそうです。

 深川の史跡を巡る街歩きは、江戸時代の歴史に触れることはもちろんのこと、江戸時代から現代へ続く歴史の営みを知る旅となりました。

 

今回参考にさせて頂いた資料は以下の通りです。

このまちアーカイブス(三井住友トラスト不動産) 東京都 深川・城東 編

おくのほそ道を旅しよう 田辺聖子 角川ソフィア文庫

 

 

歴史上初の武家政権を樹立したのは平清盛?それとも源頼朝?

◆武士の時代の幕開け

 鎌倉時代に書かれた歴史書愚管抄」のなかで著者の慈円は次のように述べています。「保元元年七月二日鳥羽院うせさせ給いて後、日本国の乱逆と云うことは起りて後、武者の世になりにけるなり。

 慈円は「鳥羽上皇がお亡くなりになってしまったあと日本各地で乱逆が起こり、世の中は武士の時代になってしまった」と嘆いているのです。この乱逆の発端となったのが保元の乱でした。保元の乱とは、保元元年(1156)に鳥羽法皇が死去したことをきっかけに、後白河天皇崇徳上皇の権力争いが激化し勃発した戦いです。天皇側には平清盛源義朝などの有力な武士が味方に付き、上皇側を圧倒して勝利を得ました。論功行賞で平清盛は播磨守に任じられ、源義朝は左馬頭に任じられました。また義朝の息子頼朝は12歳で六位蔵人に任じられ将来の出世が約束された少年貴公子となったのです。まさに源氏や平氏の武力が時代の流れを大きく動かしたのです。

 しかしながら、保元の乱の後に最も大きな権力を掴んだのは武士ではなく、上級貴族の藤原通憲でした。通憲は一般的には信西と呼ばれているので、本文でも今後は信西という呼び名を使います。

 後白河天皇の政権で中枢に就いた信西は、次々と新たな政策を打ち出していきます。平安時代末期は荘園の時代と呼ぶこともできるように、上級貴族や大寺院は膨大な荘園を所有していました。信西はこの荘園の増大化傾向に一定の歯止めをかけるとともに、公領を整備して王朝国家を支える体制を新たに作り出したのです。

 しかし、信西が権力を独占し急速な改革を行ったために、信西に対して反感を抱く貴族もいました。後白河が二条天皇に譲位すると天皇の周囲には反信西の一派が集まり、新たな権力争いの火種が生まれたのです。

 反信西派のリーダーとなったのが藤原信頼でした。信頼は保元の乱の後に急速に台頭してきた貴族です。信頼は源義朝と手を結び、信西を権力の座から追い落とそうと考えました。他方、信西平清盛と結んで信頼・義朝の勢力に対抗しました。こうして両派の対立は緊迫の度合いを高めていったのです。

 

平治の乱 

 平治元年(1159)十二月、藤原信頼源義朝の軍勢は信西を急襲しました。平清盛が一族を引き連れ熊野参詣に出かけ京都を留守した隙をついた奇襲攻撃でした。信頼と義朝は信西を追い込み自害させました。また後白河法皇も幽閉され、信頼と義朝は権力を奪取することに成功したのです。

 しかし、信頼と義朝の栄光は長続きしませんでした。紀州で都の政変を知った平清盛が、紀州や伊賀の軍勢を率いて京都へ戻ってきたのです。帰京した清盛は、後白河法皇二条天皇を自分の陣営に取り込むことに成功し官軍となりました。

 一方、信頼と義朝は、信西を急遽襲撃したので大軍勢を集める時間がなく、軍勢の数では清盛方に劣っていたのです。自分たちの状況が不利になったことを悟った藤原信頼は降伏しましたが、斬首されました。また、都の戦いで敗れた源義朝は、再起を図ろうと東国をめざして逃亡していましたが、味方に裏切られ殺されました。父の一行とはぐれた頼朝は、平氏方に捕らえられましたが清盛の継母である池禅尼の嘆願によって命を救われ伊豆へ流されたのです。

 

平清盛の政権

 平治の乱に勝利した平清盛は、後白河派と二条派の間で巧妙に立ち回り貴族としての地位を上げていきました。そして仁安二年(1167)に清盛は従一位太政大臣になったのです。平清盛は、武家貴族として最初の政権を樹立したのです。

 では、清盛の政権とはどのようなものであったのでしょうか?清盛は福原に遷都し日宋貿易に積極的に取り組みました。しかし、外交や交易は、遣隋使や遣唐使など以前から朝廷によって行われていましたので、これをもって武家政権の特徴であるとは言えません。

 清盛政権の一番の特徴は、清盛の巨大な権力を背景にして平氏一門が繁栄する社会をもたらしたということです。

 清盛の息子である重盛は、東海、東山、山陽、南海の賊徒の追討権、全国的な軍事警察権が与えられました。軍事部門だけではなく、平氏一門は経済的にも大繁栄していました。全盛期の平氏一門は25の知行国をもっていました。知行国とは、上級貴族のみに与えられた特権で、一国の支配権を持ちその国からの収益を取得できることができました。平安時代末期には朝廷の財政が悪化し上級貴族に俸禄が支給できなくなったので、このような制度がつくられたのです。

 ところで、源頼朝が伊豆へ流されていた時の知行国主は源頼政でした。頼政平治の乱では平清盛に味方したので、源氏であってもその地位は守られていたのです。頼政伊豆国の受領に長男の仲綱を任命しました。国主と受領は在京しており現地を管理する目代(代官)には仲綱の息子の有綱が派遣されていました。そして、目代の下で仕事をする現地の役人たちが在庁官人と呼ばれていました。頼朝を婿に迎えた北条時政は、この在庁官人の中のひとりであったのです。頼政という源氏の知行国主がいたおかげで、頼朝の流人生活は案外平穏で自由な生活であったのです。

 ところが、治承四年(1180)四月、後白河院の第二皇子である以仁王平氏追討の令旨を下しました。源頼政以仁王に従って挙兵しましたが、清盛の軍勢に敗れました。その結果、伊豆の知行国主は平時忠が就任し、受領は時忠の養子の時兼が任命され、目代には山木兼隆が指名されました。以仁王の反乱が失敗したことで伊豆国の情勢は大きく様変わりし、それによって源頼朝北条時政の平穏な生活は一変したのです。

 

 知行国(公領)における地位をまとめると、次のようになります。

 知行国主→受領→目代→在庁官人

 

 また、荘園(私有地)にける地位は次の通りです。

 本家→領家→預所下司

 

 平安時代以降、日本の社会の基盤を支えていたのは、このような公領や荘園などの土地制度でした。前述したように、土地制度は何層にも階層化され上流貴族や大寺院だけではなく、中流貴族や地方の武士たちも関わる巨大なシステムだったのです。

 平清盛は、その既存のシステムを利用して平氏一門が繁栄する社会を創り出したのです。平氏一門の中でも、上級貴族の地位を得た者は知行国主になっていました。そうでない中流貴族は、領家や預所という職を得て公領や荘園から実質的な利益を得ていたのです。平氏一門が関わる荘園は全国に五百箇所余りあったということです。

 平安時代知行国や荘園の職に任じられるためには、朝廷から貴族としての官位を授けられることが必要でした。たえば、知行国の受領の職に任じられるためには四位、五位という中流貴族としての官位が必要です。

 すなわち、清盛の政権は、皇室や摂関家と婚姻によって関係を深め、貴族社会の制度に影響を及ぼすことで平氏一門の官位を上げ、一門の人々や媚びへつらって清盛に接近してくる者を知行国や荘園の職に就けることで支配体制を確立していたのです。その意味で、清盛の政権は「平氏平氏による平氏の為の政権」であったと言えるのです。

 時々、源平合戦平氏が敗れた原因は、「武家である平氏が貴族化したために軟弱になったからだ」という説を目にすることがあります。私たちが貴族に対して持つイメージが、源氏物語で出てくる光源氏のようなものだからでしょうか。しかし、平氏はもともと武芸に優れた下級貴族でした。平氏武家貴族として勢力を拡大してきたのです。平氏は、源頼朝が挙兵した当時でも日本で最強の武家集団であったのです。

 ですから、「貴族化=弱体化」ではありません。平氏一門が源頼朝に敗れたのは、平氏一門だけが繁栄する社会となったために、その恩恵を受けることのできないアンチ平氏の人々の不満が諸国に蔓延し、アンチ平氏の怒りが最終的に源頼朝のもとに結集したからなのです。

  

大庭景親の下向と頼朝の挙兵

 平清盛は、以仁王の反乱に加担した源頼政に繋がりのある残党を討伐するため大庭景親を東国へ派遣しました。大庭景親は、「東国ノ御後見」という特別な地位を清盛から与えられ相模国にある自分の領地へ戻ったのです。景親は、これまで相模国で軍事・警察機能を司っていた三浦氏や中村氏からその権力を奪い取りました。こうした景親の活動が源頼朝に危機意識をもたらし、同時にアンチ平氏の勢力を伊豆国相模国に生じさせたのです。

 治承四年(1180)八月、源頼朝は伊豆で挙兵しました。石橋山の合戦では大庭景親の軍勢に敗れましたが、その後海路房総半島へ渡り、上総広常など坂東武者の支援を得て鎌倉へ入り、富士川の合戦で平維盛が率いる平氏の軍勢を破り、東国から平氏の勢力を一掃することに成功しました。

 しかし、この時点で頼朝は依然として謀反人のままでした。かつて、平治の乱に敗れ伊豆へ流された罪はまだ解かれていなかったのです。頼朝に転機が訪れたのは、富士川合戦の勝利から三年後のことでした。

 その三年間、権力の座に座っていたのは木曽義仲でした。義仲は平氏勢力を京都から一掃することには成功していましたが、その後は評判を落としていました。義仲の軍勢は都やその周辺でしばしば乱暴狼藉を働いていたので朝廷や貴族から不評をかっていました。また、義仲は皇位継承にも口を挟んでいたので、後白河院からも嫌悪されていました。後白河院の信頼は頼朝の方へ向かっていたのです。

 そこで、後白河院は、義仲が平氏討伐のため西国へ出陣した隙に、頼朝と交渉を始めたのです。この交渉の結果、頼朝は「永寿二年十月宣旨」によって謀反人の立場を脱し、名誉を回復したのです。

 頼朝は、東海道東山道国衙領、荘園を朝廷に返還することを約束しました。それによって頼朝はようやく謀反人の罪から解放されたのです。ですが、せっかく平氏から奪い取った領地を全て朝廷に返還してしまったのでは、頼朝には何のメリットもありません。そこで、頼朝は、領地を所有することができなくても、土地を支配する方法を取ることにしたのです。その方法とは、東海道東山道の年貢を納める全責任は頼朝が負い、従わない者は頼朝が罰するという権利を得ることでした。

 「永寿二年十月宣旨」によって、頼朝は東海道東山道を実質的支配する権利を獲得したのです。そして、富士川合戦の戦果として頼朝の軍勢が略奪した平氏方の領地の支配権が、頼朝にあることを朝廷は公式に認めたことになりました。

 

源頼朝の政権

 文治元年(1185)三月、平氏は壇ノ浦の合戦で源義経の軍勢に敗れついに滅亡しました。戦功を挙げた義経後白河院と接近し、頼朝と対立するようになりました。後白河院は、頼朝の勢力が巨大化することを恐れ、義経の軍事力を利用して頼朝の勢力拡大に一定の歯止めをかけようとしたのです。しかし、義経は京都周辺や西国において味方の軍勢を集めることができず、京都を逃れ奥州藤原氏を頼ることになったのです。

 義経が失脚したことで、頼朝は後白河院に圧力をかけ、文治勅許を引き出したのです。文治勅許によって、頼朝は守護・地頭を任命する権利を得ることができました。この権利を得たことが、頼朝政権の大きな特徴となるのです。

 守護は一国につき一人が任命され軍事・警察権を司っていました。地頭は、年貢の徴収・納入や土地の管理、治安維持を職務としていました。頼朝は平氏方の荘園を没収し戦功のあった武士たちに恩賞として荘園の地頭職を与えることにしたのです。

 実は、頼朝は富士川合戦の直後から恩賞として地頭職を与えていたのですが、前述したように富士川合戦時の頼朝はまだ謀反人であり、頼朝が任命した地頭は非合法のものでした。それが、文治勅許によって地頭職は合法の立場となり、伊豆での挙兵から富士川合戦に至る戦いで戦功を挙げた武士たちの恩賞も公式に認められたのです。

 源頼朝は、荘園制度の下司に相当する職を地頭として味方の武士に与えたのです。頼朝も、清盛と同じように荘園制度を利用して政権を作りました。ただし、清盛のやり方と大きく異なる点があります。それは、地頭職を任命する権限を有するのが頼朝ただ一人であるということです。前述したように、平安時代において荘園の職に就くには朝廷や貴族社会の制度に従う必要がありました。この制度が存在していては、武士が恩賞として荘園の職に就くためには朝廷から官位を授かるか、荘園領主からの任命を得る必要があったのです。

 しかし、頼朝は地頭職の任命権を独占することで、恩賞を貴族制度から切り離すことに成功したのです。そうすることで、東国武士が官位を授けられ院や朝廷と直接結びつくことを防ぎました。平氏を滅亡させた義経後白河院と接近し、頼朝の対抗勢力になる恐れがありました。頼朝はそのようなリスクを排除するため、東国武士との間に直接の主従関係を結び、強力な軍事勢力を確保し続けるシステムを創り上げたのです。

 頼朝は、戦功を挙げた武士に恩賞として地頭職を与えました。武士は土地を所有したのではなく、その土地を管理し徴税・納税する職を得たのです。武士は地頭として土地から得られる利益(得分)を自分のものにすることができ、実質的に土地を支配する権利を得たのです。武士は、頼朝への奉公を尽くすことで、地頭職を嫡子へ相続することもできたのです。それが、「一所懸命」という概念です。

 頼朝は、地頭職を任命することによって武士と主従関係を結び、御恩と奉公という武家社会の基本制度を成立させたのです。こうしてみると、頼朝が樹立した政権は、「武士の武士による武士の為の政権」ということができるでしょう。

 頼朝が、武家政権を樹立したことによって荘園制度にも大きな変化が生じました。それまでの荘園領主である本家や領家は、京都に居ながら遠隔地である地方の荘園に対して強力な支配力を持っていました。その支配力の源泉は在地代官の人事権を持っていることにありました。しかし、その人事権は頼朝に奪われ、やがて鎌倉幕府へと引き継がれていきます。この変化は、長い年月をかけて荘園制度を徐々に衰退に向かわせることになり、戦国時代には荘園制度は消滅してしまうのです。

 

今回参考にした文献

日本社会の歴史(中) 網野善彦 岩波新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

荘園 伊藤俊一 中公新書

源氏と坂東武士 野口実 吉川弘文館

 

 

頼朝の実像  歴史的合戦の勝利はなくとも政治家として武家の世を開いた武将   

◆頼朝の人気は?

 源頼朝平氏を倒して鎌倉幕府を開き、武家政権の礎を築き上げた英雄です。頼朝は日本人の誰もが知っている歴史上の偉大な人物ですが、戦国時代の英雄である織田信長豊臣秀吉に比べると人気の点ではかなり劣っているような気がします。

 頼朝の人気が低いのは、まず第一に歴史上有名な合戦で勝利を挙げたという実績がないからだと思います。織田信長は「桶狭間の合戦」や「長篠の合戦」で勝利し天下人となりました。しかし、明智光秀が起こした謀反「本能寺の変」によって命を落とします。本能寺の変を知った豊臣秀吉は、主君信長の仇を討つため奇跡と呼ばれる「中国大返し」を行いその後の「山崎の合戦」で明智光秀を倒し天下取りへの名乗りを挙げました。そして、徳川家康は、天下分け目の「関ヶ原の合戦」に勝利しその後約260年間続く徳川時代を創り出したのです。このように、歴史上の英雄たちは、彼らの歴史を代表するような合戦において勝利を挙げてきたのです。

 では、源頼朝には誰もが知るような大きな合戦で勝利した実績があるのでしょうか?武士の時代を切り開いた源平合戦の歴史を辿りながら、頼朝の戦績を見ていきましょう。

 

◆頼朝の戦いの歴史

 治承四年(1180)八月十七日、頼朝は打倒平氏の戦いを始め、緒戦において伊豆目代山木兼隆を討ち取ることに成功しました。しかし、その戦いの日は三島神社の祭礼の夜にあたり、多くの家来たちが外出して警備が手薄になっていた目代の館を襲撃したという小規模な戦いでした。その後、頼朝は石橋山の合戦で大庭景親の軍勢に敗れ、絶対絶命の危機に陥りましたが、敵方の梶原景時の「有情之慮」によって命を救われ舟で房総半島へ逃れることができたのです。

 房総半島にたどり着いた頼朝は、上総広常の支援を受けてようやく態勢を整えることができました。房総半島では、上総広常や千葉常胤などの坂東武者が平氏平氏家人から圧迫を受け、彼らがもともと持っていた既得権を失おうとしていました。そのため、上総氏や千葉氏は頼朝が挙兵しなくとも平氏と戦う決意をしていたのです。そこへ、平氏との戦いを始めた頼朝が現れたので、彼らは頼朝を受け入れることにしたのです。

 彼らが頼朝を受け入れた最大の要因は、源頼朝がかつて武家の棟梁として坂東に君臨した源頼信源義家など河内源氏嫡流であり、その血筋が反平氏の象徴としてふさわしい旗印になったからなのです。頼朝は、以仁王の令旨を掲げ東国の武士たちに打倒平氏のため頼朝のもとへ集まるように呼びかけたました。やがて、反平氏の坂東武者たちが次第に頼朝のもとに集結してきました。武蔵国では当初平氏方についていた畠山重忠河越重頼なども、頼朝軍が優勢になってきたのを見て頼朝側へ寝返りしてきました。いつのまにか、頼朝には数万騎の味方がついていました。大軍勢を従えた頼朝は、平氏方を圧倒して鎌倉入りを果たすことができたのです。

 一方、福原にいた平清盛は、頼朝挙兵の知らせを受けるとすぐさま、反乱を鎮圧しようと追討軍を東国へ送り込みます。平氏の軍勢と頼朝の軍勢は、駿河富士川で対峙しました。ところが、富士川にたどりついた平氏の軍勢はわずか4千騎でした。ちょうどそのころ飢饉が発生し兵糧が不足していたため、東海道を進軍する平氏の追討軍に加わる武士が少なかったのです。数で劣る平氏軍は、数万騎の頼朝軍の敵ではありませんでした。さらに、駿河にいた平氏の味方は、追討軍が到着する前に甲斐源氏武田信義の軍勢と戦い、鉢田山の合戦で大敗北を喫していました。そのため、平氏方の軍勢は戦意に乏しかったのです。富士川の合戦は、本格的な合戦が起きることなく、平氏軍が自滅的に潰走して頼朝軍の勝利に終わったのです。また、石橋山の合戦で頼朝を破った大庭景親と伊東佑親は捕えられ処刑されました。

 このように、伊豆での挙兵から鎌倉入りするまでの間、頼朝は自分自身が軍事的なカリスマ性を発揮して戦いに勝利するという機会を得ることができませんでした。大合戦に勝利するという華々しい出来事はありませんでしたが、源頼朝は東国から平氏の勢力を一掃することに成功したのです。頼朝は、平氏から奪った所領を手柄を立てた坂東武者に与えることで、主従関係を結び東国を支配する体制作りに着手したのです。

 

◆ライバルの出現で頼朝の戦績は霞むことに

 富士川合戦で大敗した平清盛は、態勢を挽回すべく陣頭指揮をとり畿内では反乱軍の鎮圧に一定の成果を上げていましたが、治承五年(1181)に病に倒れ急死してしまいました。源頼朝は、ついに宿敵平清盛を武力によって倒す機会を得ることができませんでした。さらに、京都では武家の棟梁としての頼朝の立場を揺るがすような事態が起こりました。

 頼朝の従弟にあたる木曽義仲北陸地方の軍勢を集め平氏との戦いを展開していたのですが、寿永二年(1183)五月倶利伽羅峠の合戦で平氏軍に大勝しその勢いで京都へ攻め込む姿勢を見せたのです。窮地に陥った平氏一門は、京都を捨て西国へ逃げ去りました。世に言う平氏都落ちです。木曽義仲という新たなライバルが出現したことで、頼朝の軍事的な功績は一層霞んでしまいました。

 京都を手中に収めた木曽義仲は、従五位下伊予守に任じらました。伊予守は受領職の最高峰で源氏では源頼義が任官した官職であり、河内源氏にとっては特別な地位なのです。その伊予守に木曽義仲が任官したことは、朝廷が義仲を武家の棟梁であると認めたことになるのです。

 しかし、木曽義仲皇位継承者を巡り後白河法皇と対立し立場を悪化させました。さらに、義仲の率いた軍勢は、食糧確保のため京都やその周辺で乱暴狼藉を働き評判を落としました。義仲は、軍兵たちの略奪行為を制御できなかったので、朝廷からの支持を失ってしまったのです。

 失地回復を目指した木曽義仲は、平氏を討伐するため西国へ出陣しましたが、逆に平氏からの返り討ちを受け、敗北を喫して京都へ戻りました。ちょうどそのころ後白河法皇は、源頼朝に上洛を要請していました。そこで、頼朝は、弟の源義経に軍勢を与え上洛させ、続けて源範頼も援軍として派遣しました。義経軍と範頼軍は木曽義仲の軍勢を挟撃し、木曽義仲は近江の粟津の合戦で討ち死にしました。

 さらに、義経は西国へ進軍しました。戦闘指揮官として優れた才能を持つ源義経は、一の谷の合戦、屋島の合戦で次々に平氏を破り、ついに壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させたのです。

 

源平合戦で英雄になったのは義経

 ここまで、源平合戦の流れを非常に大雑把に急ぎ足で見てきました。治承四年(1180)に平氏打倒のため挙兵したのは源頼朝でしたが、文治元年(1185)に壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡させ源平合戦終結させたのは源義経でした。名声を上げた義経後白河法皇の厚い信任を受けました。しかし、そのせいで義経は兄頼朝との関係が悪化しついには頼朝から敵視されて滅ぼされてしまうのです。

 このような歴史の流れを追いかけていくうちに、現代の私たちは源義経を英雄視する一方で、源頼朝義経を死に追いやった冷酷な人物と評するようになったのです。頼朝は、安全な鎌倉で指揮を執り、危険な戦場へは弟たちを赴かせたという印象も持ってしまいます。

 しかし、それは歴史の一面しか見ていないように私には思えます。私たちは源頼朝の実像を見誤っているのではないでしょうか?

 

◆頼朝は優れた統率者

 歴史の舞台に登場したころの源頼朝は、確かに頼りない存在でした。平治の乱に敗れ死刑にされるところを、平清盛の継母である池禅尼の助命嘆願によって命を救われ罪人として伊豆に流されていたのです。そのころの頼朝には、地位も名誉も権力もありませんでした。頼朝にあったのは河内源氏嫡流という貴種としての血筋だけでした。

 ところが、平清盛が進めた政策は平氏だけが繁栄する社会を創り出してしまったので、貴族や平氏とは利害の反する武士たちの間で反平氏の機運がたかまり、頼朝はその血筋のおかげで東国の武士たちに担ぎ上げられ、打倒平氏の戦いに身を投じることになりました。伊豆で挙兵した当初の頼朝は、まだ担がれた御神輿に過ぎなかったと思います。

 しかし、鎌倉入りを果たした頼朝は変貌を遂げていきます。頼朝のもとには数万の大軍勢が集まっていました。ですが、その軍勢はもともと上総広常が率いていた軍勢が中心になっています。言わば、頼朝は他人の軍勢を借りているに過ぎないのです。また、東国武士の多くは打倒平氏という目的だけで集結してきており、同床異夢の武士たちも多数いたのです。

 その寄せ集めとも言うべき大軍勢を、頼朝は巧みに統率していく術を身に着けていくのです。まず、頼朝が行ったことは挙兵当初敵方についた首藤経俊を助命したことです。首藤氏は河内源氏の代々の重臣として仕えてきた武士であり、頼朝が最も信頼している武士でした。ところが、首藤経俊は頼朝の挙兵の呼びかけを拒否し、大庭景親の味方につき石橋山の合戦で頼朝と戦ったのです。

 鎌倉入りを果たした頼朝の前に、首藤経俊は引き出されましたが、頼朝は経俊を処罰することなく許しました。頼朝が裏切り者を許したという寛大な措置は、東国武士たちの心をとらえたのです。これ以降、当初は平氏方についていた武士たちも頼朝のもとへ続々と集まるようになったのです。また、頼朝は武士たちに私心を捨て、打倒平氏のため一致団結するように呼びかけました。自らが私心を捨てた頼朝の言葉は東国武士たちの心に強く響いたのです。

 

◆頼朝は武家政権の基礎を一人で創り上げた 

 源頼朝は、河内源氏にとって聖地とも言うべき鎌倉に本拠地を定めたました。頼朝が鎌倉から動かなかったのは、決して戦場へ出ることを恐れたためではありません。頼朝には鎌倉でなすべきことがあったのです。それは、平氏勢力を一掃しせっかく手に入れた東国を自らが支配する王国とするための土台作りでした。

  頼朝のもとには数万の軍勢が集まっていましたが、それは東国の有力な武士が率いてきた軍勢です。頼朝は、彼らの直接の主人ではありませんでした。頼朝は、東国の王者となるために、大軍勢を直接支配するためのシステムを作る必要があったのです。そのシステムこそが、新恩給与本領安堵です。

 頼朝は、武功を立てた武士に恩賞として所領を与えること(新恩給与)で直接主従関係を結び東国武士の主人となることができたのです。頼朝と主従関係を結んだ武士は頼朝に奉公することで所領を子孫に相続すること(本領安堵)が許されました。頼朝は新恩給与本領安堵をおこなったことで、東国武士団を自らの軍勢とすることに成功したのです。そのことは、永寿二年に頼朝が上総広常を粛清した時に、東国武士団の間に動揺が起きなかったことによっても証明されています。この時、頼朝はもともとは上総広常が率いていた2万の軍勢を直接支配しており、もはや広常を必要としていなかったのです。

 頼朝は、平氏が支配していた所領を奪い取ったのですが、これを私的に分配したのでは略奪者と同じことになってしまいます。そこで、頼朝は朝廷と外交交渉を展開し、東国を支配するシステムの根幹である新恩給与本領安堵を頼朝独自の権利として認めさせることに奔走したのです。

 まず、頼朝は朝廷から寿永二年十月宣旨を出させることに成功しました。頼朝は東海道東山道国衙領と荘園を朝廷に全て返還すると約束したのです。頼朝は、何故せっかく手に入れた土地を全て朝廷に返還したのでしょうか?それは、頼朝が罪人であることを許され地位と名誉を回復するための手段でした。

 しかし、土地を全て返還してしまったままでは、頼朝は打倒平氏のために戦ってくれた東国武士たちに対して恩賞を与えることができません。そこで、頼朝は東国の国衙領や荘園から年貢をとって朝廷へ納める責任は全て頼朝が負うという付帯条項をつけたのです。この付帯条項のおかげで頼朝は、実質的に東国の土地を全て支配する権利を手に入れたのです。頼朝は、この「年貢を徴収する権利」を武士たちに分け与え戦功の恩賞としたのです。

 さらに、頼朝は文治元年(1185)に平氏が滅亡すると文治勅許を朝廷から勝ち取ります。この文治勅許によって頼朝は守護・地頭を任命する権利を獲得したのです。守護は一国一人制で軍事警察を司りました。地頭は荘園や公領ごとに配置され、年貢の徴収や土地の管理などを担う職ですが、頼朝は地頭職に武士を任命することで新恩給与本領安堵を公式な制度として実行することができるようになったのです。

 頼朝と主従関係を結んだ武士は、恩賞として土地の所有権を与えられるのではなく、地頭職を任命されることになったのです。地頭に任命された武士は、土地の所有権は無くとも年貢を徴収できるので、定められた年貢よりも多く収穫された米や農産物、特産品は地頭の所有物=利権となるのです。すなわち、地頭職に任命された武士は、その土地から得られる利権を手に入れることができるようになり、地頭職を子孫に相続することができるようになったのです。それが頼朝と武士が主従関係を結ぶ大きなメリットとなったのです。

 この守護・地頭を任命する権限は征夷大将軍だけが持つ独特の権限であり、その後の歴史において武家政権を支える大きな基礎となる制度となったのです。頼朝はこの制度の根幹を一人で考えだし、一人で朝廷と交渉して作り上げたのです。

 頼朝は、戦場での指揮官として能力を発揮する機会に恵まれることはありませんでしたが、もっとスケールの大きな国家レベルの戦略という分野において優れた能力を発揮した人物でした。頼朝が築いたシステムがあったからこそ、その後の鎌倉幕府室町幕府など武家政権が繁栄を遂げることができたのです。

 

◆頼朝の軍事実績

 源頼朝が、大規模な合戦を指揮し勝利したことが一度だけありありました。あまり一般的には知られていませんが、奥州藤原氏を滅亡させた奥州合戦がその戦いです。

 頼朝は義経を敵視し滅ぼそうとしましたが、義経は逃亡し奥州平泉の藤原秀衡のもとに匿われていました。しかし、秀衡が死去すると奥州藤原氏は内乱状態に陥りました。頼朝は藤原氏の内乱につけこみ藤原泰衡義経を討伐させました。この時点では、頼朝はまだ軍事行動を起こしていません。義経を直接滅ぼしたのは、あくまで藤原泰衡です。しかし、泰衡が頼朝の圧力に屈して義経を滅亡させたのは間違いありません。

 頼朝は、その藤原泰衡を討伐することにしたのです。東国の完全支配を目指す頼朝にとって奥州藤原氏は倒さなければならない存在でした。文治五年(1189)七月頼朝は大軍勢を率いて奥州へ攻め入りました。総勢24万騎の軍勢を三手に分けて進軍する大規模な軍事行動を行い奥州藤原氏を滅亡させたのです。東国の完全制覇を成し遂げた頼朝はその後上洛し、征夷大将軍となったのです。

 

今回参考にさせて頂いた文献

源頼朝 元木康雄 中公新書

頼朝と義時 呉座勇一 講談社現代新書

新詳日本史 浜島書店

詳説日本史 山川出版